闇に消えしもの
そこはビジネスホテルのような一室だった。部屋の大半をベッドが占めており、その向かい側にテレビの乗った棚があった。
しかし、宿泊用の施設ではあるが、ホテルではなかった。最もわかりやすい違いは、セキュリティーカメラが室内にあることだった。トイレも個室化されておらず、カメラから衝立を隔てた向かう側に設置されている。
そこは、枚鴨市警察所内の留置場だった。収容されていたのは女性。名は魚図理香珈。ただし、警察はまだ彼女の名前さえ引き出せていなかった。所持品に身元を示す物はなく、理香珈が尋問に黙秘を貫いていたからだ。
消灯時間後の暗い室内で、理香珈はぼんやりと黒い四角として認識できるモニターを眺めていた。もちろんそこに映像は浮かんでいない。
明るい頃であっても理香珈の行動は今と変わりなかった。一度気晴らしになるかとテレビを点けた事があったが、思考の邪魔になると気付いてからは点けていない。ラジオも同じ理由から沈黙したままだ。
考える内容には困らなかった。研究についての思考は、データが手元にないのは歯痒かったが、実験操作に追われない時間ができたからこそ、情報の整理に集中できた。
先行きの見えない不安もほとんどなかった。上司がアンテナをどこまで張り巡らせているのかは知らなかったが、理香珈が捕まっているのは一日もあれば伝わっているだろうという確信があった。それから準備を整えるのに一日、それから行動を起こすのに一日掛かると考えると、明日の夜には何らかの反応があるはずだった。
ただしその反応が好ましいものとは限らない。おそらく警察の上層部まで届いている上司の影響力を行使すれば、理香珈を無罪放免させることは可能だろう。ここで考慮されるのは理香珈にその価値があるか、だ。上司が警察に借りを作ってまで救う価値がないと判断すれば見捨てられる。それはきっと単に放置される形にはならないだろう。理香珈は他の組織に知られてはいけないレベルの情報を既に知っていた。だから、助けられなければ残った道は口封じになる。
その可能性について、理香珈は恐れてはいなかった。おそらくその役目を担う者が理香珈にとっては組織内で最も仲の良い相手で、きっと苦しまずに殺してくれるだろうことを信じていたからだ。
いつかきっとくる自然な死はどれくらいの苦しみを経た後にたどり着けるかはわからない。それに比べれば時間の余裕がないだけで、安らかな死は悪くない。もちろん理香珈にも、多くの人と同じくやり残した事はたくさんあるが、科学という巨大な海原を泳いでいれば、長く生きたところで泳ぎ着ける先は全体から見れば大差はないことはわかっていた。そういう意味では理香珈は既に長く生きることに諦めを抱いていた。
生き抜こうという意志は強くなかったが、お迎えが来る前に自分で、とは考えなかった。この場所に入れられる者の中には将来を悲観して自殺を試みる者がいる。だから、この部屋には紐状の物や先の尖った物は置かれていなかった。
それでも死ぬ気になればいくらでもやりようがあった。知識の差は見える景色すら変えてしまう。理香珈にとってはこの部屋は自殺を防止できる作りにはなっておらず、その浅はかさが妙に楽しかった。
「ほら、行くわよ」
いつの間にか目を閉じていた理香珈はそう呼びかけられて目を開けた。眠っていた……かもしれないが深くはなかった。しかし、声を掛けてきた主は扉を開ける音を立てずに中に進入していた。驚くべき状況だったが、理香珈は驚かなかった。英語で話しかけてきた女声は、理香珈が来るに違いないと思っていた人だったからだ。彼女の能力について詳しくは知らないが、音もなく現れるのは想像の範囲内だった。
ただ、一つだけ少し驚かされた事があった。
「早かったわね。明日になるかと思っていた」
理香珈も英語で応じると、フンと鼻を鳴らす音が聞こえる。
