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婚約者様、さようなら。わたくしは『装飾品』ではありません。  作者: 赤林檎


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8.ついに『その時』がやって来た

 アマリアはそれでも、まだサンドロの婚約者だった。


 心を殺し、感情を押し殺して……。


『まだ、その時ではない』


 アマリアの先祖、ディエゴの言葉である。


 王が戦を早く終わらせようと焦り、敵の城に攻め入ろうとした時、ディエゴは王の不興を買うことをも恐れず、王の前に進み出た。


 そして、ディエゴはこの一言で、王を諫めたと伝えられている。





 ――ある舞踏会の夜、ついにアマリアにとっての『その時』がやって来た。


 アマリアはその日もサンドロに放置され、休憩室のソファで休んでいた。


 アマリアには、王立学院で友達だった令嬢たちの目を気にしつつ、サンドロの気を引いたり、話しかけるタイミングを伺う必要など、もうなかったからだ。


 アマリアがソファに座ってぼんやりしていると、サンドロの話し声が聞こえて来た。


 サンドロは、まさかアマリアが隣の部屋にいるとは思わなかったのだろう。


「アマリアとはいずれ婚約破棄するつもりだ。そうしたら、私は君と結婚できる。君は未来の公爵夫人だ。……なあ、いいだろう?」


 サンドロの声音は妙に甘く、不思議なほどにやさしかった。


(ああ、やっぱりサンドロ様は、婚約を破棄するつもりなのね……)


 アマリアの胸の奥で、張り詰めていた糸が静かに解けていくような感覚があった。


(困窮しているレザル公爵家と、飢えや寒さに苦しむ領民たちは、サンドロ様と、今お隣の部屋にいる方が結婚することで助けられることになるのね。それなら、わたくしも安心できるわ)


 かつてディエゴが王に語った『その時』が、ついに自分にも訪れたのだと、アマリアは悟った。





 煌びやかな舞踏会が終わり、人々の姿がまばらになった頃。


 アマリアは、サンドロにそっと声をかけた。


「サンドロ様、少しだけでいいので、どうかお時間をいただけませんか……?」


「……面倒だが、少しならな」


 アマリアはサンドロを会場の奥にある休憩室の一つへと案内した。そこは、アマリアがサンドロの声を聞いていた部屋だった。


 小さなシャンデリアが明るく輝くその部屋で、アマリアはサンドロに二枚の文書を差し出した。


「……これはなんだ?」


「婚約破棄届出書です。両家への正式な提出の手筈も、すでに整えてあります」


「……アマリア? 君はいったい、なにを言っているんだ……?」


 サンドロの顔に、わずかな狼狽が走った。


「サンドロ様は、わたくしを『装飾品』として扱い、別のご令嬢と密会を重ねておられましたよね。わたくしはもう、すべて知っています。サンドロ様にとって、わたくしは必要のない存在なのでしょう?」


 アマリアの声は、静かだった。


 だが、その静けさの中には、強い決意が宿っていた。


「わたくしは、あなたの隣にただ飾られているだけの『装飾品』ではありません。これからは、自分の人生を、自分の足で歩んでいきますわ」


「……君がこの婚約を破棄する? 馬鹿なことを! これは両家の合意の上に成り立ったものだぞ!」


「ええ。わかっています。だからこそ、すでに両家には正式な書類を提出して、手続きを進めていますわ。わたくしにはすでに、婚約破棄の代償を支払う用意もあります。――わたくしの人生には、サンドロ様も、ターフライ侯爵家も、もう不要なのです」


 そう言い切ったアマリアは、サンドロに鮮やかな笑みを浮かべてみせた。


 サンドロは、驚きに目を見開いていた。


 アマリアはサンドロに背を向けると、颯爽と休憩室を後にした。





 その夜、アマリアはターフライ侯爵家を捨て、一人で屋敷を出た。


 事前に準備していた旅支度だけを手に、新たな地へと向かう。


 目指すは、王都の南方にある静かな街、ラクルベリ。


 かつて老執事が妻の故郷だと語っていたその街は、王都の喧騒から遠く離れた、穏やかな空気に包まれている。


 アマリアが選んだのは、街の外れにある、古びたアパートメントだった。


 平民たちが住む、ありふれた小さな部屋。


 色褪せたカーテンのかかった窓からは、広い青空と、たくさんの建物や石畳の路地が見える。


(あの場所で、わたくしの本当の人生を始めるわ)





 アマリアの手放したものは、大きかったかもしれない。


 侯爵令嬢としての身分。


 公爵夫人という高い地位。


 大きな屋敷で使用人たちにかしずかれること――。


 今のアマリアには、それら以上に大事なものがあった。

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