朝の考察
目覚めはそれほど悪くなかった。
昨夜メロディはアンゼルムと分かれて部屋に戻ったあと、覚醒と微睡みと熟睡を短い間隔で何度か繰り返した。どうしても落ち着かなかったが、思考も身体も倦怠感は無い。快いわけではないが決して気分が沈むようなほどではない。
「リボンは如何されますか」
家の書類作業を進める傍らに遠出用アクセサリー収納が開かれた。緩衝材の上に並べられた12種類のリボンを一瞥すると
「どの色も好き。レベッカ、選んでくれる?」
「はい、かしこまりました。そうですね……」鮮やかな緑に向かった手が動揺したように彷徨い、淡い紫にふれた。「こちらはいかがでしょう」
「ありがとう。お願いね」
「はい。失礼いたします」
毛先から丁寧に髪が梳かれて、櫛の先が頭皮に触れて少しずつほぐされていく。
なぜここに、この事件に〝エンディーポシ〟が存在しているのか……落ち着かないのは、出張先の慣れない環境だけが原因ではない。
有益であることを証明するよりも嗤われた不快を優先させて放り出した。このままではまともに聞いてすらもらえないのだと悔しかった。だからといっていまさら捜査方法のひとつとして再提案する熱量は無い。最善だと信じた方法を笑われた当時を思い出して懐かしく思えるほどメロディは受け入れられていない。
誰が、何のために作ったのか。容易に想像はつく。事件関係者か捜査陣が、事件解決のために作ったのだ。
失踪事件について作成されたなら、あまりにも量が少ない。ならば、イフェスティオ前子爵の死亡に関する考察、あるいは、ディオン・ブランザ博士の失踪に関する考察、いずれかのために作成された。加えて、大量の書籍の模型……色彩や題名まで丁寧に再現されていたおかげで前子爵が亡くなった書斎に保管されている書籍との一致率の高さに気づかされた。
昨日の自らの言動を思い出す。まるで幼い子どもだ。
メロディは自嘲を口元に浮かべると、昨夜確認した資料から前子爵の事件について考えることにした。
キュリロス・イフェスティオ当代子爵が亡くなったのは、星歴1675年8の月23日。ヘレボロスの根から抽出した毒物が混入されたお茶を経口摂取したことにより命を落としたと考えられている。着衣に異変は無く、右手には金属製の鍵が握りしめられていた。何のための鍵なのかは未詳だ。
使用人たちが日課の掃除をしている際、話し声が聞こえてきたため書斎を飛ばして家事を進めていたが、突然ガラスが割れるような大きな音を同時に聞いた。距離感やほかの部屋の窓ガラスなどが無事であることから書斎から聞こえてきたのだと推定する。
発見に居合わせた使用人は執事を含めて6名。現在は執事を除いて皆が退職しているが、4名が存命、内3名はバルトロマイ在住だ。
また、その場の長の判断では、2名には執事を呼びに行くよう指示を出してほかの2人とともに自分はその場に留まった。まもなく姿を現した執事が扉を解錠し、書斎の様子を確認した。窓際に転がる椅子とガラス片に近づいた執事が、机の陰でガラス片の中で倒れていた当主の姿を発見し、扉の前で待機する5人に周辺捜索を指示した。
執事は5人が戻ってくるまで書斎前で待機していたため、現場となった書斎には第三者の出入りは不可能とされた。なお、捜索時3階でアンゼル・イフェスティオ令息とすれ違った使用人2名は判明済み。
蓄音機の円盤には表にも裏にも何も記録されておらず蓄音機を起動したとき何も音を発さなかった、本棚の上に置かれていた木箱の中には畳まれたブランケットが入っているだけで他には何もなかった、本棚に並んだ書籍は確認するかぎり減っていない……このような情報が羅列されていたと反芻する。
ふと、なぜ話し声が聞こえたと証言されたのか疑問を抱いた。ひとり分であれば、声が聞こえたのであって話し声ではない。複数の声色が聞こえてきたから話していたと判断したのではないかーー発見に居合わせた者から話を聞かねばわからない。一旦、これについて考えるのをやめた。
現在も真相がわからないということは事件解決に必要な情報が明かされていないということだ。見つけられるかわからないが、探したうえで納得したかった。
気がつくと、薄紫が銀髪をひとつにまとめて結われていた。革靴の紐も同様だ。袖を通した深紅の上着を首元の釦まで留めると、用意は整った。
立ち上がり居室から出ていこうとするメロディの背中に「お食事は」マリサに控えめに問われ「先に行きたい場所がある」端的に答えた。ふと思い立ち、一度足を止めて振り向くと、
「食べるわ、戻ってきたら。軽いものにしてくれる?」
「はい、かしこまりました……!」
再び歩き出し、部屋を出た。
夜間は付き従ってきたフィリーだったが、今は追従せず見送ってくれた。
食事に関する心配が表層化してくると、再び新緑祭が近づいてきたのかと感慨深くなる。もう無理に”断食”を決行するつもりはない。あくまでも祝祭のための儀礼、必要以上の期待は賭けていない。