「私たちを舐めないで。本気を出せばすぐよ」
つまり、通常の対応ではなく緊急対応をしたということだ。そう理解した理香珈は、急かしたのがハニー――今暗闇に現れた女性――でなければ、と願った。が、すぐにその可能性は高いと答えを出してしまう。だったら、そうさせた事でハニーの評価が下がらなければ良いのに、と願いを改めた。上司には他人を数値化して評価しているのでは、と思わせる雰囲気があった。評価が高いうちはいいが、下がると切られる。そのカットがそのままの物理現象である可能性も高い。
「でも、出掛ける準備は当然済んでいるんでしょ?」
確かに、理香珈はいつでも出掛けられる服装をしていた。寝る時は下着姿になる派だったが、ここでは脱いでいない。
「……ええ。所持品以外は」
当然ながら、捕まっていた時に持っていた品は全て没収されていた。どこにあるのかもわからない。おそらく、それ専用の倉庫に入れられているのだろう。
「そっちはリリーがなんとかしてくれる。だから、私たちはここから出るだけ。行くわよ」
暗闇にうっすらと縦スリットが生まれた。音もなく扉が開かれたのだ。無言の促しを感じて、理香珈が先に部屋を出る。扉の隙間から予想されていた事だが、廊下は薄暗かった。常夜灯といわれる弱い光が灯っているだけなので、どちらの方向に廊下が延びているかくらいしかわからなかった。消火器などが端に置かれていても暗くて見えない。
留置場前だから明るくないのか、と思ってからすぐにおかしいと気付く。もし、逃げられた場合その姿が闇に紛れて視認しにくいからだ。
束の間の静止をハニーはすかさず見抜く。
「ああ、これもリリーのおかげ」
よく見えないが、ハニーが天井を指差したのを感じた。
リリーはおそらくコードネームだろう。理香珈が属する科学部門とは違い、ハニーと同じ実行部門に所属している。同じ施設にいるから、その名は聞いたことがあったし、その名を聞いた話の流れからおそらく情報操作に長けた能力の持ち主だろうということまでは推測していた。しかし、正体は知らない。リヴァイアサンは研究施設としては大きいが、町なんかとは比べものにならない。だから、話したことがなくても顔を見たことがある人はたくさんいる。おそらくリリーもその一人だ。
そのリリーが動いている。しかもおそらく現場に来ているという状況は、これがハニー独りの勝手な行動――上司は許すことが多い――ではなく、上司が関知している作戦だということだ。
理香珈は思わず身震いした。取り調べで何度恫喝されても動じなかった理香珈だったが、上司がその作戦の後ろにいると考えただけで怖かった。いや逆に、そういう上司がいたからこそ、恫喝程度のことはちっとも怖くなかったのだ。
「はい」
理香珈はハニーから何かを手渡された。形を確かめてすぐに懐中電灯だとわかる。
「必要となるまで点けないで。警備の気を引きたくないから。あと二人までしか眠らせられないのよね。それ以上はさすがにリリーも重荷になるから」
サラリと言われたが、理香珈はそれが人の生き死にに関わる内容だと理解していた。リヴァイアサンに呑まれた人は皆、一般の感覚からすると人命を軽視する傾向にあった。人命よりも遥かに大きなモノを相手にしているからだ。理香珈ももちろんその感覚に準じていたが、一般では「人の命は重いものだと考えられている」という意識はあった。ハニーはもしかするとそう意識しておらず、ただ「面倒だからしない」としか考えていない可能性があった。どう認識しているにせよ、無駄な遭遇は避けるべきだ。理香珈は、ハンドライトの使い方を確認するために一瞬足元を照らしただけで、すぐに消灯する。
