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悍ましい記憶

「ここに、青い毒と赤い毒がある」


 冷たい牢の石の上に体を横たえながら、ルクレティアは目前に兄の姿を見た。起き上がる気力もない自分の一方で、鉄格子の向こうの彼の姿には何一つ変化はなかった。

 ルクレティアと、兄リーヴァイの外見はあまり似ていない。彼の持つ漆黒の髪は後ろで束ねられ、深い海の底のような青い瞳がじっとルクレティアに向けられていた。


 リーヴァイの両手には、小瓶が握られていた。優しささえ覚えるほどの穏やかな声色で、彼は言う。

 

「どちらを選ぶ? どちらを選んでも、お前は救われる。殿下は彼女を愛している。お前はその彼女を殺そうとした。本来だったら民衆の前で首を切ってもいいが、その前にこの俺から慈悲を与えよう」


 与えられる食事は一日一度の、具のないスープ。一筋の日の光さえ入らないこの地下牢に来て、数週間。見る間にやせ細った。自分の姿を確認することさえ恐ろしく、牢の中の鏡は布で覆っていた。


「ルクレティア。何を迷うことがある? 出来損ないのお前を見ているといつも苛ついた。死んでくれた方がましだと、何度も思ったさ。なあ、これ以上、生きていても仕方がないだろう? お前が死ねば、家と俺の評判は守られる。どうか俺のために死んでくれないか」


 ルクレティアはリーヴァイを信頼していた。婚約者を除けば、世界で一番好きな人だった。宮廷魔術師の彼の持つ魔力は強大で、彼がいれば我が国ローザリアの未来も明るいと、そう言われていた。ルクレティアはこの兄を尊敬し、家族として愛していた。

 だが数日前、ルクレティアに対する兵士たちによる長時間の拷問があり、誇りを長時間に渡って蹂躙された。彼はそれを、無感情に見つめていた。救いを求め伸ばした手を、握ろうとさえしなかった。

 なぜあんな仕打ちできるのか理解さえできない、悪魔の所業だ。しかし今になっては、彼こそが救いの天使のように感じた。


 どちらでもいい――。この地獄を終わらせてくれるのならば。

 凍えそうなほど冷たい体を無理矢理起こし、彼の持つ毒を手に取り飲んだ。どちらの色を選んだかなど、気にするいとまもなかった。

 

 ルクレティア・フォルセティは、絶望のうちに自殺した。死の間際、何かを強く思ったような気がしたが、それが何かは忘れてしまった。



 ◇◆◇



(今の、何?)


 兄のリーヴァイが、硬直したルクレティアを不思議そうに見つめている。彼の手は、再会の喜びを表現するかのように、ルクレティアに触れていた。

 リーヴァイの手に触れた瞬間、ルクレティアの脳内に、その記憶が蘇った。悍ましい、死の記憶。

 ルクレティアも、つい先ほどまでは、彼との再会が嬉しくてたまらなかった。宮廷魔術師という立場でありながら、自ら戦地へ赴き兵を率いていた彼と、実に数ヶ月ぶりの再会であったからだ。


 三つ上の彼とは年も近く、小さい頃から仲が良かった。だから、彼が戦場へ行くと聞いた時は、辛くて堪らず、一人隠れて泣いたものだ。だからこうして彼と再会することを心待ちにしていたはずだ。なのに――。


「どうした、ルクレティア?」


 側にいた婚約者でもあり、このローザリア王国の王子オーウェンが、心配そうな目をして見つめていた。

 一瞬、ルクレティアは、自分がどこにいるのか分からなかった。やや間があって、オーウェンを含めた、家族だけの食事会が始まる直前だったことを思い出す。

 会いたかったと、思っていた。心が弾んでいた、はずだった。だが今はリーヴァイが、恐ろしくてたまらない。


(兄様はわたしを殺した。兵士たちに襲わせた。わたしに毒を、飲ませた。この人が……!)


 妄想などではない。脳裏に蘇ったあまりにも鮮明な死に際の記憶が、実際にそれが起こったことだと確信させていた。


「ルゥ? 本当にどうしたんだ。大丈夫か」


 リーヴァイがルクレティアに一歩近づいた。瞬間、あまりの気持ち悪さに吐き気を覚え、実際にルクレティアは、抗えずにその場に吐いた。

 なおも体に触れようとするリーヴァイを、ルクレティアは振り払った。


「い、いやあああ兄様、来ないで! 来ないで‼︎」


 大失態だ。公爵家令嬢にして、あり得ない粗相。この場にいるのが自分と婚約者のオーウェンと、そうして兄だけで良かったのかもしれない。他の人の目に、この無様な姿を晒すことはないのだから。

 

 私が部屋へ連れて行こう――そうリーヴァイへ言うオーウェンの声を聞きながら、ルクレティアは気を失った。

 


 気分の悪くなるような夢を見ていたような気がして目が覚めた。だが目覚めても、悪夢は消えてくれなかった。側に、心の底から心配そうにルクレティアを見つめているオーウェンの姿あった。


「起きたかい? 医者は安静にしていろと言ったから、食事会は中止にしたよ」


 オーウェンの手が、ベッドに横たわったままのルクレティアの髪を、優しくゆっくりと撫でる。呆然としたまま、ルクレティアは彼を見た。


(さっきの記憶、一体、なんだったの……?)