心配無用だと言動で示せていない自覚はあるため対応はしているが、なぜそれほどまで心配されるのか、メロディは理解していなかった。
廊下でイフェスティオ家の執事を見つけ、離れの書斎に入れるか、本日中に聴取の時間を作れるか確認した。どちらも可能だという返事を受け取り、メロディは書斎へ足を急がせた。
建物の左右にある階段の近いほうを選択して駆け上がっていく。3階からは両端にあった階段は交互に、片方だけになる。廊下を進み、4階へ上がった。
書斎の扉は閉じられていた。そっと開けると、誰の姿も見えなかった。先客がいるから執事は書斎の鍵を渡してこなかったと思っていたがーー書斎の窓から外を眺める。薄い雲が空を覆いつくしているものの、陽光は届いている。本格的な朱夏の暑さに備えさせるための優しさに見えた。
次の瞬間、机の下から衣擦れが聞こえた。影が出てくる。思わず携帯していた拳銃に手が触れるが
「あれ? 早起きっすね」
拍子抜け。ただの補佐官だった。気を張り詰めた自分の愚かさを隠す気にもなれず「……いつからいたの?」呆れるような口調で尋ねた。
「さっきからいましたけど?」
「そう。机の下で何をしていたの?」
「隠された空間だったり秘密の抜け道だったり、何かないかと探してました。本棚にも机にも仕掛けがないので床にあるのかと」
「見つかりそう?」
「今のところはありませんねー。この部屋には暖炉もありませんし、4階ですし」
「扉のほかには室外へのの道筋は見つからないということ?」
「ですね。本格的にこの密室について考えないといけないっぽいです」
「当初よりそのつもり」
「おや、心強い」
「けれど、考えれば考えるほどわからない。おかしいことはわかるのにどこを直せばいいのかわからない」
「じゃあ、最初からちがうってことじゃないっすか?」
「最初というのはどこを指しているの?」
「必要な認識が違っていたってことです」
「捜査は単独で行われるものではない。記録は複数人によって作成される。ひとりの認識が誤っていたとしてもほかの憲兵が修正できる。……まだ事件の資料に目を通してないなら、あなたがすることはこの部屋での宝探しではないと思うのだけれど?」
「見ました見ました。そういうことではありませんって」
窓に背を預けて、言葉の先を促すよう床に座っている補佐官を見下ろす。
「専ら情報をつなげなければ事件解決には及ばないわけですが、その繋げかたが本来のものではなかったときもどれだけ情報を繋げて考えようとしても無駄に終わりませんかーーって。こういうことです」
「夜空の星を何かに見立てて星座にするのは自由だけれどそれが正解とは限らない……この解釈で問題ないかしら」
「完璧です」
「ひとつの考えに固執しているようにみえ見える?」
「行き詰っているようには見えます」
明察な指摘だった。何かが足りない感覚があるのだ。
しばし虚空を眺めていたメロディだったが、窓から背を話して「急がなくて構わない。ストラトスとともに朝の用意を済ませたら、ヒストリアの執事に伝えるように」それだけ告げて部屋から立ち去ろうとする。
「お。ご名案でしょうか?」
「いいえ、未だ。ひとまず派出所へ行く。資料は受け取ったが、当時の捜査陣に話を聞きたい」
「いつですか? 車、出しますよ?」
「歩いていく。そう遠くないだろう?」
「あなたが歩くと俺も歩かないといけないんですよねー」
補佐官の文句は無視して、居室に戻った。朝食を済ませて間もなく部下たちの準備も整ったことが知らされ、3人でイフェスティオ邸宅を後にした。
昨日到着したときとは印象がまるで異なった。
「人が……子どもがいない」
「そりゃ就学していれば講義中ですよ。だからこの時間に動いているんです。昨日を思い出してください。来ただけであの騒ぎようだったでしょう?」
「それほど不快には思わなかったけれど、たしかにあれでは仕事が進められないな」
「話を聞かねばならない年齢層もほとんど仕事をしている年代ですから、まあ、どうにかなると思いますよ」
ふと、メロディは足を止めた。アンゼルムに見せてもらった写真が脳裏を過る。4人の少年少女が笑顔で映っていた、あの写真だ。
紫水晶が捉えたのは、新緑をまとう大きな木の枝に設置された遊具だ。3本の組み紐の先に円形の台座が設置されている。
写真の中でひとりの少年が腰を掛けていたものは紐は2本で台座は長方形のように見えたが、よく似ていると思った。
「遊びたいんですか?」
ひと睨みすら面倒になって無視した。ストラトスが「初見ですか、もしかして。〝遊動パンデュル〟ですよ」と言う。
「有名なのか?」
「自分の知るかぎり、広場や公園でよく見かけます」
「へー、ほんと。俺がガキんときにはなかったなー。いやね、見てるだけじゃあ何やってんだと不思議に思いましたが、面白いですよ。乗ってみると」
「最近はいつ乗ったんだ?」
「昨日です」
「……夜?」
「ええ。この街の子どもたちめっちゃ人懐っこいですよ」
ほかにも話しているうちに、派出所に到着した。