前を行くハニーの後をしばらく付いて行くと、ハニーが片手を肩の高さまで挙げた。手振りのルールなど知らなかったが、理香珈は静止と判断して従う。すぐにハニーの手が振られる。彼女の手が開かれているのか閉じられているのか良くわからないほどの暗さだったが、左を示されたのはわかった。さらにそう示されたということは、「先に行け」という指示でもあると理解した。理香珈がハニーの横を通ろうとすると、スッと左手を握られた。
「しばらく行くと左に階段があるから二階分降りて。一階に着いたら右に、その先の突き当たりの角に扉がある。そこから出て」
理香珈は言われた内容を頭で反芻し、ルートをイメージしながら、ハニーが理香珈の手の中に残された小物をいじる。
「今から十分経ったら、その車で出なさい」
それで渡されたのが車のキーだとわかった。また少し遅れてやってきた理解で、ハニーを置いていけと指示されたのに気付く。拒否感から理香珈が眉を顰めて、ハニーの顔を見たが、こちらをもう見ていないのは感じ取れた。
まだ工作が必要で、それには理香珈が足手まといなのかもしれない。理香珈は完全には納得していなかったが、頷くと先を急いだ。
理香珈が去っていくのを感じながら、ハニーは口角を少し上げた。これまでに研究者のような存在を何度か連れ出した経験があったが、そのいずれもが「説明しろ」とうるさかった。頭が良いから余計に、考えて行動する癖が付いているのだろうが、その暇すらない事態だという理解はできないのだ。
その点、理香珈は余計な質問をせず、わかっていた。もちろん、そう振る舞えたのは仲の良いハニーだからこそ確立していた信頼があったからだろうが、それがなくとも理香珈には現場向きの素質があると、ハニーはかねがね思っていた。
そう考えながら、ハニーはほとんど動き見せずに、左手にツールを装備していた。そして、振り向きざま左手を口に添える。
空気を貫く微かな音の後、小さな硬い何かが弾かれた音が続いた。ハニーはまるでトランペットを演奏するように左手の指を動かすと、吹き矢をリロードし、二の矢を放つ。
今度はハニーにも視えた。ただし視えたのは、はっきりとした何かではなく、暗闇の中で何かが動いたという気配のようなものだ。それでも、二発目のダーツも弾かれたのはわかった。
吹き矢の攻撃は効果が薄いと判断すると、ハニーは右腕を振るようにして下へ伸ばす。右の掌の両方から短い刃が飛び出す。片方は反っており片方は直刃だ。
「邪魔するなら殺す」
ハニーが淡々と最後通告を突きつける。
警察の者とは思えなかった。ハニーでさえ目視できない暗闇内での吹き矢を弾く相手だ。異能者に違いない。警察に異能者が存在している――世間には秘匿されていたが――のは把握していたので、ここに居ないはずだった。もし、偶然居合わせたなら、脱走をしていたのを見かけたところで介入してきたはずだ。
警察内にいる、異能者であることを周囲に隠した存在という可能性もあった。それなら、ハニーの侵入や理香珈の脱走を感知しても、自身の秘密を守るために見守っているだけ、という立ち位置かもしれない。
だが、最も高いのは敵だという可能性だ。
上司である大門博士は偉大すぎる故、敵は多く世界規模に存在した。その護衛であるハニーもまた機会があれば排除されてもおかしくなかった。しかしそれ以前に、ハニーは、キラービーと呼ばれていた時代に、多くの敵を作っていた。それも、殺意を持って狙われるほどの恨みを持っている敵だ。
そのような連中に背を向けて去るのは危険だ。だから足手まといになる理香珈を先行させたのだ。
呼び掛けたことで奇襲を断念したのか、相手に動きがあった。闇の中で影が揺らぎ、弱い常夜灯に照らされて、輪郭がはっきりする。
ハニーは相手を視認しづらかった理由に納得する。相手は体に黒い塗装をしていたのだ。また、輪郭から服を着ていないのもわかった。黒装束ではなく、わざわざ脱いでいる事実は、相手が異能者だという予想を裏付けていた。異能――例えば闇に溶け込むように見えなくなる――の発動条件なのだろう。
