博士の家
ブランザ邸では、夫人がふたりを出迎えてくれた。年齢相応の表現をするのは申し訳ない、美しい女性――それが、クラリス・ブランザ夫人に対して多くの者が抱く第一印象だろう。飲みものを用意するからと席を外すと、メロディとローガニスはすばやく室内に視線をいきわたらせた。
「整理された空間だな」
「事前に要請を出しましたから、急いで片づけることは可能でしょう。まあ、だとすればもう少し埃っぽくても良いと思いますが……」
「何が言いたいんだ?」
「ブランザ夫人、縋りたい思い出もなく過ごしていたと思います?」
「誰もがメリッタ氏と同じ思考を辿ったとは限らない」
「配偶者が姿を消したという条件は一致して……」
急に言葉を区切られて眉をひそめたが、まもなく「お待たせいたしました」ブランザ夫人がトレーからテーブルにティーカップを移動させた。礼を述べながら席に着く。
「ご用件は存じ上げています」
緩く波打つブルネットを耳にかけながら夫人は視線をふたりそれぞれに向けた。
「それは話が早くて助かりますね」
「話さねばなりませんか?」
「可能であれば」
「夫に37番目だと蔑まれた憐れな女から、何を知りたいというのでしょう?」
「記憶にあるかぎり〝37の女〟です。37番目ではなかったと思いますけど」
「変わらないでしょう」
「そうでしょうか。科学者としては言葉を正確に扱おうとするものではありませんか?」
「あなた方に彼の何がお分かりになると?」
「わからないので話を伺いに参りました次第です。話してくださると大変助かります」
夫人は手にしたハンカチを強く握りしめる。
ローガニスに代わってメロディが「あのオルゴールは証拠品として記録されましたが、保管はされていませんでした。今はどこにあるのかご存じですか?」話題を引き継いだ。ローガニスは立ち上がって庭に面した窓から外を眺める。
「夫の書斎にあります」
「のちほど見せていただけませんか?」
「……構いませんが、それが何になるんでしょう?」
「手掛かりになるかもしれません」
「10年近く前にも同じことを言われました。まだ何も進展していらっしゃらないようですが」
「それでもなお、あなたも帰りを待ち続けていますよね?」
夫人の瞳が一瞬だけ彷徨った。それを見逃さず、問いを重ねる。
「〝37の女〟……博士がこの表現をした真意をご存じではありませんか? だからまだ」
「私が信じていたところで、彼は私と息子を残して姿を消したまま――これだけが事実です」
相手の心中を互いに読み取ろうとしているのか、メロディとクラリス夫人は口を閉ざしたまま見つめ合う。クラリス夫人が先に目を逸らしたのを期にして「〝遊動〟って言いましたっけ、あの遊具」ローガニスが話題を変えた。
「ブランザ氏がご子息のために作ったそうで」
「ええ。それが、何か?」
「いつごろだったか覚えていますか? なるべく具体的に」
「アンリの6歳の誕生日です。あの子の視力については」
「伺っています」ローガニスは静かに返した。クラリス夫人は視線を降ろし、再び上げた先で遊具を眺める。
「医師に診せて……1歳になる前には、何も見えていないと確かめられました。他の子と同じように走り回ったり絵を描いたりすることが難しいものですから幼いころはあの子が何をするにも目を離すのが怖かったものです。イフェスティオ子爵とかかわりを持っていたことでそちらのご子息とその御友人と交流を持ちましたが、それでも遊びの幅を広げるのは難しく……それで、ディオンが一計を案じたんです。遊具があれば置いていかれず安全に遊ぶことができるのではないかと」
直後、隣の部屋へ続く扉からノックが響いた。開けられた先から姿を現した青年に「アンリ」彼の名前を呼びながらクラリス夫人は腰を上げた。昨夜、アンゼルム・イフェスティオ子爵に見せてもらった写真の少年が成長した姿といわれて納得できるくらいにはなんとなく雰囲気が一致した。
