破壊されている
一晩中、眠っていたようだ。朝の光に気が付き目を開けた。
ベッドの隣には変わらずオーウェンがいて、起きたルクレティアに向けて微笑み、手を取り、キスをされた。切なさが疼く。彼を諦めなくてはならないのだから。
「おはよう、気分はどうだ?」
気分の悪さは続いていたが、幾分ましだった。
目をベッドの脇に向ける。白い薔薇が飾られていた。疑問を口にする前に、オーウェンは言った。
「君が眠っている間に、リーヴァイが来て、花を置いていった」
兄のリーヴァイがくれる花は、いつもこの白い薔薇だった。
ルクレティアは起き上がり、周囲を確認する。オーウェンの部屋だった。
鏡の前まで行って全身を確かめる。蘇った記憶ではボロボロだった体など、やはり嘘であったと思えるほどに、健康そうな娘の姿が映り込んでいた。
朧気な淡い灰色のウェーブがかった髪に、作り物の硝子玉のような薄い青い目。だがルクレティアはこの外見が、あまり好きではなかった。
――外見ばかりの空の人形だ。
そう言ったのは、やはりリーヴァイだった。アリシアが現れてから、嫉妬に狂ったルクレティアに対して、確か彼はそう言った。その頃の彼から時折向けられるのは、軽蔑と侮蔑が入り混じった怒りを孕んだ瞳だった。
鏡の前で、体を抱きしめた。兄は優しい人だった。あの優しい兄にあれほどの失望をさせてしまうことを、自分はやってしまったのだ。
鏡の前で、ぼうっとそう思っていると、背後にオーウェンが立ち、ルクレティアの体を抱きしめる。温かさに、ほっとした。
その時、部屋の扉が叩かれた。
現れたのはリーヴァイだった。ひどく心配そうな表情を浮かべ、近寄ってこようとしていた。
「ルゥ? 体調は良くなったかい?」
「ひっ……」
反射的に、ルクレティアの体は震えはじめた。
「兄様、来ないで、お願い――!」
再び胃からこみ上げたが、空のそこからは、胃液ばかりが出るだけだった。本能的な嫌悪だった。
彼はルクレティアを蹂躙させた。彼がルクレティアに毒を差し出した。たとえルクレティアがアリシアを殺そうとしたことが原因だとしても、そうと理性で抑え込めるほど簡単な記憶ではなかった。
ルクレティアの背をさするオーウェンと唖然と棒立ちをするリーヴァイ以外の声がしたのはその時だ。
「リーヴァイ? ルクレティアに何をしたの? 彼女の優しさに甘えて、とんでもないことをしたのではないでしょうね?」
彼女の姿を見て、ルクレティアは幾分安心した。それは兄の同僚の宮廷魔術師ソフィー・ネストであったからだ。ルクレティアと同じ年の彼女はいつも親切であり、宮廷における心を許せる友人の一人だった。
「何もしてない! するはずがないだろう!」
「まあ、それもそうかしら」
結っていない赤い長い髪を手でばさりと振り払うと、ソフィーはルクレティアの隣にかがみ込み、ふいに眉根を寄せた。だがすぐに元の表情に戻ると、オーウェンを見た。
「彼女は、同じ女であるあたしが世話をしますわ。あたし、医療魔術にも精通しているし、適任だと思います。よろしいでしょうか、殿下?」
「ああ……それでいいかい、ルクレティア?」
言葉さえ発せずに、床に手をついたまま、ルクレティアはこくこくと何度も頷いた。
とにかくリーヴァイから離れたい。彼が側に寄るほど、ルクレティアの心の中に、果てしのない戦慄が募っていくのだから。
◇◆◇
「わたし、もう寝ていなくても大丈夫だわ。これじゃあ本当に病気みたい」
再びベッドに寝かされたルクレティアは、小さく文句を言ったが、ソフィーは首を横に振る。
「吐いて倒れるなんて病気よ。体には異常はなかったけど、安静にしておいた方がいいわ」
子供にするようにルクレティアの体を優しくぽんぽんと叩く彼女に向かい、言った。
