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この作品には 〔残酷描写〕が含まれています。
苦手な方はご注意ください。

追放された聖女とおかしな悪魔

「ハァ、ハァ、ハァ……」


 手を振り、枝を掻き分け、もはや感覚さえ分からなくなった足を懸命に動かす。無造作に伸びた銀髪が揺れ、サファイアのような青い瞳は前だけを見る。

 冷たい空気が肺を凍らせ、心臓は張り裂けそうな程まで高鳴りを続ける。


「ハァ、ハァ、ハァ……ッ!」


 木々を抜け、眼前に広がったのは断崖絶壁の崖。背後からは純白の鎧を纏った王国騎士団が、その刃の切っ先を向ける。

 

「聖女ルミナス……いや、元聖女か。貴様はもう逃げられない。大人しく捕まるがいい」

「ハァ、ハァ……どうして、どうして私をそこまで追い詰めるのですか……! 私は、自分の使命を全うしようと――」

「黙れ!!」


 ルミナスはビクッと身体を震わせる。幾度も聞いた声色、それは今までに散々受けてきた処罰の始まりであり、ルミナスは自然と身体に力を入れてしまう。


「どうしてだと……? ならば教えてやろう。貴様が犯してきた罪をな。貴様は恐れ多くも聖女の名を騙り、我々を欺いてきた。挙句の果てには聖女様を手に掛けようとした」

「違います! 私はただ、頼まれただけで……」

「黙れと言っているだろう! 貴様の処罰は決まっている。聖女様からのお達しだ。貴様を打首にし、城門に晒すとな!」


 言葉はもはや通じない。背後は崖、前方には騎士。退路は絶たれ、逃げ場は無い絶望的状況。

 騎士が一歩、また一歩と近づく。ルミナスはその手に持った剣が、自身の首を切り落とす処刑道具に見える。そしてつい、後ずさってしまった。


「……あっ」


 ふわっと一瞬、空気が自分の身体を押し上げたような感覚がする。コマ送りのように視界が遠のき、人影はゴマのように小さくなる。

 走馬灯が流れ、悠久の時間が経過したと思った瞬間、ルミナスは強い衝撃を受けて意識は暗転した。





「ん……」


 ルミナスは目が覚めると、ふわふわとしたベッドの上で横になっていた。ズキズキと痛む体を優しく包み込んでくれているようで、心地が良かった。

 部屋全体は木造で落ち着いた雰囲気がする。アロマの香りが漂うこの場所は、ルミナスが王国にいた時よりも良い環境だった。


「ふんふ〜ん♪ あれ、起きたの?」


 軽快な鼻歌と共に、おぞましい者が現れる。四本の腕に黒光りする巨体、頭部は前後に細長く、顔は口以外にパーツがないのっぺらぼうのような姿だった。

 しかしルミナスは不思議と、何も感じなかった。目の前にいる者から敵意がないことを自然と悟っていた。


「……どなたでしょうか」

「ほ〜、僕を見ても驚かないとは、肝が据わってるね」


 その悪魔のような姿をした者は、ルミナスの体にそっと触れる。


「うん、うん。だいぶ良くなったね。歩けるくらいまでは回復したかな?」

「えっと、これは……」

「僕はグレイヴ。見ての通り悪魔さ。君が僕んちの近くで落っこちてたから、手当したんだ」


 グレイヴは表情のない顔と、感情的な声で自己紹介を行う。崖から落ちた後、彼の家まで運ばれ一命を取り留めたようだ。


「助けて頂き、ありがとうございます」

「ハハハ! 当然さ、君は僕に感謝をするべきだ。さぁこっちに来てくれ。朝食を作ったんだ。食べてってくれ!」


 グレイヴは軽快な笑いをした後、ルミナスに手を差し伸べる。枝のように細い手指は無機質な触感で、人とは違う生命体なのだと感じた。

 手を引かれ案内された場所はキッチンのようなところで、ふわりと暖かなスープの匂いがした。テーブルの上にはパンやベーコンなど、家庭的な朝食が用意されていた。


「あ、えっと……」

「ん? どうしたんだ?」

「私には、食べる資格がございません」


 ルミナスは病み上がりでお腹を空かしていたが、食べようとしなかった。なぜなら彼女は朝食を食べるほどの対価を払っていないからだった。


「しかくぅ〜? 何それ?」