ハニーが双刃の短刀を構えると、相手も両腕を胸の高さに上げる。その手は開いているようで、まるで漢字の八のようだ。
「邪魔をするかどうかの前に、質問はいいか?」
表情こそ変えなかったがハニーは驚いていた。相手から話しかけてくると予想していなかったのが一つ。もう一つは相手が意外に流暢な英語で話しかけてきたことだった。流暢ではあるが、訛りはある。ボスほどきつくはないが、同じ日本語話者の英語だ。
言葉を通じて精神操作をする異能について警戒したが、すぐにその可能性は低い、と下げる。その手の異能は、言葉を聞いた者がその内容をすんなり理解してしまう機構を利用している。だから、言葉が通じない相手は当然として、訛りという違和感も効果を大いに減じてしまうものなのだ。少なくとも、ボスはそう分析していた。
「先ほどの女性をどこへ連れて行くつもりだ?」
ハニーが応じないでいると、まるで端からこちらの許可など気にしていなかったように男が語りかけてくる。
「拘束されたり脅されたりした様子は見られなかったから、君はあの女性の仲間だと判断したが、それで間違いないのか?」
男の指摘は正解だったが、素直に認めたくなかった。ハニーは基本、あまのじゃくな性格だった。
「答える義理はない」
それに、理香珈とハニーが仲間だと知られること自体マズいと言えばマズかった。その繋がりはリヴァイアサンへと行き着きかねないからだ。
ハニーはこの距離にせまられるまでこの相手を感知できなかった。その相手なら追跡されれば、みすみす巨龍の顎まで導いてしまいかねない。それより怖いのが、別行動しているリリーを狙われることだった。リリーは偉大な異能者だが戦闘力は皆無だ。ハニーが護らなくてはいけない対象だった。それは命に代えても成し遂げなくてはいけない任務、かもしれなかった。ボスにはそこまで求められていないが、希少性からいえば捨てるべきは自分だとハニーは理解していた。
(やはり、殺るしかないか)
為すべきことを天秤に掛けたのは束の間。ハニーは覚悟を決めて相手を睨みつける。
しかし、暗闇の黒い体は標的としては集中力しづらい。さらに、相手には明確な隙は見えなかった。それが第一歩に繋がらない。
(やはり、仕掛けるべきではないか)
そう考え直した自分に驚いたハニーは、まさか怖じ気づいたのかと自問する。すぐにそうではないと確信できたが、では何が躊躇いを惹起させているのかははっきりしない。ただ、決意したのに迷いが生まれた状況は良くないと自覚していた。この小さな迷いはあっさりと死線を越える距離の差を生む。
だからこそハニーは無理をしなかった。普段は滅多にせず、今回もするつもりがなかった相手への質問を投げかける。
「あんた、何者だ?――」言ってからほとんど意味のない質問だと気づいてすぐに言い直す。「――どこの手先だ?」
相手は最初の問いに応じて何か動き掛けたが、すぐに次の質問をぶつけられたことでその行動が止まる。それから数秒、間が空いた後で、背を伸ばすと両手を腰の位置へと動かし胸を張った。
「先ほどの女性の居場所を調べるよう頼まれたが……その依頼人が誰なのかは良く知らない」
自信満々ながら態度を見せておきながら、不明瞭な返答だった。ハニーが対応に迷っていると、男は話し続ける。
「だが、ドクター・スカルと名乗っていた」
「はぁ?」
バカバカしい名前からハニーは思わず言葉を漏らした。まるでヒーローかぶれ――というよりも悪役かぶれの子どもが考え出しそうな名前に呆れたからだ。しかし、それを言うと「ハニービー」と名乗る自分も大差ない。
「どこの組織?」
気が緩み掛けているハニーは、また意味のない質問をしてしまった。そう聞いて相手が素直に答えるわけがないからだ。