「これ。向こうに置いたままだった」
「あっ……ごめんね、ありがとう」
クラリス夫人は差し出された木製の籠を受け取る。青年は手から重さが消えたのを確認して
「じゃ、もう行くから」横を通り過ぎて玄関へ歩みを進める。
「作業所? 一緒に行こうか?」
「保養院に寄ってからだし、荷物少ないし、ひとりでも行けるから大丈夫」
青年は右手を宙に彷徨わせながら返答する。メロディは立ち上がり、その背に「アンリ・ブランザさんですよね?」問いかけた。彼は足を止めて手を下ろした。
「わたくしは法務省情報調査室情報官のメロディ・ヒストリア伯爵です。こちらは」
「ビオン・ローガニスといいます」
「はじめまして。アンリ・ブランザです。おふたりが知りたい話は母から聞けると思いますが」
「あなたの話が聞きたいのです」
「……同情ですか?」
「はい?」
「声を聞く限り、まだお若い……いや、幼いとも言えるでしょうか? 学生くらいの年齢ですよね?」
「……ええ、もうすぐ16歳になります」
「青果の儀すらまだでしたか……どのような事情があっていらしたのかよくわかりませんが、結局は父について調べるためでしょう?」
「はい、博士の行方も追っていくつもりです。あなたには心当たりがありませんか?」
「いえ、何も。当時は12歳でしたから」
「失踪当日についての証言内容では、父親の様子がおかしかったことを話していましたよね?」
「訂正したはずですが」
「訂正前は、足音が違ったものの頭を撫でてくれた手は父親のものだったと話していたはずです。音のみから父親か否か判断するに足る情報が得られたのですか?」
「もうずいぶん前のことです、覚えていません」
「……。幼かったとはいえ、あなたほど敏ければ何か気づいたことがあったのではありませんか?」
「買い被りですよ」
青年は腕時計の盤面に触れて「もう行かないと間に合わないので、失礼します」足早に暇を告げた。
「本当は見えているようにも見えますでしょう?」
クラリス夫人は木製の籠をテーブルの中央よりメロディたちに寄せて置いた。籠の中には軽く摘まめる菓子が並んでいた。
「ええ、てっきりそうかと」
3人は再び席に着いた。
「あの人、〝六将星〟の授賞式に可笑しな仮装をして参加しようとしたんです。お願いだからやめてって頼みました。そうでしょう? 将来を期待される科学者が、大勢の前に立つ機会ですもの」
「そんな可笑しかったんですか」
「大陸の奇天烈を詰めこんだような衣装を注文していたんです。赤い鼻だけでもつけていきたいと最後までせがまれたけれど、式典と食事会が終わってから好きなだけその衣装で楽しめばいいでしょうと言いくるめましたの。後日、実際に家で仮装して……アンリは驚いたのか泣き出してしまって。いつものパパじゃない、って。服装が変わっただけでわかったようです。ですから、きっと足音からでもわかったのでしょう」
「息子さんが証言を変えた理由にお心当たりは?」
「……わかりません。あの子には、私が見えないものが見えていますから」
力なくかぶりを振りながら、そう言った。
「博士が失踪する直前、どのような研究をしていたかご存じありますか?」
「私からは関わらないようにしていました」
「なぜでしょう?」
「自分の名前が由来の言葉を世界中の研究者が使うことになるのは、あまり……人生に1度だけで十分です」
「ああ、なるほど?」
「あの人の研究については、書斎をご覧いただけばあるていどはわかります。今もそのままにしていますから。ただ、いくつかを並行してしたのですべてを把握するのは難しいかと」
「構いません。拝見できますか?」
クラリス夫人の案内に従って到着した書斎は、イフェスティオ邸の書斎よりもこじんまりとしていたが、それ以上の書籍や紙類をため込んでいた。
「室内に失礼しても?」