「私は、グレイヴ様に何もしていません。それなのに朝食を頂くなんて、到底できません」

「僕が食べて欲しいって言ってるのにかい?」

「でも……」


 グレイヴは四本ある腕のうちの一本を額に当て、ため息をついた。


「はぁ〜、じゃあしょうがないか……せっかく僕が丹精込めて作った食事なのにな〜。このままじゃ捨てることになるけど、誰かが食べてくれたらな〜」


 目が無く分かりにくいが、グレイヴはチラッチラッとルミナスの方を見ながらわざとらしく言う。

 ルミナスはまだ抵抗があったが、捨てられてしまうのならば、いつか恩を返すことを心に決めて頂くことにした。


「で、では、いただきます……」

「そうさ、最初から素直に食べればいいのさ!」


 ルミナスは席に着き、先程から食欲をそそるスープをひと口啜る。喉越しが柔らかなスープは、芯から身体を温める。

 横に置いてあったパンも齧る。ふわふわとしたパンは小麦の程よい香りを漂わせ、ベーコンとの相性は抜群だった。


 久しぶりに食べた暖かい食事は、ルミナスが幼くして亡くなった母親を思い出させた。幸福で満たされていた時であり、明日がより良い物になると疑わなかった過去。

 ルミナスは目頭が熱くなり、自然と涙がこぼれ落ちる。


「え、えええど、どうしたの!? 何か、変なの混ざってた!?」

「いえ……っ、ただ美味しくて、暖かくて……」


 グレイヴはオロオロと慌てた様子で、どうすればいいのかと四本の腕を忙しなく動かす。ルミナスは心配させたくないと我慢しようとするが、溢れ出る涙は止まらない。

 王国での思い出は悲惨なものばかりだったルミナスにとって、母親の記憶は心の支えになっているものだった。そして今この瞬間は、曖昧になっていた母親の姿が鮮明に思い出せるようであった。


 ルミナスはこんな陽だまりのような感覚が、永遠に続けばいいのにと願わずにはいられなかった。







「グレイヴ様、おはようございます」

「やぁおはよう。今日も体調は良さそうかな?」


 グレイヴに助けられてから数週間が経過した。悪魔との共同生活という現実味のなかった日々は、数日すれば自然と慣れてきた。

 体の痛みは消え、むしろ前よりも体調は良くなったように感じる。


「はい、かなり良くなりました。これもグレイヴ様のおかげです」

「ハハハ! それもそうさ、この僕が手当をしたんだからね」

「お手伝い致します」


 グレイヴは朝食の準備をしている。細長い巨体に可愛らしい刺繍が施されたエプロン姿は、アンバランスなのがかえって似合っていた。ギャップ萌えというやつだろうか。


「おっと、君は病人なんだから、無理せずに休みなよ」

「いえ、私がしたいんです」

「そう? じゃあお言葉に甘えて」


 新鮮な野菜にフルーティーな果実、オーブンで焼かれたパンにバターを塗れば完成だ。もちろん、食後のデザートも忘れない。

 料理をテーブルに運び、二人は食卓を囲む。


「それじゃ、食べようか」


 ここの食材はどれもが新鮮で非常に美味しい。恐らくだが王族が食べるものよりも美味だろう。

 そしてこれらを補充するのはいつもグレイヴだった。栽培してるのか、外から持ってきている。


「ふぅ〜食った食った……!」

「とても美味しかったです。……そういえば、グレイヴ様は悪魔なのにお食事を摂られるんですね」


 ルミナスはふと、昔に母親から聞いたおとぎ話を思い出す。

 悪魔は人間の感情を食べて生きていく。その主な感情は憎悪や悲しみなどのネガティブな感情で、それらを摂取するために悪魔は人を誑かすというお話だ。

 そして悪魔は実際、これらに近しい食生活をしている。


「そうだねぇ〜。確かに、僕ら悪魔は感情が主食さ。一番効率が良く、味も別格。でも例外だっている。悪魔にも感情の好みがあるのさ」

「好み……グレイヴ様はどのような感情が好きなんですか?」

「僕はちょっと特殊でね、幸せや幸福といった甘い感情が好きだ。大体の悪魔は甘ったるくて嫌いだと言うけどね。そして食事というのは小さな幸せさ。少しづつだけど、確かな幸福への糧なんだ」


