新任と補佐官と情報官
運転席に乗り込んでからというもの、ツァフィリオ卿は後部座席の上司に対してか独り言か、しゃべりとおしだった。止める必要性を感じなかったメロディは聞き流すように窓の外を眺め続けていた。
「といいますのも、夫人へのプロポーズに成功した男爵が婚約解消をしようとしたことが」
「ツァフィリオ卿」
声は張らなかったが、よく通った。メロディが呼ぶとともにきれいに言葉を区切ると「はい、閣下。いかがされましたでしょうか?」硬い口調で尋ねた。
「こちらの言葉だ。何を気にしている?」
「いえ、私は」
「口数が多い、落ち着きがない、バックミラー越しに何度もわたくしを確認する、先ほど曲がるべき道を誤った」
バックミラーに視線だけを向けて「まだ続けるか?」メロディは自らより年上の部下を相手に、幼い子どもに非を認めさせようとするように問う。一度は気まずそうに口を真一文字につぐんだ。しかし、新任ではあるが幼子ではない。今度こそ曲がりながら、答えた。
「情報官殿は、カラマンリス班長とともにエレパース男爵とお話されていたようでしたので……」
「内容か? 男爵夫人への聴取を考えてもらっただけだ」
「え? か、可能なのですか?」
「前向きにはさせた、結果は知らない」
「それは……あの、はい。以前、自分も要請したのですが、考えるまでもなく拒否されてしまったので、驚きました」
暗澹たる表情をする部下に「こういうときは頼みかたがあるんだ。やっていればわかってくる」フォローしたつもりだったが、あまり効果がなかった。重ねて
「お前はよくやっている。ただ、疑うことも信じることも加減がわかっていないだけだ。焦るなよ、こればかりは経験と分析だ」
「……自分の未熟さにも現状を変えられなかったことも、それを理由にしてよろしいのでしょうか」
「できないことは悪ではない」
「そのために被害が広がったとしても、ですか? 私はその、怒りといいますか不満といいますか、そういったものを抱えずにはいられないように思います」
正義感の強さは配属当初から変わりないらしい。メロディは新任の勤務態度に満足しながらも「それは誰がためか……結局、行きつくところはひとつだ」明言しないまでも、不安を見せた。
ツァフィリオ卿はあまりピンときていない様子だったが車外の光景に視線を映した上司相手に話を引き戻すほど自分勝手ではなかった。曖昧に返事だけして自らに問いかけながら考え込んだのだった。
メロディとツァフィリオは無事に帰投して職場へ戻った。
戻って早々、目についたのは補佐官のひどすぎる勤務態度だった。車内で新任の勤務態度に感心したばかりのメロディは、いつもより補佐官に不満を抱いた。横目で上司の冷たい視線の理由を理解したツァフィリオ卿は気まずそうに自席へ向かった。
メロディはツァフィリオ卿の机に積み上げられている書類の一部をつかみ取って補佐官の机へ駆けた。感情を乗せて乱暴に補佐官に書類を押しつけ、万華鏡の筒にのせられた手紙を取りあげた。
「職務時間だが?」
「一息ついていただけじゃあないですか」
溶けかけた氷のように椅子で天井を仰ぎながら右目に万華鏡を、万華鏡のもう片方の端に手紙を乗せて、何をどのように寛いでいたのか……疑問を解消するための質問を持ち合わせていなかったメロディの視線は手紙に向けられた。繊細に装飾された白封筒の手触りは王家特注のもので間違いない。
「この手紙はわたくし宛てだ」
「いやぁ、すみません。この封筒の模様がきれいだと思いまして。万華鏡を通したらどうなるのか気になったもので」
「何が見える?」
「無理です、厚いので光が透けず模様は見えません」
苦笑すると、ようやく押しつけられた書類に意識を向けて「こちらは?」と問う。パラパラと雑に書類を扱う補佐官に「一息ついたのだろう?」と言ってやると、それだけで意図が伝わったらしい。
「わかりました、承りましょう……! ああ、そうでした。お客様がいらしています」
そう報告を受けてようやく執務室の扉が若干開いていると気がついた。メロディは「どなただ?」小声で尋ねた。
「ソフォクレス公爵閣下です、お茶は出させていただきました」
「何用かおっしゃっていたか?」
「詳しくは何も。公私は半々といったところだそうですよ」
必要最低限の確認を済ませたメロディは、自分の執務室の扉をノックする。
「おまたせいたしました、伯父上。ただいま帰投いたしました」