 ルクレティアとオーウェンは婚約者であり、王国の王子と公爵家令嬢として幼い頃から、何一つ障害のない愛を育んできた。

 だが記憶の中で、彼は、別の彼女を愛してしまった。平民出身のアリシア。美しい人。たちまち二人は恋に落ち、身を焦がすほどの激しい愛を、彼は彼女に抱いていた。けれどルクレティアは、彼が他の女性を愛していると告げられてもなお、愛していた――。


(そうよ……オーウェン様は、彼女を愛していた。わたしが彼女に毒を盛った……。彼への、狂った愛情故に……。だからわたし、牢に、入っていた)


 混乱していた。彼女を殺害しようとした罪により幽閉され、兄リーヴァイから毒を受け取って、絶望しながらこの世界から去ったはずだった。


(わたし、なぜ生きているの――? わたしは死んだはずじゃないの……)


 あれは冬だった。凍えそうなほどの牢の寒さを感じていた。うっすらとカーテンの開かれた窓の外を見る。今も、冬だ。外には雪がちらつき、暗い。日は沈み、とうに夜のようだった。

 食事会があるはずだった。ルクレティアの両親が来る。他にも、親しい友人が数人。


「オーウェン様。食事会は、大丈夫、なのでしょうか」


 掠れる声でやっとそれだけ言うと、オーウェンは微笑んだ。


「何も心配しなくていい」


 ルクレティアの顔は思わず赤くなる。

 蘇った記憶の中にも、これから開催される食事会はあった。そうしてその記憶の中だと、その一年後に、ルクレティアは死ぬ。だとしたら。

 

(過去に、戻ったとでも言うの――?)


 そんなことが、あり得るのだろうか。だが実際に、ルクレティアは生きている。

 

「オーウェン様、あの……」

 

 蘇った記憶の話をしようと口を開きかけたところで、止まる。

 由緒正しき公爵家の令嬢であるルクレティアが、狂ったと思われかねない発言をしてはならない。たとえルクレティアにとって真実であろうとも、世間から奇異の目で見られるような振る舞いを、信頼する婚約者の前といえど、表すことは許されなかった。


「いいえ、なんでもありません」


 首を横に振ると、オーウェンの温かい体に抱きしめられた。


「安心しなさい。私もずっと、側にいるから。可愛いルクレティア」


 彼の体を抱きしめ返しながら、ルクレティアは考えた。

 

(これから先、アリシア様が現れ、オーウェン様と恋に落ちるのなら、もう、この人からの愛は求めてはいけないんだわ)


 二度とあんなに惨めで孤独に、死にたくはなかった。

 オーウェンに初めて出会ったのは、ルクレティアが五歳の時だった。政略的な婚約で、自分が生まれた時にはすでに、オーウェンと結婚することが決まっていた。

 自分は早熟な子供だったのかもしれない。二つ年上の彼が婚約者なのだと告げられた瞬間にはもう、恋に落ちていた。絵本に出てくる王子様みたいだと、幼いルクレティアは度々思っていたし、実際に彼はとても優しかった。ただ、童話に出てくる姫は、自分ではなかったというだけの話だ。


 彼は誠実な婚約者で、当たり前に恋をしていた。

 けれど彼の方は、そうではなかったのだろう。


(婚約を取りやめなくてはならないわ。もうわたしが、馬鹿な真似をしないように)


 オーウェンがアリシアと出会い、真実の愛を得たのなら、今度こそ彼を解放してあげないといけない。嫉妬に狂ったルクレティアが、彼女への殺人未遂をする前に。

 アリシアを殺そうとしていた頃の思いは、今にあっては遠く、いまいち理解が難しいが、確実に自分がしでかしたことなのだ。潔く身を引いた方がいい。 


(だけどもしアリシア様が現れなかったら? ずっと一緒にいられるんじゃないの?)

 

 考えて、打ち消した。


(だめよ、殿下を愛しているのなら、彼の愛を応援することこそが、愛というものでしょう?)



第一話をお読みくださりありがとうございます!

短めのお話になります。

現在投稿中の「イリス、今度はあなたの味方」の元々のお話として脳内で考えていたものですが、全然別物になってしまったのでこれはこれで投稿いたします。

お楽しみいただけると嬉しいです!

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