Episode 000-1: 青き日のノイズ
物語は、2026年冬の札幌から始まります。 ありふれた日常、幼馴染との会話、そしてスープカレー。 しかし、掌に落ちた雪片が「溶けない」ことに気づいた瞬間、世界の崩壊は静かに幕を開けていました。
【登場キャラクター】
高瀬タケル: 主人公。コールセンター勤務。サチ、ヤマトと三人で暮らしている。
高瀬サチ: タケルの妹分。明るい性格だが、異変を最初に感知する。
大継ヤマト: タケルの親友。冷静沈着な理系男子。世界の異変にいち早く気づく。
Part 1: The Glitch in the Blue
肺が凍るような、透明な痛み。
札幌の冬は、温度計の数字以上に「痛覚」に訴えかけてくる。 午後四時過ぎ。 地下歩行空間の生温かい空気を抜けて、大通公園への階段を上がった瞬間、世界は群青色に沈みかけていた。
吐き出した白い息が、視界の端で瞬時に霧散する。
「……で、だ。」
俺は襟元を合わせながら、隣を歩く二人に振り返った。 重要な議題を再開するために。
「今日の夕飯における『スープカレー』という選択肢について、改めてプレゼンしたい。」
俺の宣言に対し、左側を歩く大継ヤマトは、無表情のままスマホの画面をスクロールしている。 相変わらず、精密機械のように整った顔立ちだ。黒いロングコートが、雪景色の中で異様に映える。
「却下だ。」
ヤマトの返答は、コンマ一秒の遅れもなく、あまりに冷淡だった。
「理由は。」
「昨日もカレーだった。」
「昨日はルーカレーだ。いいかヤマト、よく聞け。ルーカレーとスープカレーを同一カテゴリに分類するのは、『うどん』と『パスタ』を『麺類』という一点だけで混同するごとき暴挙だぞ。」
「原料はスパイスと野菜だ。栄養素的に重複している。」
「そこじゃない! 俺が言っているのは『概念』の話だ。ルーカレーは食事だが、スープカレーは薬膳だ。つまり実質的な医療行為なんだよ。」
「……タケル。」
右側から、呆れたような溜息が漏れた。 高瀬サチ。 マフラーに顔を半分埋めた彼女が、白いミトンを嵌めた手で俺の背中を叩く。
「声が大きい。医療行為なら病院に行きなさい。」
「サチまでそんなことを言うのか。俺たちのソウルフードへの冒涜だぞ。」
「はいはい。で、ヤマト君は何がいいの。」
サチが水を向けると、ヤマトはふと足を止め、視線を空へと投げた。 テレビ塔のデジタル時計が、オレンジ色の光で『16:12』を示している。
「……俺は、何でもいい。」
「出たよ。一番困るやつ。」
「タケルが決めていいぞ。ただし、ブロッコリーが素揚げされている店に限る。」
「こだわりあるじゃねえか。」
俺がツッコむと、サチがくすりと笑った。 マフラーの隙間から覗くその笑顔を見ると、凍りついた空気が少しだけ緩む気がした。
他愛のない会話。 どうでもいい論争。 コールセンターでのクレーム処理で削れた魂が、この時間だけで修復されていく。 俺と、妹のサチと、ヤマト。 幼馴染であり、今は同じ屋根の下で暮らす家族同然の三人。 この関係が、この日常が、明日も明後日も続いていくことを、俺は疑いもしなかった。
大通公園を西へ向かって歩く。 雪まつりの準備だろうか。遠くで重機の動く音が聞こえる。 空は重く垂れ込め、今にも雪が落ちてきそうだ。
「……あ。」
サチが、不意に足を止めた。 眉間に皺を寄せ、こめかみの辺りを指先で押さえている。
「どうした、サチ。」
「ううん……なんか、変な音がして。」
「音?」
俺は耳を澄ませる。 車の走行音。信号機のメロディ。遠くの喧騒。 いつもの札幌の音だ。
「キーンって……すごく高い音が、頭の奥で響いてるみたいな。タケル君、聞こえない?」
「いや、俺には何も。」
ヤマトを見る。 彼はサチの方を見ず、また空を見上げていた。 その瞳は、何かを探すように鋭く細められている。
「ヤマト。」
「……気圧のせいだろう。低気圧が近づいている。」
ヤマトは視線を戻さずに言った。 その声には、妙な緊張感が混じっているように聞こえた。
「大丈夫か? 少し休むか?」
「平気。ごめん、なんかめまいがしただけかも。」
サチは気丈に笑ってみせたが、その顔色は雪のように白かった。
ふわり、と。 視界の端を、白いものが横切った。 雪だ。 鉛色の空から、一粒、また一粒と舞い降りてくる。
「降ってきたな。」
俺は何気なく、右手の手袋を外し、素手を差し出した。 掌の上に、ひとひらの雪片が舞い降りる。
通常なら、それは体温に触れた瞬間に溶けて、水の染みになるはずだった。
パキン。
硬質な音が、俺の鼓膜を叩いた。
「……え?」
俺は自分の掌を凝視した。 雪は、溶けていなかった。 それどころか、六角形の結晶の形のまま、まるで薄いガラス細工のように細かく砕け散っていた。
キラキラと、砕けた破片が皮膚の上で光を反射している。 冷たくない。 水にならない。 ただの「硬い物質」としての雪。
「なんだ、これ……。」
指先で触れようとした瞬間、フッとその破片は掻き消えた。 まるで、最初からそこに存在しなかった映像データのように。
「今の、見たか?」
俺は慌てて二人に同意を求めた。
「何が?」
サチが不思議そうに首を傾げる。 彼女には見えなかったのか。 いや、俺の見間違いか? 疲れているのかもしれない。連日の残業で、眼球が悲鳴を上げているんだ。
そう自分に言い聞かせようとした時、ヤマトが低く呟いた。
「……そろそろ、限界か。」
「え? 何がだよ。」
「いや。……腹が減ったと言ったんだ。」
ヤマトは俺の方を見向きもせず、早足で歩き出した。 その背中は、何かから逃げているようにも、あるいは何かを待ち構えているようにも見えた。
空を見上げる。 テレビ塔の先端が、灰色の雲に突き刺さっている。 その雲の切れ間から、一瞬だけ、あり得ない色の光――どす黒い赤色の稲妻のようなものが走った気がした。
ドクン、と心臓が跳ねる。 嫌な予感。 生物としての本能が、ここから逃げろと警鐘を鳴らしている。
「タケル、置いてくよ!」
数メートル先で、サチが手を振っている。 日常の風景。 愛すべき笑顔。 俺は首を振り、こびりついた不安を振り払うように駆け出した。
「待てよ! わかった、店は任せる!」
俺は走る。 まだ、気づいていなかった。 俺の掌に残った微かな「違和感」が、世界の終わりを告げる最初のノイズだったことに。
雪が、激しくなり始めていた。 それはまるで、これから訪れる崩壊を隠すための、白いカーテンのようだった。
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お読みいただきありがとうございます。 日常の終わりは、爆発やサイレンではなく、静かな「違和感」から始まりました。 次回、視点は札幌の各地へ。世界そのものが「処理落ち」を始めます。