「ソフィーは結婚の準備のために、婚約者様の領地に行っているものだと思っていたわ」
親友はもうすぐ結婚する予定だった。未来の記憶の中でも、この時期に彼女は結婚し、ルクレティアの死の付近には、相手の領地で暮らしており、一連の事件をまるで知らないまま過ごしていた。
笑いながらソフィーは言う。
「向こうに持っていく魔導具の荷造りをしようと思って、たまたま戻ってきたのよ。貴女のこと、とても心配よ。さっきの態度は普通じゃなかったもの。殿下じゃなくて、リーヴァイの方を嫌がるなんて意外だわ。こんなことを言うだけで不敬罪かしら?」
「どういう意味?」
ソフィーは微笑み、首を横に振る。
「貴女が平気なら、関係のない話。それよりも、リーヴァイを拒否するなんてどうしたの? リーヴァイは昨日だって、ずっと寄り添っていたのよ。オーウェン殿下は途中でお休みになられて、戻ったのは朝方だったわ。自分が付いているからと、リーヴァイを部屋から出してしまったみたい。それであたしのところに来て、妹を診てほしいって言ってきたのよ。あたし、あなたが倒れたなんて全然知らなかったから、大慌てだった。
ルクレティア、一体、何があったの? さっきの貴女の様子はどう見てもおかしかったわ。誰にも言わないから、言ってごらんなさい」
先ほど感情が極限まで上り詰めたためか、信頼するソフィーと二人きりでいるせいか、ルクレティアの気分は先ほどよりも落ち着いていた。
話す気になったのは常に研究熱心で、未知なるものを追求する性格で、また唯一無二の親友のソフィーならば、ルクレティアの話を頭から否定しないという確信があったためだ。
「何があったのか、わたしにも分からなくて。突然、全然知らない記憶が流れてきて……。ううん、違うかも。もっと正確にいうなら、わたし、さっきまで未来にいたような気がするの。それで死んで、なぜかは分からないんだけど、一年前に戻ったように思ってしまうの。……それで、その、記憶の中で、兄様は、わたしを――……わたしを、憎んでいたから」
自分がアリシアに嫉妬し殺害未遂を働いたということを、ソフィーには言うことができなかった。親友を失望させたくなかった。
「未来の記憶は全部あるの?」
「全部……ってわけじゃないわ。でも、自分が死んだ時のものだけは、はっきりと覚えているの」
それ以外は今は遠く、靄がかかってしまったようにはっきりとしなかった。
ソフィーは、神妙な顔をして頷いた。
「分かったわ」
「嘘、信じてくれたの?」
否定はされないと思っていたが素直に信じてくれるともまた思っていなかったため、ソフィーの態度に驚いた。ソフィーはなおも頷く。
「貴女に、黒魔術がかけられた形跡があった。昨日まで貴女にそんな気配はなかったのに、さっき見たら、突然その気配がしたのよ。それが貴女に何か影響を及ぼしているんじゃないかと思って、二人きりになりたかったの」
ルクレティアは戦慄した。
「黒魔術? 誰かがわたしに攻撃しようとしたの? 心当たりなんてないわ。どうしてわたしなの? 兄様と違って魔力なんてほとんどない、なんの才能もない、全然だめな人間なのに」
「ルクレティアが人の恨みを買う人じゃないってことは、親友のあたしが保証する。だけど憎しみっていうのは、その人に関係ないところで育まれてしまうものよ。逆恨みって言葉もあるくらいだもの」
静かなソフィーの言葉に、ぞっと身震いした。フォルセティ公爵家に敵は多い。王子の婚約者という自分の立場を疎む人もいるだろう。
「貴女のことを診てもいいかしら」
頷くと、ゆっくりとソフィーの手がルクレティアの体に触れた。温かな魔法陣が体のあちこちに浮遊する。そよ風に包まれているかのような心地の良さがあった。
数秒の間の後で、ソフィーは眉を顰めて言った。
「あなたの記憶が壊されている」