27.アマリアの歩む幸せな人生
王都郊外の丘の上にある石造りの館は、やわらかな陽射しに照らされていた。
灰色の石が美しく詰まれた壁。
風通しの良い洒落た窓。
良く手入れされた庭には、まだ若い木々が並ぶ。
美しく整えられた館にも庭にも、住む者たちの好みが反映されていた。
この丁寧な作りの屋敷が、アマリアとエデルの新しい生活の場だった。
この屋敷には、アマリア&エデル商会の本部が併設されている。
かつてアマリアがエデルにプロポーズされた丘の上には、アマリアとエデルの住む石造りの館に加えて、今では三階建ての立派なアマリア&エデル商会本部の建物が建てられていた。
商会本部の一角には、『アマリア&エデル商人学校』と名づけられた小さな私塾があり、多くの若き商人たちが集う場所となっている。
学びたくても学べなかった子供たちが、文字を覚え、帳簿を読み、独立していく。
生徒たちはみんな、アマリアとエデルを先生と呼んで尊敬していた。
この学校から巣立っていった者たちは、それぞれが自分の力で人生を切り拓いていっていた。
「エデル、わたくし、クッキーを少し焼きすぎたかもしれません」
「それなら、明日の来客用にしたらどうだい? 明日の商談相手は、甘いものが好きだったはずだ」
そんな他愛ない会話が、二人の食卓を彩る。
仕事上の付き合いだけだった頃と同じように、二人のやり取りは時に冷静で実務的だった。
けれど、今は、言葉の端々にお互いへの愛情が滲み出る。
朝は一緒に庭の植物に水をやり、咲き誇る花から漂ってくる甘い香りにほほ笑みあう。
昼からは、商会の経営会議。言葉数が少なくとも、今ではお互いの意図を正確に汲みあえる。
まるですでに長年連れ添った夫婦のようだと、従業員たちに噂されていた。
アマリアとエデルは、夜は少し早めに灯りを落とし、寝台で寄り添って言葉を交わす。
「こうして毎日、心穏やかに一日が終わっていくのが、なんだか不思議だわ」
「急にそんなことを言うなんて、どうしたんだい? なにかあったのかい?」
「なにもないわ。わたくしったら、急にどうしたのかしら……。こうして一緒にいるだけで、安心できる人がいる日常が、今夜は、なんだか……、とても贅沢なことに思えるのよ」
アマリアはエデルにほほ笑みかけた。
エデルはそんなアマリアの手を取り、指先にそっと唇を寄せる。
「アマリア、君がこうして隣にいてくれる日々が、私にとって、どれほど幸せで、満ち足りたものか……。なにか困っていることがあるなら、なんでも私に言ってほしい。私はいつだって、君の力になりたいと思っているんだ」
エデルの言葉の一つ一つには、アマリアへの深い愛が込められていた。
アマリアはエデルの愛情を、今では誰よりもよく知っていた。
そんな日々を重ねて、数か月後――。
アマリアは自分が新しい命を宿していることを知った。
アマリアがエデルにこのことを教えると、エデルは驚いてしばらく固まっていた。
そして、我に返ると、ただ一言「ありがとう」とだけ言って、アマリアをそっと抱きしめた。
アマリアを抱きしめるエデルの顔には、大きな喜びが浮かんでいた。
「あなた、自分が父親になるなんて、想像もしていなかったのではなくて?」
「いや、さすがに少しは考えていたよ。ただ、こんなに幸せだとは、想像もしていなかったな……」
アマリアとエデルの新婚生活には、煌びやかな出来事などほとんどなかった。
けれど、例えば、急に降り出した雨の中、二人で館まで走ったり。
寒い朝に寄り添いながら湯を沸かし、紅茶を淹れて一緒に飲んだり。
疲れて帰った夜に、簡単なもので夕食を済ませたり。
そんな小さな出来事が、二人の幸せな日々を輝かせていた。
さらに数年後。
「ママー! おはようー!」
朝の柔らかな光が射し込むアマリア用の書斎に、幼い女の子の元気な声が飛び込んできた。
旅装に身を包んだアマリアは、手にしていた講演会の資料から顔を上げ、やさしく笑った。
「あらあら、今日も元気いっぱいね」