呼びかけると、ソファーに腰かけていた壮年の男性は微笑んだ。軽く紺色の背広を整えると姪の着席を待った。
「いや、急にすまないね、メロディ。そうかしこまらなくて良い。居座るつもりは無いよ」
「まあ、残念。書類管理を手伝っていただけたらと思ったのですけれど」
メロディはしおらしい声色で言いながら頬に手を当てた。公爵はメロディの冗談に楽しそうに笑う。黄道12議席についたころと比較して態度が大きく和らいだ様子が嬉しかった。「それはいけない、早く退散できるよう用件は済ませておかねばな」ソフォクレス公爵は、メロディに写本を差し出した。「こちらは?」メロディが尋ねると
「創星神話の写本だよ。せっかくだから、1冊全4章だ。今朝、王城図書館へ足を運んで【木ノ御成乃章】の写しを求めただろう?」
「ええ、はい。伯父様自ら持ってきてくださったのですか?」
「姪が恋愛に目覚めたのかと思えばね。それで、実際はどうなのだろう?」
「はい?」
上体を前に傾け両肘を膝に乗せる伯父を前に、メロディは何を答えればいいのか困惑するばかりだった。認識の相違に気がついた公爵は質問を重ねる。
「写しについて、担当官になんて言ったか覚えているかい?」
「はい。量が膨大であれば特に春の妖精、花の妖精の登場に限定して構わない、と申しました」
「なるほど、意図は読めないが予想が外れたことはよくわかった」
「そうおっしゃいますと、つまり?」
「春の妖精も花の妖精も、ともに風の精霊に侍る存在だというのは知っているかな?」
「ゆえに、【木ノ御成乃章】に登場するという推測は当たったということですね」
「ああ。【ディア】は風の物語だからね。そして、この章に登場する妖精たちはとくにイタズラ好きなんだ。精霊さえも頭を悩ませるほどの〝妖精のイタズラ〟が力を及ぼすこともある」
「妖精は、どのようなことをするのですか?」
「人に恋や愛を抱かせるんだ」
「まあ……」
公爵はゆっくりティーカップを手に取ると、紅茶を嚥下した。メロディは何も言わず、考える。
しばらく沈黙が流れた。
潮時だと見たのか、ソフォクレス公爵はゆっくり立ち上がった。ソファーに座ったままのメロディは公爵の姿から幼いころに父を見上げた様子を思い出した。
「人の生涯は、一冊の書籍に例えられる。大切に、慎重にページをめくり続けているとやがて終わりにたどり着ける――誰もが素敵な物語を描きたいと望む。ときには先読みだってしなければならないが、そんなときの降りかかるトラブルですらひとつのプロセス、事前に対処するものだと断じることも馬鹿らしい。ひとつの必然な要素として、排斥できないことすらあるのだからね」
退室直前、冬空の瞳と紫水晶が交わった。公爵は思い出したように言った。
「【ディア】からでも構わないが、【ポシドーナ】も悪くないよ」
「はい、伯父様。ありがとうございます」
メロディが柔らかく礼を述べるとソフォクレス公爵は片手を上げて応えた。
ひとりになった執務室、メロディは写本に触れて表紙をめくった。目次には、
【天ノ御前乃章】
【木ノ御成乃章】
【土ノ御実乃章】
【海ノ御道乃章】
と記されている。
伯父が言うのは、おそらく【海ノ御道乃章】だろう。さらに、意味もなく勧める御仁でないと考慮すれば……カリス公爵家――星杯を家宝にもつ、水に関係する口上を述べる家門に思い至った。
そこからなぜカリス公爵家が示唆されたのか考えていると、補佐官が顔をのぞかせて尋ねた。
「どうされたんですか?」
「……仕事しろ」
「しようと思いまして」
「ならばお前が居るべきは職務室のお前の机だ」
さっさとローガニス卿を追い出すと、一気に疲れが顕現した。他に誰もいないからと、メロディは思考をやめてソファーに全身を預けた。眉根をひそめてしまっていると気がついていたが、なおす気になれなかった。執事あたりに社交に悪影響だと指摘されるなと思考が至ると自嘲が零れた。
伯父のヨティス・ソフォクレス公爵は気の良い男だ。姪のメロディを気にかけて時には支えてくれる。それは、十分にわかっている。わかっているのだ。
祖父母の面影が見える。伯父の実親なのだから当然だ。
父の笑みが重なる。血を分けた兄弟なのだから当然だ。
別人だとわかっても、似ているところが増幅されるのか、追憶をたどって存在しえた未来を見せられている気分になる。
不快ではないが、時を経ても、メロディの心は慣れてくれない。
ただそれだけだった。