 グレイヴはその他にも、様々な感情の味を話した。苦しみや憎悪は苦く、怒りはピリピリとした辛味を持つ。悲しみはしっとりとした食感があり、嬉しさや喜びはぱちぱちとした食感が印象的だ。

 どの悪魔にも好みがあるが、大抵の悪魔は苦味や辛味などのネガティブな感情が好みだという。


「それは、知りませんでした。感情の味だなんて、世界は広いんですね」

「そうさ、世界は広いんだ。君が知らないことなんて沢山ある。……それで、そろそろ外には出れそうかな?」


 グレイヴは体をずらし、背後にある扉を指さす。

 ルミナスはここで目覚めて以降、一度も外に出たことがなかった。

 それはこの場所が肉体的にも、精神的にもルミナスにとっての安全地帯だからだ。だからこそ、ルミナスは思考してしまう。

 あの扉を開けたら、この幸せが壊れてしまうかもしれない。もしかしたら自分は未だに夢の中で、あの扉を開けたら夢から覚め、またあの地獄に戻らされるかもしれない。


 扉を開けることで起きる変化が、ルミナスを不安で埋めつくす。


「……難しそうなら、無理しなくていい。君がどんな決断をしようと、僕は君を見捨てないし、助けがいるならいくらでも助けよう。だから、落ち着いて」


 グレイヴはルミナスの手を握る。無機質な触感だが、確かな体温を持っていた。そしてルミナスは自身の呼吸が乱れていることに気が付く。無意識的に、心の不安が表面化していたのだ。


 優しく掛けられた言葉が高まった鼓動を落ち着かせ、詰まっていた思考を柔軟にする。ルミナスは落ち着いて深呼吸をし、扉に視線を向ける。

 危険から隔離し、安心を与える扉。そして同時に自分自身を閉じ込める枷にもなっている扉。ルミナスは、薄々とこのままではダメだと感じていた。


「私は、グレイヴ様にしてもらっているばかりです。心に決めたのに、何も返せていません」


 ルミナスはゆっくりと席を立つ。グレイヴに手を伸ばし、ひとつのお願い事をする。


「私は恩返しがしたいです。なので……最後に一回、お手伝い頂けますか」

「最後なんて言わず、何度でも助けるさ」


 グレイヴに手を握ってもらい、扉の前に立つ。視線は扉の先、外の世界だ。

 ドアノブに手をかけると、脳内に王国にいた時の苦しい記憶が蘇る。ろくな食事も与えられず、冷たい石の床が徐々に体温を奪っていく感覚。凍えそうな夜の寒さと、空腹を我慢し眠りについていた日々。


 一瞬、この場から逃げ出したくなるが、握ってもらっていた手から力を感じ我に返る。長い間二人っきりで過ごしていたためか、ルミナスは多少だがグレイヴの感情が分かるようになっていた。

 相変わらず顔からは何も分からないが、グレイヴも緊張しているようだった。なんなら本人よりも緊張していそうな様子にルミナスはふっ、と気持ちが楽になったように感じた。


 ルミナスは決意を固め、扉を開ける。




「――わぁ……」


 視界いっぱいに広がるのは、青空を綺麗に反射する広大な湖と、その湖を取り囲むように咲いた色とりどりの花だった。水面はまるで鏡のようにキラキラと輝き、花は自身の美しさを風に乗せる。

 爽やかな春風がルミナスの髪を靡かせ、暖かな日差しが彼女を祝福する。


「どうだい? 久しぶりの外の景色は」

「……とても、綺麗です」


 灰色だった世界が、色鮮やかに染められていく。世界はこんなにも美しいものだったのをどうして知らなかったのか。ルミナスはもはや悔やむ気持ちすらも忘れて、この景色に見とれていた。


