王家の悪魔
夜、一人で部屋にいながら、ルクレティアは考えた。
(でも、幼いわたしは、リーヴァイ兄様が実の兄でないことを知っていたんだわ。一体、いつ忘れてしまったんだろう)
いいえ、違う。ルクレティアはそう思った。
(そうじゃない。……わたしは知っていた、兄様と血の繋がりがないことを、確かに知っていた)
知っていたということを、今、思い出した。記憶の混濁により、忘れていたのだろうか。
(それどころか……わたしはリーヴァイ兄様を、愛していたの?)
あれは未来の記憶だという確信があった。だがルクレティアはオーウェンを愛していたはずだ。だからこそ、アリシアを殺害しようとしたのだ。
(確かめなくちゃ)
ソフィーが置いていったハルヤナギの香は、まだ手元にあった。王都から持ち込んだ荷を探ると、半分ほどに減っていたが使えそうだった。
(わたしの魔力は全然弱いけれど、自分の記憶のことだもの。もしかしたら、探れるかもしれないわ)
マッチをこすり、香に火を付けると、途端、甘い匂いに包まれた。ベッドに横になり、目を閉じる。ソフィーは危険だと言っていた。だが誰かに術をかけてもらっても、その誰かに怪我を負わせてしまうかもしれない。
成功しなかったのなら、それでいい。一度だけ、これっきり、試してみよう――。
(ソフィーがやっていたのは、こんな魔術だったかしら?)
考えるのさえ悍ましい記憶であったが、探らなくてはならない。魔法陣さえ出ないほど弱々しい魔術を、体の周りに這わせた。
深く、深く――ルクレティアは、集中した。
そうして次に、気を失うような、感覚があった。ルクレティアの意識は、ふっと、消えた。
始めは、どこまでも広がる、果てのない漆黒の闇があるだけだった。
だがやがて、一筋の光が、ルクレティアの前に出現する。その光に向かって、進んでいった。
―――――。
光に包まれ、一瞬、自分がどこにいるのか分からなかった。
やがてぼんやりと明確になる景色が広がっていった。温かな、春の陽光が、目に入った。
アリシアとオーウェンが仲睦まじく、城の池の周りを散策している。自分はそれを、邪魔にならないように、遥か後ろから付いていく。あまりにも美しい二人。誰も入り込めない完璧な空間だった。
(これは、わたしの記憶の追体験なのかしら……? 魔術が成功したんだわ)
自分の体に自由は無かった。記憶の中で、ルクレティアは思う。
――オーウェン様は、アリシア様を愛しているんだわ。だったら……。
そう小さく呟いて、ルクレティアは手を握りしめた。
自分の記憶を見つめながら、ルクレティアは思った。
(これは未来の記憶だわ。やっぱり彼女は現れるんだ。わたしは、アリシア様に嫉妬をしたのかしら。だから、彼女に毒を盛ったの?)
再び、体が引かれるような感覚があった。
リーヴァイとオーウェンが声を荒げている姿があった。城下町の一角だ。暗い、夜。様子のおかしい二人を見て、ルクレティアは後を付けた。
――彼女は誰のために作られた! お前などには渡さない! 卑しい存在の分際で、彼女を掠め取るつもりか!