「さあな」
やはりまともには答えてくれない。ならば、最初に決めた対応どおりするしかないか、とハニーが考えていると、男の言葉が続く。
「だが、おそらく先ほどの女性の親族ではないか、と考えている」
数秒の思考の後、ハニーの中で警戒の箍が一段階外れた。理香珈が無茶をした理由が、親族の為だという情報は知っていた。それが理由なら、その関係者とここで遭遇したのは納得できたし、何より敵と言えない相手だと点に、ハニーは安心できた。
「それなら、敵対する必要はないわね。彼女は在るべき場所に戻るだけ。これは救出よ」
「やはり、そうか。では、私の出番はないな」
相手の発言だけでなく、その雰囲気からも、戦いは回避されたと見なしていたが、ハニーは油断していなかった。騙し討ちなど当たり前の世界で生きてきた習性だ。
右手に握っていたダガーを元の場所へ格納しつつ、ロスした時間を計算する。
時計の時間は一様に進むが、感じる時間は集中の度合いによって変動する。だから、黒ずくめの男との遭遇で失われた時間がどれくらいだったのかは、考え直さないと通常の時間として認識できなかった。もちろん時計を見れば済むのだが、視線を移せば隙を作ってしまう。
置き去りにしろと言った十分は経っていないのは明白だったが、車の場所まで行く時間を考慮するとあまり余裕はない。警戒しつつ撤退するとなると、間に合わず置き去りにされるかもしれない。しかし、それならそれで連絡を入れて、どこかで合流すればいいだけだ。
後ずさりで距離を取ろうとして、ハニーは眉を顰める。改めて意識を集中して、感じた違和感が正しいのがわかると、小さく溜め息を吐く。
居たはずの男の気配が消えていた。視線は反らしていない。しかし、相手は元よりはっきりと見えておらず暗闇の中の影としてしか認識できていなかった。それでも相手に動きがあれば対応できるように注意していたはずだった。
危うい状況に適応している者は同時に複数の対象に注意しなくてはならない。しかし、全ての対象に深く注意を向けられるわけではない。そこで培われるのは危険に対しての反射的な行動力だった。
だから、闇に潜む相手が急に飛びかかってきたり、武器を構えたりしたならハニーは自然に体が動いていただろう。だが、相手は静かに身を引いた。だから、束の間考えていたハニーはそれに反応できなかったのだ。
しっかり見えていたらもちろん別だった。ハニーは、暗視バイザーを装備していなかった事を今になって後悔した。
暗視バイザーを付けてこなかったのは、急激な明るさにはむしろ弱点になりうるという欠点と、視野が狭くなるのが嫌だったからだ。ボスの話では、「人が感知しうる範囲は全て見える」はずだったが、それでもハニーは視野が狭くなる感覚を拭えなかった。おそらく、意識できていないが、視野のみ外に視える領域が存在しているのだろう。その領域は不意打ちを警戒するのに極めて重要だった。
ハニーは一度格納した双刃の短刀を取り出すと、音もなく前進した。やはり、居たはずの男の存在は感じられない。さらに少し進み、床に落ちているはずの痕跡を探す。
すぐに、探していた吹き矢が見つかった。それを拾い上げるとベルトに挟み込む。最初に吹いた矢は時間経過で溶けてしまう。良くわからないゴミとして片付けられるはずだが、今拾った矢は形を留めて残ってしまう。リリーに処理を任せられなくはないが、想定外の後処理はなるべく掛けたくない。
吹き矢は飛んだ先には転がっていなかった。やはり、叩き落とされたという見立ては間違っていなかったようだ。
相手の暗視能力はハニーを上回っていた。ハニーなら吹き矢の攻撃を避けられただろうが、叩き落とせるほど見えてなかった。
さらに周囲を観察し、相手がトイレの中へ引いたのがわかった。そして、直ちに追跡を諦める。トイレの中は死角が多すぎる。待ち伏せされていた場合、それの対応は難しい。