「それじゃ、リハビリがてら散歩しよう。僕の昔話でも話しながらね」


 グレイヴに従い、ルミナスはよく踏みならされた道を歩く。青々と茂った木々の間から漏れる光は、ルミナスが着ている無地のワンピースを変化させる。


「君はどうして悪魔である僕が、こんなところにいるのか気になったことは無いかい?」

「少しは、思いました。お聞きしたかったのですが、なにか事情でもあるかもと……」

「ハハハ! 僕を気遣っていたのかい?」


 グレイヴは軽快な笑いをした後、記憶を思い出そうと少し上を向く。ルミナスは普段の陽気なグレイヴとは違い、今の彼からはどこか落ち着いた印象を持った。


「実は、僕は追放された立場でね。正確に言うと逃げた、かな」

「さっき、悪魔は感情を主食にしていると話しただろ? ほぼ全ての悪魔はネガティブな感情を食べる。僕とは正反対」

「つまり、僕は彼らにとっての異端者なんだ。だからよく反発した。些細なことでイチャモンつけられて、睨み合って。一触即発状態だった」


 前を歩くグレイヴは一度も振り向かなかった。ルミナスを信頼してなのか、話に集中しているからなのか。

 ルミナスはただ、静かに話を聞く。


「今考えれば、くだらない理由だった。僕と彼らはある事をきっかけに、戦争とまではいかないけど、それはそれは激しくやり合った」

「勝負は半々だったけど、持久戦だと僕の方が不利だった。それに、僕はあんまりやる気が無かったから、途中で逃げたんだ。住処も財宝も全部捨てて」


 しばらく話している内にいつの間にか目的地へとたどり着いたようだった。

 そこは少し開けた場所で、フサフサとした草が綺麗に切りそろえられ、花が囲む真ん中にベンチが置いてあった。目の前には湖があり、対岸までよく見渡せた。


「でも僕は後悔していない。むしろ彼らに感謝したいくらいだ。何故なら彼らと争い、逃げたからこそ、僕はこの場所を知った。自然の美しさを知った」

「そして、君とも出逢えた」


 グレイヴはベンチに優しく腰掛けると、ルミナスにもそうするように促す。

 ルミナスは木製で新品な程に綺麗なベンチに座り、背もたれに体を委ねる。見た目とは裏腹に不思議と座り心地は柔らかく、微かにしていた警戒心がゆっくりと解かれる。


「ここは僕が特段気に入っているところでね、君に見せたかったんだ」

「……すごく心地が良いです」

「ハハハ! そうだろうそうだろう。何せこの僕が丹念込めて掃除しているからね」


 二人はベンチに座ったまま、目の前の景色を眺める。子鳥のさえずりが聞こえ、風に吹かれ花々がその身を揺らす。

 少しの静寂が、その美しさをより際立たせた。


「……僕が昔話をしたのは、君の助けになれるかもと思って話したんだ」

「助け、ですか」

「そうだ。……君は、過去に囚われている。僕が君を介抱したあの日から、君の心にはどこか引っ掛かりがある。僕はそれが気に入らない」

「だから君に何があったのか、教えてくれないか?」

「……」


 グレイヴは真剣な声で、真っ直ぐにルミナスを見つめる。

 グレイヴは直感的に理解していた。ルミナスの過去が彼女にとってのトラウマであり、容易に踏み込んではいけない場所だと。粗雑に触れれば、簡単に心が壊れてしまうことを。


 ただそのトラウマが、ルミナスの自由の足枷になっている。目の前にある幸せから一歩、身を引いてしまっている。

 グレイヴはそれが何よりも気に入らなかった。


「……私の母親は、先代の聖女でした。聖女として王国を守り、母親として私を愛してくれる。優しくてかっこいい母が私は大好きでした」


 ルミナスは独り言のように過去を話し始める。


「母は、私が五歳の頃に亡くなりました。元々虚弱体質だったのに原因不明の体調不良が重なり、最期は病に倒れてしまったんです」

「そこから、私が次の聖女になりました。ただその聖女は仮のもので、聖女代理としてヨル様というお方が付きました」

「仮とはいえ、聖女としてのお仕事はありました。初めてのお仕事は、散々なものでした。聖女が扱えるという神聖力はよく分からず、聞いても誰も教えてくれませんでした。というより、誰も知らなかったみたいです」