「だって、今日は大事な日なんだもん! シモーネ、ママとお歌を歌うの!」
駆け込んできたのは、ふわふわの茶色の髪を赤いリボンでまとめた、小さな女の子だった。
アマリアを見上げる瞳は、母親譲りの深い緑。
シモーネは頬を紅潮させながら、アマリアの身体に抱きついた。
シモーネの後ろから、エデルが寝癖を片手で押さえながら入ってきた。
白いシャツのボタンが半分しか留まっていないのが、朝の慌ただしさを物語っていた。
「朝から大はしゃぎだな、シモーネ。ママは今日から、ちょっと遠くまでお出かけなんだ。お仕事の邪魔は、ほどほどにな?」
「パパだって、ママとシモーネと一緒にお歌を歌いたいでしょ?」
その言葉に、エデルは少しだけ眉を下げて、困ったように笑った。
「ああ、それは、もちろん歌いたいが……」
エデルは、ここで「歌いたくない」などと答えたら、シモーネが泣き出して大変なことになると知っていた。
アマリアとシモーネの笑い声が、朝の部屋に広がる。
マホガニーの大きな机の上には、商会から持ち帰ってきた、帳簿の山や資料の束があった。
アマリアの書斎は、この国でも有数の大商会の長の私室でありながら、家族のぬくもりでいっぱいの場所だった。
かつて『アマリア雑貨店の計画書』の中に描いた未来図には、こんな光景はなかった。
商いの道で成功することだけが、アマリアの望んだすべてだった。
だが、この家族の笑顔も、幸せな日常も、すべてが『アマリア雑貨店の計画書』の中に描いた人生の延長線上にあった。
自らを信じ、挫けることなく、愛と誇りを持って選び取ってきた人生の先に――。
エデルと、シモーネと過ごす、このかけがえのない朝が存在していた。
アマリアはシモーネを抱き上げ、頬に軽くキスを落とす。
「さあ、ママのお出かけの前に、楽しいお歌の時間よ! 今日もルイド一家は、世界一の合唱団になるわよ!」
「うんっ!」
親子の歌声と笑い声が、王都の朝に優しく溶けていった。
また別な、ある日の午後。
アマリア&エデル商会の次なる計画が、会議室で話し合われていた。
「東の港町トセミルに支店を?」
エデルがアマリアに訊き返した。
「はい。現地の女性たちが手工芸を始めていて、商品化が可能なのです。店長にはレアを推薦します」
元孤児のレアは、今や地方支店の開店を任されるほどの実力者となっていた。
「レアなら安心だな」
エデルは満足げに頷いた。
「では、それで進めましょう」
誰かの笑う声が、会議室まで聞こえてきた。
窓の外を見れば、美しい庭と青い空がある。
このアマリア&エデル商会本部の建物は、活気で満ちあふれていた。
裁縫室から、香料研究室から、発送部門から――。
物音や、人々が真剣に話し合う声、笑い声などが聞こえていた。
アマリアは思った。
あの日、なにも持たず、侯爵令嬢という地位さえ捨てて歩き出した自分に、今の景色を見せてあげたい。
仕事も、仲間も、家庭も――。
奇跡が起きて、今ここにあるのではない。
わたくしが、わたくしの手で選び、自分の足で歩き、多くの人々に助けられながら、ここまで築いてきた人生の中で得たのだと――。
わたくしは、サンドロの仕打ちに耐えていた、あの頃のわたくしに言ってあげたい。
「なにも恐れる必要はないわ。『装飾品』で終わる必要なんて、どこにもないのよ」
と――。
「アマリア、ぼんやりしてどうしたんだい? 会議は終わった。もう休憩時間だ。シモーネの顔を見に行こう」
アマリアは席を立ち、エデルと手を取りあって庭へと向かう。
シモーネの歌声。
商会から聞こえる従業員の声。
庭の木々の騒めき――。
そのどれもが、アマリアの人生を、さらに美しいものにしていた。
アマリアとエデルの屋敷は、今も丘の上に建っている。
季節が巡り、庭の木々が育ち、家族がさらに増え、王都や商会に新しい風が吹いても――。
変わらずそこにあるのは、アマリアとエデルが築いていく、健やかで穏やかな家庭。
そして、アマリアの歩む幸せな人生だった。