ハニーは後退りで数歩離れると、直ちに踵を返し走り出す。もちろん足音を立てない範囲での移動だ。想定外の遭遇はあったが、無事に撤退できそうだと判断していた。そして、遅れて、先ほど会った相手が先日上司と確認した異世界からの侵入者と遭遇していた存在だったと気付く。あの時は、戦車に生身で挑んだ行動を「バカな奴だ」としか思わなかったが、あれがその男だったなら、「バカだ」という評価は変わらないが、「相手にするのはマズい奴」という評価は付け足さなくてはならない。
「枚鴨市か……」
上司が「特異点」と呼んで近寄りたがらなかった場所。ハニーはようやくその気持ちが理解できた気がしていた。
理香珈はハンドルを握って待っていた。留学から帰ってから運転した機会はなかったが、ブランクがあるからと嫌がるわけにはいかない。一刻も早く逃げ出すためにはハニーに運転させるよりかは自分がする方が早い。
そもそもハニーは運転免許証を取得していない可能性があった。不携帯なのは理香珈も同じだが、もし警察官に止められて免許証の提示を求められた時は、先に理香珈が対応すべきだと考えていた。警察官がこちらに目を向けている数秒間があれば、ハニーが相手を無力化をしてくれるはずだ。
扉が開いて、ハニーが助手席に乗り込んできた。車に近付いてきたのはやはり認識できなかったが、ドアを開けるのまでは当たり前だが気配を殺すわけにはいかないようだ。
「何分経った?」
ハニーの問いは、「十分経ったら先に行け」という指示に関する経過時間だとわかった。もう一つ、声色からハニーが怒っているのもわかったが、理香珈は正直に答える。
「知らない。計ってないもの」
理香珈には元よりハニーを置いていくつもりはなかった。警報が鳴り、明らかに理香珈の脱走がバレたとわかれば別だが、多少遅れたところで事態が落ち着いていたら、ハニーを見捨てるのは気が引けた。
「あんた、自分の立場わかっているの?」
ハニーの声に苛立ちの割合が激増する。予測していたとはいえ、理香珈は相手を直視するのが気が引けて、肩を竦めると、車を始動しようと手を伸ばす――が、それを果たす前に肩を掴まれた。
「今度ヘマしたら、アタシはあんたを殺さないといけないのよ!」
その警告は既に何度も理香珈が反芻していたことだった。人を助け出すよりも、その場で始末した方が働きかける側の負担は少ない。今回の場合は理香珈が所持していた品で身元が繋がる物がなかったはずだから、リリーを投入しなくても済んだだろう。そうなっていてもおかしくなかったと理香珈は理解しており、その選択を受け入れる覚悟もできていた。
しかし、ハニーの声に違和感を覚えた。理香珈は単に肩を掴まれたからというだけの理由ではなく、違和感の原因を知るためにハニーへ視線を向け……愕然とした。
ハニーは涙を流していた。
理香珈は後頭部を殴られたような衝撃を受けた。すぐに、自分が自分のことしか考えていなかったと痛感させられる。
ハニーはプロだ。だから、上司から「救出は諦めて始末しろ」と命令されたら、いざその機会になった時に躊躇いはしない。きっと頭の中で何度もシミュレートをして手を止めない覚悟を固める。それだけでなく、ハニーは上司からその指令が下りなかった現実でも、予め心の準備を整えていたのだ。
想像の中で、ハニーは何度も理香珈を殺めていたに違いない。その度に、ハニーの自分の心にナイフを突き立てていたという事実を、理香珈は考える時間が十分にあったはずなのに、ハニーの涙を見るまで考えが至らなかった。
「……ごめんなさい。もう勝手なことはしません」
理香珈もまた涙を流し、謝った。
こうして、|枚鴨市で密かに繰り広げられていた、強化された人間が暴走する事件は、その強化薬の供給が途絶えたのであった。