 ルミナスは感情が昂ることはなく、至って平然と話を続ける。


「それからは、私への扱いは段々と酷くなっていきました。無能に贅沢だと、部屋は地下にあった牢屋の中で、ご飯は冷たいものばかりでした」

「偽物の聖女だと罵られ、たまに鞭で打たれたりした日もありました。夜が明けて明日が来るのが怖くて、なかなか寝付けなかった時もありました」


 グレイヴは何か喋ることはなく、静かに話を聞いている。


「そして数ヶ月前、王国でヨル様が正式に聖女になるという噂が流れ始めました。私自身、聖女は憧れていたものでした。しかしその毎日はとても苦しくて、辛いことばかりです」

「なので私はもう、ヨル様が聖女になるのだったらお譲りしたいと思っていました。母の思い出を捨てるようで、息苦しかったですが、もう疲れていました。ただ、ヨル様は私が邪魔だと思っていたみたいです」


 ルミナスの手が微かに震える。感情ではなんともないのに、体が無意識的に反応しているようだった。


「ある日、ヨル様から紅茶が入ったティーカップを持ってきて欲しいと頼まれました。ヨル様は代理の仕事を頑張っていらっしゃるので労いの気持ちもあって了承しました」

「しかし私が紅茶を持っていくと、ヨル様は突然、私の足を引っ掛けました。そして転んだ拍子に、紅茶がヨル様の腕にかかってしまったんです」


 ルミナスは今でも鮮明に思い出せる。足を引っ掛けられ倒れそうになる瞬間、口元を歪ませたヨルの表情が。


「それからはトントン拍子でした。ヨル様が叫ぶと、すぐさま騎士がやって来て私を拘束しました。そしてあの牢屋の中へ、また入れられたのです」

「その日のうちに私への処罰が決まりました。恐らく最初から決まっていたんでしょう。騎士からは死刑宣告をされました」

「その時は、もうどうだっていいと思っていました。考えるのも億劫になっていました。……恐らく忘れていたんでしょうか、牢屋の鍵が空いているのを見つけてしまったのです」


 ルミナスは顔を俯ける。景色を見るため、上がっていた視線は自分の足元まで下がる。足の間、ただ一点を見つめる。


「無我夢中でした。私は、逃げ出したんです。地下はよく知っていたので、外に出るのは容易でした。隠し通路を出て、月明かりを頼りに森へ逃げて、騎士が追って、逃げて、逃げて、逃げ、て。崖で……っ、足を滑らせて……」


 言葉が詰まる。涙のようなものはない。ただ、えずきが止まらない。底から漏れ出る感情が、言葉を出すより早く喉を過ぎる。

 頭に感触があった。細長く、無機質な触感のそれは優しく包み込むように頭を撫でる。確かな暖かさが、ルミナスの溢れる気持ちを受け止める。


「君はよく頑張っているさ。とてもよく、頑張っている」

「……っ、ひっぐ……」


 大粒の涙がこぼれ落ち、服にシミを作り出す。いつの間にか掴んでいた裾を強く握り締め、浅い呼吸とともに、上手く出せなくなった泣き声を漏らす。

 グレイヴの一言で、ルミナスは救われたような気持ちになっていた。今までの努力が、苦労が認められた。このたった一言を、ルミナスは求め続けていた。

 