「ええ。足元に気をつけてください」
「夫人は、この部屋に足を踏み入れたことは?」メロディは本棚を観察しながら答えた。
「ありません。あの人の聖域ですから」
「こちらのノート群、拝見してもよろしいですか?」ローガニスが尋ねると「ええ、どうぞ」夫人が答える。
「あの、この写真立ての写真なのですが、夫人と博士ですか?」メロディの質問に対しては軽く背伸びするようにして写真を見てから「ええ」肯定した。
「本当にこの部屋に立ち入ったことは無いんですか?」
「ええ。経典の紙束に誓います」
「そうですか……。でしたら、こちらの写真で博士の隣に写っている男性に心当たりはありますか?」
「えっと……ああ、ええ、あります。あの人の旧友です」
「ヴィクトル・フラナリーですか?」
「え?」
「こちらの旧友の名前です」
「いえ、初めて聞きました。フリッツか、フリッツァか……すみません、手紙に書かれていたはずなので確認してきてもよろしいでしょうか?」
「手伝いますか?」
「いえ、向こうの部屋にあるので」
クラリス夫人はゆっくり歩いて行った。
足音が限りなく小さくなってからローガニスはふり返ってメロディに視線を向けた。
「過剰な肯定は隠しごとがあるも同然だ。経典の紙束に誓うなんて表現だって聞いたことが無い。少なくとも夫人は信心深くないし、何かを隠そうとして偽りを述べた。本棚にも書蔵にも埃がかかっていない。定期的に掃除はされている。この足場の状態ではアンリ・ブランザがしたとは思えない。夫人はこの部屋に立ち入ったことがある。この部屋に何かある可能性がある」
「お見事な推測ですね。それで?」
「けれど、入室を許してくれたし今はこうしてわたくしたちから視線を外している。彼女の言動の理由がわからない」
「理由なんて求めてどうするんですか」
「どのような言動にも相応の理由がある。何があったのか詳らかにする必要はもちろんあるけれど、なぜそうしたのか解明するほうが後で証言を覆されることは少ない。同じ言動を取ったとしても何を考えてのことだったのか一致するとは限らない――ゆえに、意志は事件よりも謎めいているんだ」
「その謎を解くために必要な情報が、この部屋に存在するということですか?」
「可能性は」
メロディが言葉を区切った直後、クラリス夫人が「お待たせしてすみません、こちらなのですが」室外から手紙と手帳を差し出してくれた。
「こちらは?」
「あの人がずっと使っていたものです。何かお役に立てばと思いまして……」
礼とともに受けとって、内容を検める。手紙には想像どおりの人物の名前と〝Frecca〟という走り書きがあり、それだけで満足した。
手帳には暦に合わせてめもが書きこまれているらしかった。
「3の月21日、博士が失踪した日付と一致しますよね」ローガニスがメロディの目線に合わせて手帳を掲げて見せる。確かに、該当箇所に1784152538と綴られている。
「127439467×7×2?」
「暗算やめてくださいよ、わかりませんって」
「この数字、なんだろう?」
「えー……素数とか?」
「偶数だけれど……」
「……導出できる式は作れても、意味を見いだせませんね!」
「確かに、無意味な数列とは思えない。夫人、こちらの手紙と手帳をお借りできませんか?」
「ええ、構いませんが……」
「もう少しこの部屋を確認させてください。そしたら、帰ります」
「わかりました。あの……でしたら、お好きになさってください」
クラリス夫人は視線を下ろして立ち去ろうとした。メロディは一旦書斎から出て「お役に立てるか、わかりません。ただ、最善を尽くします」彼女の背に向けてはっきり告げた。
アンリ・ブランザは保養院へ足を進めながら、家での短い会話を思い出していた。父の失踪について憲兵が話を聞きに来ることは知っていたが、少女とも言える年頃が担当しているとは思っていなかった。16歳だと申告されたが、正直なところ、もう少し幼いように感じた。