叫び声の後で、リーヴァイが、オーウェンに向かって魔法陣を出現させた。
彼が殺されてしまう。そう思い、ルクレティアは二人の前に飛び出した。体に魔術が当たる気配がして、叫びながらルクレティアは気絶した。
また、場面は変わる。
冷たい、牢の石の上にいた。体中が痛くて、動かす気力はない。
目の前に差し出された毒を、ひと思いに飲み込んだ。死の間際、恐ろしいほど冷徹な表情でこちらを見下ろすその人に向けて、ルクレティアは思った。
――わたしは、それでも彼が好き。だけど……。
やがて全身を襲う痛みがあり、激しく体を震わせながら、ルクレティアはこと切れた。
―――――。
叫びながら、目が覚めた。
悲鳴を聞きつけた侍女が、慌てた様子で部屋に入ってくる。その背後には、どういうわけか、リーヴァイとソフィーの姿があった。
「わたしは死んだ! わたしは死んだの――!!」
混乱のまま、ルクレティアは喚いた。そうして毒を飲んだ時と同じく、全身に痛みを覚え、抗い難く咳き込んだ。咳に混じって、自分の口から大量の血が吐き出されたのを見る。
「ルゥ、落ち着け! 大丈夫だ。俺が側にいる」
リーヴァイが、顔を困惑に染めながらルクレティアの手を掴むが、それを振り払った。なぜ彼がここにいるのかなんて、疑問に思う余裕さえなかった。
「兄様が殺した! わたしを殺した!! 貴方はわたしを憎んでいた!!」
「リーヴァイ下がって! 眠らせるわ!」
そう聞こえた直後、ソフィーの温かな魔法が体を包み、そのまま昏倒させられた。
深い、眠りだった。
今度は、夢は見なかった。
うっすらと目を開くと、燭台の朧気な灯りが見えた。ベッドの脇に寄り添う、ソフィーの姿もあった。
「起きた? 貴女は、一週間も眠っていたのよ。使用人が大慌てでリーヴァイに連絡して、あたしも一緒にすっとんで来ちゃった」
「そんなに長く?」
掠れる声が、それを証明しているかのようだった。横たわったまま、ルクレティアは呟いた。
「ありがとう。……わたし、倒れてばかりだわ。どうしてしまったのかしら」
囁きに気付いたソフィーが、ルクレティアを見て微笑んだ。
「そうね。でもさっきに限ってはあたしが気絶させたのよ。とても混乱していたようだったから。一人で魔術を実行したの? 危険だからだめって言ったでしょう」
「ごめんなさい」
彼女の言うことは尤もだ。素直に謝罪してから、ルクレティアは言った。
「ねえソフィー。わたし、記憶を、見たの」
ソフィーは驚いたように目を見張る。
「うっそ。術が成功したの? 影には阻まれなかった?」
「ええ、全然。記憶は断片的なものだったけど、間違いなくわたしのものだったわ。壊れてなんていなかった。それでね――」
アリシアを殺そうとしていたのだと、今度こそ伝えなくてはと思い口を開くが、ソフィーは独り言に没頭する。
「この天才魔術師のあたしに成功できなくて、魔力の弱いルクレティアが成功できたのは、なにかしらの意味があるに違いないわ」
冗談なのかと思ったが、ソフィーの顔は真剣だった。ルクレティアが再び話しかけようとする前に、ソフィーが言葉を発した。
「ねえルクレティア。怖がらないで聞いてくれる?」
真剣な表情だった。
「ルクレティアの見た記憶なんだけど、あたしは術者があえて、見せたのだと思う。他人に見られるのは禁止したけれど、ルクレティアが見ることは拒まなかったということよ。貴女の記憶を断片的に見せて、誰かが得をしているのかもしれないわ」
「考えすぎよ、たまたまでしょう……?」
記憶を断片的に見せる意味が分からない。
「いいえ、違う。何かがあるはずよ。貴女に隠したいことがある、とか。貴女に間違った選択をさせたい、とかね」
ルクレティアはますます混乱した。
「わたしが間違った選択をすることで、誰が得をするというの? わたし、兄様と違って魔力も全然ないし、公爵令嬢と殿下の婚約者という肩書がなければ、単なる人に過ぎないわ。
フォルセティ家に公爵令嬢なんていくらでもいるし、……婚約者といっても、婚約破棄すればいいだけ。実際、王族達は皆結構、自由に婚約したり別れたりしているわ。縛りなんて緩いもの。わたしに価値なんてないと思う」
「だけど貴女には美貌があるわ」
「冗談やめて。わたしなんて誇れる外見じゃないわ」
ソフィーはおかしそうに吹き出した。
「それって嫌味で言ってるの? 鏡を磨いて自分の姿をよく見てみると良いわね」
鏡は嫌いだった。いつだって、自信のなさが表情にまで表れた、みすぼらしい自分を発見するから。
ソフィーが顔を鏡に向けたため、ルクレティアもつられてそちらを見て、視線が止まった。目が離せなくなったのは、鏡に映る自分を見たからではない。その手前にある花瓶を見つけたからだ。美しい花器に負けぬほど美しい白い薔薇が、咲き誇っていた。