 そして何よりも、彼が横にいることが幸せなのだと思った。




「落ち着いたかい?」

「……は、はい。ありがとうございます」


 グレイヴはルミナスが泣き止んだ後もしばらく頭を撫で続けていた。その間、ルミナスはその魅惑的な多幸感を味わっていたが、声を掛けられて我に返る。

 冷静になったルミナスは淑女としてあるまじき姿だと恥ずかしくなり、顔を赤らめてそそくさ目線を逸らした。


「遠慮なんてせずに、いつだって僕を頼ってくれ。何度も言っただろう? 僕は君の助けになりたいからね」


 グレイヴは四本の腕を大きく開き、ハグ待ちのようなポーズを取る。

 ルミナスは一瞬その誘惑に負けそうになるが、先程醜態を晒したばかりなので我慢した。少しだけわがままを添えながら。


「えっと……後で、お願いしてもいいですか……?」

「ハハハ! 少しだけ、素直になったね。心を開いてくれてるみたいで僕は嬉しいよ。……だが、僕は憤りを感じている」


 グレイヴはそう言いながらベンチから立ち上がる。いつもは軽快で、怒っている様子など皆目見当もつかない彼の声からは、確かな怒りを含んでいた。


「どうして君みたいないい子が、こんな目に会わなくちゃいけないのか。君をこんな仕打ちに合わせた奴らを、誰が許すことができるのか。いや、できない!」


 黒い霧のようなものがグレイヴ全体を囲う。姿が完全に見えなくなった時、そこに立っていたのは長身で長い髪をバックに流した、蛇のような縦長の瞳孔を持った切れ目の男だった。