「アンリ、ここで待っていてね。ここよ、椅子があるわ」
幼いように感じた原因は、この12歳の少女の声に似ていたことが要因のひとつだろうか。
手を取られて長椅子の背に導かれる。切られた木だとわかるそれに触れながら「しかし」抵抗するように声のほうを見つめる。
「人気店なので混雑しているんです。はぐれてたり転んだりしてしまったら大変です」
「……わかりました」
ジャネット・カロケーリの手がアンリの手を取る。「はい、これ!」掌に乗せられた布の感触、その上にあるのは「ビスケットですか」
「良い子だから、おとなしく待っていてね。アンゼルムに渡す贈りものを買ったらすぐに戻るから」
「お気をつけて」
「知らない方と間違えてついて行かないでくださいね」ジャネットの友人にまで子ども扱いされて不満だった。「間違えませんよ」感情が滲んだ。
きっとアンゼルムへの贈りものを買った後に自分たちだけで何か買おうとしているのだろう……そう思い、しばらくのんびりしていた。
それから間もなくのことだった。
聴覚を襲う情報量の洪水。
怒号に悲鳴。
すぐ近くだ、すぐ近くで何かがあった――アンリは音が聞こえてきた方向へ走った。衣擦れや足音に集中してぶつからないようにする。気をつけている余裕などほとんどない。しかし、一刻も早くたどりつくためには転んだりよろけたりしている暇がない。
「カロケーリ嬢!! メリンダ嬢!!」
返答はない。
焦るな――息を深く吸い込んだ。
泣き声……ジャネット様っ、ジャネット様!……この声のほうへ急いだ。
「メリンダ!」
「アンリ……」
弱弱しい、か細い声。方向と距離を確信して駆け寄った。手を伸ばすと掴まれる。
「大丈夫、怪我は」
「ジャネット様が」
「カロケーリ嬢が? 彼女は? 声が聞こえない、どこへ?」
掴まれた手、何かが腕を伝う。自分とメリンダの間にある何かを宙に求め――布に触れた。柔らかい素材だった。滑らかな、皴のない上質なドレスだ。
アンリは記憶を振り払うように、足を止めて強くかぶりを振った。
思い出すのを拒むように歩みを速めて保養院へ向かう。手のひらはじっとり湿っているのを自覚していた。
クラリス・ブランザは、夫の書斎からリビングへ逃れた。
リビングの窓からは〝遊動〟が見える。細い2本のロープに支えられた台座が風に揺れる。
「ほら、見ててごらんよ、クラリス!」
自信に満ちた表情で、木の枝にロープをひっかけて完成させたばかりのそれに腰かけてみせる。
「このロープなら経年劣化でも20年は問題ないんだ、僕だって座れ――」
何度か漕いだ直後、大きな音を立てて一瞬で地に落ちた。
「ディオン?!」
駆け寄り傍に膝をつくと
「ほら、枝が折れたんだ。ロープは問題ないだろう?」
楽しそうに折れた枝を抱えていた。正直、クラリスはそれどころでは無く「痛むところは?頭は打っていない?」立て続けにディオンに尋ねる。
「ははは、心配し過ぎだって」
「するに決まっているでしょう?!」
「……ごめん、木の枝じゃなくて枠組みからちゃんと作るよ」
知りたいことはそんなことではない。思わず睨んだ。すると、彼は居心地悪そうに
「頭はぶつけてない、けど……少し、ほんの少し、なんか……痛い、かもしれない」
悪戯を叱られる子どものように言う。それがなんだか可笑しくて、ずっと変わらないところが可愛らしくて
「きっと打撲か擦り傷よ。さぁ、立てる?」
クラリスは夫の手を取った。
その後、枠組みを作りなおしたり地域の子どもたちのために改良したり、息子のために作った遊具をさらに多くの人が楽しめるように行動していた。彼の優しさを、今もはっきり覚えている。それは息子も同じだと信じていたが……最後に夫と交わした会話を思い出しながら、クラリスは自らの左手で右手を包んだ。