(兄様の薔薇だわ。わたしが好きだと言ったから、いつもこれをくれるんだ)
未来の記憶の中で、ルクレティアはオーウェンではなくリーヴァイを愛していたのだろうか。
わけのわからないことだらけだ。だがソフィーになら、分かるかもしれない。
(言わなくちゃ……でも、失望されてしまうかも)
純粋な疑問を抱く親友の瞳を前にして、さきほど一瞬湧いた勇気が、再び消失しそうになる。両手を胸の前で組んでから、ルクレティアは意を決して言った。
「ねえソフィー。……ごめんなさい。情けなくて、貴女に言えなかったことがあるの」
そうしてようやく、ルクレティアは未来の記憶について、すべてを話した。
オーウェンと恋に落ちたアリシアに嫉妬し、殺害を企てたこと。それが露呈し、投獄されたこと。だからこそリーヴァイに疎まれ、憎まれたのだということ。
言い終わり、情けなくて泣きそうになるルクレティアの一方で、神妙な顔でソフィーは言った。
「それは――……なんというか、ルクレティアらしくないわね。貴女の心の清さったら、湖の魚も死滅するくらいよ」
独特な褒め言葉に、少しだけ心が慰められる。
「どうかしら。わたし、ソフィーにずっと自分の殺人未遂のこと、言えなかったわ。貴女に失望されるのが怖くて……そのくらい利己的な人間だもの。ありえなくないってことは、自分が一番良く分かる。
それに確かに、見た記憶で、実際に兄様はわたしの死を願っていたわ。もし今兄様が、わたしを愛してくださっているのなら、その愛が消えてしまうことを、わたしはしでかしてしまったのだと思う」
うううん……と、ソフィーは首を捻って唸ったきり、黙り込んでしまう。ルクレティアはまた言った。
「それから、その――ちょっと、言いにくいことも思い出したんだけど。わたし、もしかしたらリーヴァイ兄様を愛しているのかもしれない。男の人として……」
最後の方の声は、小さなものになる。目を見張るソフィーに向かって、ルクレティアは言った。
「でも、術の中で見た記憶は、やっぱりオーウェン様を愛していたから、わたしの気のせいなのかもしれないわ。わたしにも、全然、分からないの。混乱しちゃって」
「あたし、ちょっと……怖いことを考えてしまったわ」
「どんなこと?」
「『王家の悪魔』ってお話があるでしょう」
「童話の話? なに、急に」
この国では有名な童話だった。内容はこうだ。
『昔々、ローザリア王国に生まれた王子は大層魔力が高く、強い力を自分では抑えきれず、魔法が暴走しては人々を傷つけていた。けれどある日出会った美しい娘は、癒やしの力を持っていた。彼女に出会ってから、王子の魔力は落ち着き、残虐だった性格もまた、穏やかなものになった。王子は娘を后とし、良き王として幸せに暮らした』
「このお話は当然物語だけど、元になった人はいる。三百年前の王、ノア王とその后フレイヤ。ノア王は四十五歳で、十四歳のフレイヤを娶ったと言われているわ。かなりの年の差。今の価値観では考えられないわね。
ノア王の魔力は高く、度々暴走を繰り返していたようだけど、フレイヤを娶ってからは、それもぴたりとなくなった。フレイヤが事故で亡くなったのは三十四歳よ。その時ノア王は六十五歳。当時の基準で言えば高齢とは言えたけど、健康な人で突然の死だったの」
「ソフィーったら、一体、なんの話をしているの?」
「リーヴァイの魔力は、オーウェン様のものとよく似ていた。リーヴァイは上手く隠していたけど、この天才魔術師ソフィーはお見通しだったのよ。それに貴女の小さくて可愛い魔力は、彼等の魔力ととても良い相性で結ばれている」
「わたし全然分からないわ。それがどういう意味があるっていうの?」
分からず困惑するルクレティアに向けて、ソフィーは神妙な顔で頷いた。
「童話は単なる童話じゃないのかも。でもこの推論を、推論のまま口に出すことはできないわ。確信が欲しい」
それからソフィーは微笑み、話題を変える。
「リーヴァイに会うのは、まだ恐ろしい?」
こくりと、ルクレティアは頷いた。
「そう、じゃあ、彼はここに留まりたがっているけど、あたしが王都に連れて帰るわ。ルクレティアの敵が彼かもしれない以上、記憶の話もしない方がいいわね」
ふう、とソフィーは息を漏らした。
「……リーヴァイね、魔力が弱くなっちゃったみたいなの。貴女がおかしくなってしまった日からよ。この符号は偶然じゃないと思う。彼とオーウェン様の魔力が本当に似ているかどうかもっと探ろうと思ったんだけど、あんなに弱くちゃ確かめようもなくなってしまって。尋ねてもはぐらかすばかりで、彼は何も教えてくれないわ。心当たりはある?」
驚きつつも、首を横に振る。
「じゃあ兄様には、全然魔力が無いの?」
「少しはあるけど、前と比べたら月とうんこだわ」
大真面目な顔をして、ソフィーはそう言った。