 モノクルを掛けたその男は、口元を三日月のように歪ませ、悪魔のような提案をする。



「だから、復讐しよう」







 王国、玉座が置かれた王の間で、そこにいるべきでは無い人物が玉座にふんぞり返って座っていた。

 邪魔者は全て追い出し、名実ともにトップになったはずのその者――ヨルは、頭を悩ませていた。


「聖女様。ご報告がございます」

「チッ、また何か問題?」


 女神が愛した国と言われるほどの王国は、毎年必ず豊作であり、周辺諸国がどんな天災に遭おうとも必ず免れてきた。

 強い軍事力を誇り、安定していた国家はヨルが聖女になってから様々な不幸に見舞われていた。


「コルベール子爵の領土で地震が発生し、土地が隆起したようです。農地も滅茶苦茶で、予定していた食料も供給できないと……」

「ハァ〜、クソっ!」


 ヨルは深い溜息をつき、外聞も気にせず悪態をつきながら親指の爪を噛む。

 連日のように舞い込んで来る報告はどれも神経を苛立たせる。どうしてこんなことになっているのだろうか。


「……ッ……!」

「外が騒がしいわね……ちょっとあんた、見てきなさ――」


 ヨルが言葉を言い終わる前に、玉座の間に繋がる扉が吹き飛ばされる。堅牢で、威厳を示すように大きかった扉は今や見る影もない程にバラバラになった。

 部屋にいた全ての者が注目する。扉があった場所、開放的になったそこには全身を黒で構成した長身の男が立っていた。


「やぁやぁ、お邪魔するよ〜」

「止まれ! 貴様、何者だッ!」


 聖女を守る騎士たちがその男、グレイヴに剣を向ける。四方をとり囲む剣は十分な威圧感があり、並の存在ならその場から動けなくなるだろう。

 しかしグレイヴはそれに臆することはなく、奥にいるヨルに鋭い眼光を浴びせ指を指す。


「君たちに用はないんだ。用があるのはあの女。だからそこをどけ」

「ヒッ……早く、早くその男を何とかしろ!」

「聖女様の安全を守れ! 突撃ィー!」


 ヨルはまるで捕食されたかのような幻覚を見る。鳥肌が立ち、乱れる口調ですぐ様騎士に指示を出す。それに従い、騎士は侵入者を切り裂こうと剣を振るった。

 しかしその剣が当たることは無かった。一斉に振り下ろされた剣は空中に留まるように動かない。


「ぐっ、なんだこれは……!」

「無駄なことを。貴様ら、頭が高いぞ」

「ぐはっ!」


 グレイヴは指先を縦に振ると、騎士たちに押しつぶすような圧力が掛かる。鎧は凹み、指先ひとつ動かせなくなる。

 地べたに突っ伏す彼らは、侵入者が通り過ぎるのをただ見ているしかない。


「さて、ここからは君の番だ」


 横を通ったのは目の前の男ではなく、見覚えのある人物だった。

 だがその姿は記憶の中とは違った。ぐしゃぐしゃで質の悪かった銀髪は綺麗に切りそろえられ、自信なさげで常に俯いていた顔は面影すらない。

 サファイアのような青い瞳は、真っ直ぐにヨルを見つめる。


「お久しぶりです。ヨル様」

「あんた、死んだはずじゃ……!」


 ヨルは自分が悪夢を見ているのではないかと言う気持ちになる。騎士に命じて殺したはずの、本物の聖女がそこに立っているからだ。

 ルミナスは一歩前に出る。ずっと知りたかった真相を、その答えを求めて。


「ヨル様。私はあなたに聞きたいことがあります」

「はぁ? な、なによ」

「お母様が亡くなったのは、あなたが原因なんですか?」


 ずっと、気になっていたことだった。ルミナスの母は虚弱体質とはいえ、ある日を境に突然体調を崩し始め、どんな処置をしようが効かなかった。

 最期まで娘に心配させたくないと無理して笑っていた母親の記憶が、抉るように胸を突き刺す。


 ヨルは質問されると、いまさらかと言いたげな表情をする。


「……は、何を聞くのかと思ったら、たったそれだけ? いいわ、教えてあげる」

「そうよ。私があんたの母親を殺したの! でもあの女が悪いのよ。私がこの国を支配しようとしてるのに、邪魔するから死んだの」

「……ッ!」

「あんただってそうよ。何も出来ないくせに、聖女になんてなるから、目障りだったの。運良く生き残って取り返そうとしてるのかもしれないけど、無駄よ」


 ヨルは手のひらを後ろにいるグレイヴに向け、瞳を妖しく光らせる。質問を返している間に、こっそりと呪文を終わらせていたのだ。


「コソコソ隠れてれば良かったのに! 《魅了(チャーム)》!」

「ハッ、グレイヴ!」


 ルミナスは慌てて振り返る。あまり場馴れしていなかったルミナスは、当然ヨルは自分を攻撃するだろうと思い込んでいた。そして自分よりも強い彼はきっと大丈夫だろうと油断していた。

 その隙を突かれた一手。母を失い、グレイヴまで失ってしまったら……悪い思考が駆け巡る。


「さぁ、この女を殺せ!」


 ヨルは意気揚々に命令を下す。本性をさらけだした彼女の笑みは外見は美しくとも、醜悪な印象を持たせた。


「……? どうして動かない?」


 しかしグレイヴは動かなかった。顎に手を当て、何かを考えるだけだった。


「……あぁ、なるほど、そういう事か。……お前、淫魔だな?」

「なっ!?」


 グレイヴの指摘に、ヨルは見たこともないほどの動揺を見せる。自分の正体が暴かれるはずがないと信じ込んでいた様子だった。

 ルミナスは何が起きていたかよく分かっていなかったが、グレイヴが無事なのか確認する。


「大丈夫……なのですか?」

「あぁ、なんともないさ。くくく……それにしても、滑稽なものだ。同族の魔法が、僕に効くわけないだろう」

「同族……? まさか、あんたは公しゃくッ!」


 ヨルが話終わる前に口が閉じる。それは自らの意思ではなく、グレイヴが指を立てて口元にあてると同時に起きた。

 同時に体が動かなくなり、硬直したようにその場に留まる。目元だけが動かせる状態であり、その目は驚きと恐怖に染まっていた。


「おっと、余計なことを喋るなよ」

「あの、グレイヴ様。先程言っていた、彼女が淫魔だというのは……」

「あぁ、そうそう。さっき僕が掛けられた魔法が淫魔特有のやつでね。聞いたことあるんじゃないかな、サキュバスってやつさ」


 広く作られた王の間で、二人の声だけが響く。

 王国最高の戦力は簡単に制圧され、奥の手は通用しない。増援も見込めず、ヨルはただただ自分の処遇を知ることしかできない。


「それにこいつは確か、魔界で指名手配されてた奴だね。風の噂で聞いたことがあるよ。数多の悪魔を誑かしては混乱に陥れてたって……さて、ルミナス。こいつをどうしたい?」


