7.帯剣貴族ターフライ侯爵家の血
舞踏会の夜を境に、アマリアの生活は静かに変わり始めた。
サンドロとの婚約を自ら手放し、自分の意思で未来を切り拓くことを選んだ瞬間から、アマリアにとっての世界の見え方そのものが、少しずつ変わっていったのだ。
自分にはなにができるのか。
どんなことをしたいのか。
なにが好きなのか。
アマリアは自分に問いかけ続けた。
そして、見つけた。
『いつか自分の店を持つ』という、まったく貴族の令嬢らしくない夢を。
かつてターフライ侯爵家に仕えていた老執事が、アマリアに語ったことがあった。
「うちの孫が『大きくなったらお店屋さんをやりたい』なんて申しておりましてな。店の名前は『エデルのお店』にする、などと楽しそうに言っておりました」
老執事のまだ幼かった孫、エデルという小さな男の子の夢だった。
当時のアマリアは、平民らしい夢だとだけ思って聞き流した。
けれど、今になって、その言葉が、なぜか急に胸の奥から甦ってきたのだ。
(会ったこともない男の子の夢が、わたくしの人生を変える……。そんな不思議な巡り合わせがあってもいいわよね)
アマリアは、すでに引退した老執事の懐かしい顔を思い出す。
エデルという男の子は、あの老執事に似ているだろうか……。
(わたくしも、いつか自分でお店をやるわ)
そう心に決めた瞬間、アマリアの内側にこれまでになかった力が生れた。
アマリアの先祖は、ディエゴ・ターフライだ。
かつてディエゴは、安物の剣一本を握りしめて故郷の村を飛び出し、侵攻してきた隣国と戦う王の元に馳せ参じた。
ディエゴは、誰よりも先に敵に斬りかかって行き、退くのは最後だったと伝えられている。
戦功により一代で平民から侯爵にまでなった、『不屈のディエゴ』という二つ名を持つ、屈強なる騎士。
アマリアにも、帯剣貴族ターフライ侯爵家の血が流れている。
(その気になれば、わたくしにだって、なんだってできるはずよ。『不屈のディエゴ』だって、剣一本で平民から侯爵にまでなったのだから――)
アマリアの心の奥底に宿った小さな炎は、少しずつその勢いを強くしていった。
目標が定まれば、やるべきことは山ほどある。
アマリアはすぐに館にある蔵書室へと通うようになった。
簿記の基礎が書かれた本から始めて、経営戦略、物資流通、交渉術、契約書の書き方。
『お店』の立ち上げに必要だと思われる知識を、片っ端から自分の中に取り込んでいった。
さらに、平民として暮らしていくのに必要な知識も、本や使用人に話を聞くなどして得ていった。
ペンを走らせる手は時に痺れ、机に突っ伏して眠ってしまう夜もあった。
料理や皿洗い、拭き掃除などをやってみて、手に豆ができたり、指先が切れて血が出たこともあった。
けれど、かつてのように他の誰かのために、無駄な努力をする日々ではない。
今のアマリアは、自分自身のために生きていた。
これまでとは違う、充実した楽しい時間だった。
それでも時折、ふとした瞬間にサンドロの冷たい目が心に浮かぶことがあった。
アマリアはあの目に、何度自分の存在を否定されたことだろう。
まるで存在しないかのように扱われた日々が、今もアマリアを苦しめる。
けれど、そのたびにアマリアは、机に向かう自分の背筋を正した。
「わたくしは、自分のお店を開いて生きていくのよ」
その決意が、アマリアを再び奮い立たせた。
もはやアマリアにとって、サンドロの目に怯える理由などなかった。
いつか、ただ前だけを見て歩いていくのだ。
アマリアの心の奥底にある炎は、アマリアの未来を照らし始めていた。




