1.サンドロ様、さようなら
「アマリア、君はそこで笑っていればいい。余計なことは考えなくていいんだよ」
あの日も、サンドロはそんな言葉を最後に、アマリアではなく、隣に立つ令嬢にほほ笑みかけた。
まるでアマリアなど、最初からその場にいなかったかのように。
サンドロの笑顔は、アマリアには一度も向けられたことのない、ひどく甘やかなものだった。
「……そう、ですか」
アマリアは無理矢理、唇の端をほんの少しだけ引き上げた。
アマリアはサンドロの指先が、こっそりその令嬢の手に触れるのを見た。
その瞬間、アマリアの胸の奥で、なにかが静かに崩れ落ちていった。
舞踏会の大広間を流れる音楽も、あちらこちらで聞こえる人の声も、グラスや皿のたてる音も、すべてがアマリアから遠くなっていき、やがて聞こえなくなった。
(ああ、もういいわ……。こんな方と人生を共にする必要なんてない……)
サンドロはいつも、冷たい声色や変わらぬ表情を使って、アマリアの尊厳を奪っていった。
アマリアの胸の奥では、幾重にも重なった冷たい記憶が、静かに疼いている。
何度も繰り返された、冷たい言葉。
愚弄しているとしか思えない無視。
形ばかりの婚約者として、その場にいないも同然の扱いをされた日々――。
(……こんな方に踏みにじられて、我慢していることないわ)
アマリアの胸の内にひっそりと芽生えたのは、新しい人生へと踏み出す勇気だった。
この時、アマリアは選んだのだ。
サンドロの『装飾品』ではない人生を。
自分の力で未来を切り拓いていくことを。
アマリアの先祖は、『不屈のディエゴ』と呼ばれた騎士。
ディエゴは安物の剣一本を手に故郷の村を飛び出して、戦功を上げ、一代で平民から侯爵にまでなった男だ。
(わたくしにだって、きっとなにかができるわ)
サンドロはいずれ気づくだろう。
自分を捨てて去っていった者が、どれほど価値のある存在だったか。
『サンドロ様、さようなら』
アマリアはそんな言葉が喉まで出かかったが、静かに口を閉じた。
別れの言葉すら、もはやサンドロにはもったいなかった。
――その日から、すべてが変わった。
書物で商売を学んだアマリアが、侯爵令嬢の地位を捨てて王都を離れ、乗合馬車に揺られて辿り着いたのは、王都の南方にある静かな街、ラクルベリ。
この場所で、アマリアは初めて知る。
本当の自由が、どれほど尊く心を震わせるものかを。
そして、心から人を愛し、愛されるということが、どれほど幸福な奇跡であるかを。
けれど、まだその未来は、アマリアには見えていない。
アマリアは今、ただ一人で歩き始めたばかりだった。
まだ何者でもなく、まだなに一つ得ていない――。
それでも、アマリアは少しずつ前に進んでいた。
サンドロはやがて思い知る。
自分の愚かさにより失ったものが、どれほどの価値を持っていたのかを……。
そして、思い知った時になって、どんなに悔やもうとも、それは二度とサンドロの手には戻らない。
その頃にはもう、アマリアは遠い場所へと行っている。
サンドロの手が届かないほどの遠くへと――。