 グレイヴは選択をルミナスに任せた。元は彼女のための復讐であり、彼女が納得する終わりを迎えさせるべきだと思ったからだった。


「……私は、いるべき所にいた方がいいと思います」


 ルミナスは一瞬悩んだ。母を殺し、自身も手に掛けようとしたヨルを許すことはできない。一方で、彼女の行いによりグレイヴと出会えたとも言える。

 だから生かすことにした。今まで犯してきた罪を背負って生きてもらう。


「ハハハ! いい選択だ。こいつは魔界で相当恨まれてるだろうな。そんじゃ、達者でな〜」


 グレイヴは答えを聞くと、軽快な笑いをした後に指を鳴らす。

 ヨルの後ろの空間が裂け大きく開くとそこは、黒い大地と月まで紅い空が広がる異世界だった。

 ヨルは哀願するような目を向けるが、グレイヴは無情に彼女の額をひと押しする。絶望の表情で裂け目に落ちていく彼女は、崖から落ちたルミナスと同じ感覚だろう。

 グレイヴがもう一度指を鳴らすと、空間は元通りに戻っていった。


「それじゃ、帰ろうか」

「はい」

「ま、待ってくれ!」


 二人が帰ろうとする時、押さえつけられていた騎士の一人が声を上げる。復讐が終わり、グレイヴが力を抜いたゆえに動けた。

 彼はあの日、ルミナスに剣を向け追い詰めた者であり、ルミナスの母親が生きていた頃から王国に仕える初老の騎士だった。


「この国は今、危機的状況だ! お前が居なくなってから農地は荒れ、魔物が暴れだした」

「……はぁ」

「恐らく、お前が戻ってくれれば元に戻る! だからどうか、頼む!」


 初老の騎士は立つ体力すらないのか、上半身だけ起こして懇願する。彼のおめでたい脳内では、ルミナスはいつまでも昔の気弱な彼女だと思っているようだ。

 そんな彼が気づくはずも無かった。彼を見下ろしているルミナスの、どこまでも自分を道具のように捉えている彼への失望を含んだ表情を。

 いや、もはや失望すら無い、どうだっていい気持ちを。


「ゼファル様……いえ、ゼファル。もう遅いんです。この国を愛してた私は、もういなくなりました」


 ルミナスは母が守ったこの国を見捨てるのは心苦しかったが、それ以上にグレイヴと共にいることが幸せだった。

 過去に縋り、いつ来るかも分からない未来に期待して耐える日々はもうやめた。

 世界は広く、美しい。王国しか無かったルミナスはもう居ない。きっと母も、応援してくれるだろう。


「だからもう、おしまいです」

「ま、待て、行くな、行くなぁぁぁ!!」


 足元から立ち込める黒い霧が二人を覆う。騎士は焦りと絶望を含んだ怒りの声で止めようとするが、霧が完全に二人を見えなくする。

 一瞬だけ、長髪の男が嘲笑うように弧を描く口が見えた。


 黒い霧が散った時には、二人はもういなかった。静寂に包まれた部屋で、拳を床に叩きつける音だけが虚しく響いた。







「そういえば、どうしてグレイヴ様は人の姿になったのですか?」


 突発的な用事が終わり、ルミナスとグレイヴは元いたベンチのところに戻った。緊張が解け、落ち着き始めるとルミナスは小腹がすいていることに気づいた。

 そして家に戻る途中、ルミナスはふと気になったことをグレイヴに聞く。グレイヴは人型になって王国に向かったが、結局はヨルに正体を明かしていた。それならば最初から悪魔の姿で良かったはずだった。


「それは油断を誘うためさ。実際あいつは僕を人間だと思って魔法を使ってきたしね。それに、今更だけど君は人間だから、人の姿の方がいいかなって思って……」

「私は、ありのままのグレイヴ様が好きです」

「……そう?」


 面と向かって言われるとは思ってなかったのか、グレイヴは照れくさそうに頬をかく。人の姿になった時と同じように霧がグレイヴを囲み、馴染みのある姿へ戻る。


「やっぱり、そっちの方が良いです。あ、えっと、人の姿のグレイヴ様もかっこよくて良いんですけど、やっぱりいつもの姿の方が安心するというか……」

「ハハハ! 大丈夫さ、分かっているとも。僕は何時でも変身できるから、また見たくなったら教えてくれ」

「ふふっ。そのときはお願いします」


 来た時と同じように木々の間を歩いていく。しかし彼女らの仲は、来た時よりも数段深まっている。

 過去のルミナスは思いもしなかっただろう。まさかおとぎ話では悪者だと言われていた悪魔が、自分の大切な人になるだなんて。


 春風が吹き、花々を揺らす。

 その風は二人の楽しげで、幸せそうな日々をいつまでも乗せていくだろう。

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