もちろんペトゥリノ氏も勤務中だったため、彼に協力してもらい、当時、子爵邸宅から押収された証拠品を見せてもらった。とはいえ、現場に落ちていたガラス片や割れたティーカップなど書斎から外に持ち出されたのはごくわずかだった。
「精巧ですね、この鍵。こんなだとむしろ合う鍵穴を用意するのも大変でしょうね」
前子爵の手に握られていた鍵を袋越しに眺めながら、ローガニスが述べた。反対の手には派出所勤務の憲兵からふるまわれた菓子がある。
「いやぁ、ねぇ。このあたりは他にすることなーんもないからそういう細ちぃ作業好きな人が多いんよなぁ」
地元所属の憲兵が菓子を頬張りながら答える。王都からきた3人にふるまわれた、というよりも一緒に菓子が食べたいだけかもしれない。
「なんだか良いですね、そういうの」
「おう、ほんとか若いノ! 良いこと言うじゃあないの」
ストラトスが隣の憲兵に髪をかき混ぜられる。さらにその隣の憲兵がずっと黙り込んでいるメロディに「お嬢さんの口には合いませんでしたか?」労わるような口調で話しかけた。
「あの写真、7人写っているけれど、そのうちのふたりはミロン・プシューケーと二コラ・ルヴィエかしら」
「ん……よくご存じで」
「お借りした資料に写真が添付されていました。ふたりとも1675年に失踪していますよね? このふたりに関してはユーグルート共和国への渡航機関も一致しています」
「そりゃあ、友人ですからね。彼らは」
「年齢はプシューケーのほうが3歳上でした。どのように親しくなったのでしょう?」
「保養院育ちなんですよ、ふたりとも。ミロンは生まれたときからずっとなんですがね。二コラは15歳のときにね……。ロゴスの会、あそこの集団自殺、覚えてませんか……って、ああ、そうか。15年も前のこと覚えとりませんよね」
メロディは当時1歳だったため彼の指摘するように記憶には無かったが、資料を目にしたことはある。当時5歳前後だったストラトスは「いえっ、聞いたことはあります」焦って訂正する。
「かわいそうになぁ。あの集団自殺に影響されて後を追った一家もある。そのうちのひとつの悲劇が二コラだったんですな。学園寮に入っていた二コラだけ助かって、あとはもう、みんな……最年長で卒院間近だったミロンがあの子を支えてたんですよ」
「聞いているかぎり、ロゴスの会に否定的ですね」
「いいや、どっちでも無いさね。よう知らんですから。ただ二コラのことを知っているからかわいそうだと思ってしまうんですよ。……あそこさんは時間を守るだの壊すだの、そういったことをこれまた真剣に考えているようでね。教祖さまはその矛盾か何かにさいなまれていたんでしょうな。まだうら若い女性だった。その彼女は信者を巻き込んで命を絶ってしまったんです」
「なぜ自殺を......」
「このあたりであればピサラさんとこのサンクレールの教えが浸透しとります。それでもね、すべての祈りを適えるわけではござらんのでしょうな」
「サンクレール?」ローガニスが首をかしげる。
「教義で自殺を禁じている。教徒は何があっても自分で自分を殺さない」
憲兵が断言する。
直後、隣でストラトスが菓子に噎せた。甲斐甲斐しく周囲の憲兵が飲みものを持ってきたり心配したり、対応してくれる。
「大丈夫? どうした?」
「いえ、なんか……驚いてしまって。ディオン・ブランザ失踪の際、奥方から参考にいくつか持ち物がこちらに提供されてるみたいで、それの一覧見てたんですけど」
ストラトスは資料を机の中央に滑らせると「〝37の女〟……」ローガニスが当該箇所を見つけて読み上げた。
「鴛鴦夫婦だったんですか、ほんとに?」
「そう聞いているけれど」
「最愛の人に番号つけるだけじゃなくて37番目だって言ってるんですよ?」
「言葉は正確に使いなさい。37番目ではなく〝37の女〟だと記されている」
「じゃあ、何だってんです?」
あいにく、まだその答えは見つけられていない。閉口したメロディを庇うように「まあまあ」と間に入る。
「博士が家族思いだったのは本当のことです。我々世代ならちゃんとそれ見てますんで。ああ、そうだ。子爵邸からここまでいらっしゃるとき揺れる遊具見たでしょう、〝遊動パンデュル〟! もとはブランザ博士が息子も友達と遊べるようにと自宅の庭に設置したのがきっかけで普及しました。3本のほうがよく動くんで、最近はそっちのほうが人気ですね」
「博士の息子さん、人見知りなんですか?」
「ご存じありませんか。見えてないんですよ、目が。生まれつき」
不意に。
アンゼルムに見せてもらった写真が脳裏を過る――遊具の座面に座る少年はただひとりほかの3人とは異なる場所へ視線を向けているようだった。自分たちへ向けられたカメラのレンズが見えていなかったのだ。身体を向ければいい方向がわかっても、どこを見れば良いのかまでは正確にはわからなかったのではないだろうか――流れるような思考の先にそれらしい答えを見つけた気がした。