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婚約者様、さようなら。わたくしは『装飾品』ではありません。  作者: 赤林檎


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26.アマリア様に捨てられた男

 あの産業振興式典から、わずか数か月後――。


 レザル公爵家の嫡男、サンドロ・レザルは、社交界から完全に姿を消した。


 サンドロは、式典の日には胸の大きな若い男爵令嬢を伴っていた。だが、式典の翌週には、男爵令嬢の父から婚約破棄の書類一式を突きつけられた。


 あの男爵令嬢が、頬を赤く腫らして式典から帰宅したのだ。


 男爵令嬢の父は身分を重んじる男だったため、公爵令息であるサンドロに対して、非難の言葉を吐くことはなかった。だが、その行動に込められた激しい怒りは、誰の目にも明らかだった。


 男爵令嬢一家は爵位と共にサンドロを捨て、一家に同情した貴族の家の使用人となった。





 その後、サンドロは必死で別の縁談を求めた。名のある家から無名の家まで、爵位の上下を問わず手を尽くした。だが、どの家からも、返ってくるのは冷ややかな拒絶の言葉ばかりだった。


「君には信用がないんだよ。アマリア嬢を嘲るような真似をして、なにを得たつもりになっていたんだい?」


「アマリア嬢を見誤った、その判断力だよ。将来、君がレザル公爵家の当主になったとして、誰が君なんかに従うんだ?」


「噂は聞いているよ。君は女性に対する敬意を欠いているんじゃないかい?」


 どこへ行っても、サンドロに向けられるのは嫌悪と軽蔑の視線だけだった。


 かつてはサンドロが歩くだけで群がってきた令嬢たちも、今ではサンドロの姿を遠くに見ただけで、さりげなくその場を離れる。





 追い詰められたサンドロは、苛立ちを抑えきれず、ついには館の使用人たちにその怒りをぶつけ始めた。


 理不尽な命令、怒声、罵倒。


 使用人たちは立場上、誰もサンドロに逆らえず、ただ黙って耐えるしかなかった。


 そんなサンドロの気晴らしは、長くは続かなかった。


「サンドロ、貴様はどこまで我が家の名を汚せば気が済むのだ!」


 それは、レザル公爵が、孫への絶望に満ちた声で吐き出した言葉だった。


 栄光を約束されていたはずの名門貴族の嫡男は、己の愚かさによって、ついに廃嫡され、家を追い出された。


 後に、この出来事は『この判断の遅さが、レザル公爵家を滅ぼしたのだ』と人々に語られることとなる。





 サンドロは館から持ち出せた品物を売り、王都の貧民街になんとか小さな家を借りた。そして、どうにかして貧民街から這い上がろうと、必死で勉強に打ち込み、筆記試験を経て、ようやく地方の文官の職を得ることまでは成功した。


 だが、地方の役所に着任したサンドロは、相変わらずだった。


 職場では同僚たちを前に、あたかも自分が上司であるかのようにふる舞った。


「私はもともとは、王都の名門であるレザル公爵家の者だ」


 などと、鼻高々に語ったりもした。


 しかも、仕事では細かい数字や日付の書き間違いをくり返し、書類を提出し忘れることも多かった。


 同僚たちの視線は、次第に冷ややかになっていった。


 サンドロがいくら「学生時代には成績優秀だった」などと自慢してみても、今では誰も信じてくれない。


 それでもサンドロは、彼らの様子に気づかないふりをして、アマリアのことを話題に出しては、嘲るように笑ってみせた。


「アマリアは、まあ、あれは『選ばれなかった』ではなく、『選ばなかった』が正解だな。アマリアを見たことがある男ならわかると思うが、アマリアには女性としての魅力が欠けていたんだよ」


 サンドロがそんな話を何度もくり返すうちに、呆れを通り越して面白がる者すら現れていた。





 ――そんなある日、サンドロが、役所の食堂の隅で昼食をとっていた時だった。


 今もサンドロと表面上の付き合いを保っていた貴族令息の一人が、苦笑まじりに口を開いた。


「お前さ……、いつまで元婚約者にふり回されながら生きるつもりなんだ?」


 サンドロはフォークを持った手を止め、眉をひそめた。


「アマリアにふり回される……? この私がか……?」


 貴族令息は、サンドロの虚勢に付き合うつもりは一切なかった。


「アマリア様は今では、王都で最も尊敬されている女性の一人だぞ。あのエデル・ルイドと一緒にやっている、アマリア&エデル商会を知っているだろう?」


「ああ、まあな……。聞いたことくらいはある」


 サンドロの声は前よりも幾分小さくなっており、フォークを持つ手は細かく震えていた。


「お前が今でも馬鹿にしている『装飾品』が、この国の商業の流れを変えているんだよ。民の生活を豊かにし、職を生み出し、女性たちの地位向上にも貢献している。貴族の令嬢たちの中にも、だいぶ前からアマリア様を見習おうという動きがあるんだぞ」


 貴族令息の言葉は、静まり返る食堂に重く響いた。


 サンドロは言葉を返せなかった。


 否定も、怒鳴り声も、もう出てこなかった。


 サンドロがどれだけ口先で取り繕っても、現実が追いかけてくる。


 アマリアが誰よりも輝いて、社会の一角を担っているという現実が――。





 その夜、地方の役所に隣接する古びた文官宿舎の一室で、サンドロは眠れないでいた。


 サンドロは、狭い木製の寝台に、一人で横たわっていた。


 明かりはとうに消えている。


 薄汚れた天井には、幾筋もの亀裂が走っていた。


 湿った寝具の匂いと、遠くで鳴く虫の声だけが、横たわるサンドロの世界のすべてだった。


 サンドロは天井を見つめたまま、思考の底へと沈んでいく。


 昼間の貴族令息の言葉、見下した態度、冷笑の数々が、夜の闇の中で亡霊のように浮かび上がる。


 今になって、ようやくサンドロは気づいた。


 アマリアにふり回されているのではない。


 過去の愚かな自分自身に、今なお縛られているのだと――。


(あの婚約破棄の書類……)


 アマリアが自らの手で差し出した、端正な筆跡の書類。


 書類の最後に書かれていた『どうか、あなたが、あなたの新しい人生を見つけられますように』という、ただの定型文が、なぜ今になって、こんなにも胸に突き刺さるのか……。


(あの時のアマリアの笑顔……)


 あれは、自らの未来を選び取った者の顔だった。


 ひどく傷ついていたはずのアマリアは、泣きもせず、怒りもせず、ただまっすぐに前を向いていた。


 なぜ自分は、そんなアマリアを引き止めなかったのか。


 なぜ、自分の愚かさに気づかなかったのか。


 いくらふり返ってみても、ただ後悔ばかりが募る。


 だが、そのすべては、もう手の届かない過去だった。


 いまやサンドロという男は、こう噂される存在になっていた。


「ああ、サンドロ? あの『アマリア様に捨てられた男』だろう?」


 その言葉を否定する者など、どこにもいなかった。


 サンドロ自身ですら、その二つ名を否定できなかった。


 サンドロは、もはや多くの者たちの記憶の中で、『アマリア様に捨てられた男』としてしか存在しなくなっていた。


 月明かりが薄汚れた窓から射し込み、寝台の上にいるサンドロの歪んだ顔を照らしていた。


 サンドロはきつく目を閉じた。


 いまやサンドロには、未来になんの希望も見出せなかった。


 サンドロはそんな人生と向き合うことを避け、今夜も眠りについたのだった。

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