優美な箱庭を
直後、放り投げた書類を引き寄せながら「設計書あるのに見ないんですか?」ストラトスが尋ねる。部品をいじりながら「文字多過ぎ、読む気失くした」と返されて力なく声にならない何かを零した。
思いついたような声を零して「そういえば、御令嬢の毒見は不要なんですか?」部屋に残っていたヒストリア伯爵家の執事であるリトラ子爵に問うと「ご安心を」さらりとした返答だった。「敏腕ですね。道理でこちらの部屋には侍女の姿がひとりしか見えなかったはずです」そう言いながら膨れた小さな黒い袋を差しだす。
「賄賂です」
冷たい視線をものともせず見上げていたローガニスだったが受けとってもらえないのを悟り、諦めて机上に袋を置いた。もう片方の手を未開封の箱に乗せる。
「言葉だけで説明されるより理解度を底上げする方法としては理に適っているでしょ、これは。犯罪捜査面ではかなり浸透したと思いますよ、提唱者が当時10歳でさえなければ」
「あいにく私は居合わせておりませんでした。それ以上は直接、閣下にお伺いくださいますよう」
「答えてくれる人ではありませんけど」
「ならばそれが答えでしょう」
「だから執事殿に賄賂なんですって」
「あいにく酔っ払いの相手は職務外なので出直してもらいましょう。それから、組み立てるなら急いでいただけますか」
執事は手品のようにどこかからか取りだした鍵を摘まんで見せる。
「じゃあ、こちらで勝手に掛けときますよ」
「あいにく、こちらはイフェスティオ子爵邸ですから」
「ああ、貴族の面倒な権限のお話ですか」
「問題があってからでは遅いので」
「じゃあ、手伝ってくださいよ」
「はい?」
「しっかりした新人と酔っ払いじゃあ、完成するの夜明けですよー。優秀な執事殿の支援があれば話は変わってくると思いまーす」
「……向き不向きはあります」
執事は設計書に手を伸ばした。
湯浴みを済ませて用意された部屋に戻ったメロディは、濡れた髪をふたりがかりで乾かしてもらいながら、いくつかの書類に署名を綴った。改めて内容を確認して、手の空いていた侍女を呼び寄せる。
「レベッカ。領地に関しては王都に戻ってから再調整するけれど、こちらは急ぎなの。封書にして明日、送っておいて欲しい」
「はい、御随意に」
「ありがとう、よろしくね」
「筆記具はもう今日はお使いになりませんか?」
「ええ、もう仕事は終わりにする」
傍らの鏡越しにフィリーを見上げてみると、彼女は軽く口角を上げた。
次の瞬間、優しい空気が鼻腔を漂う――インク瓶とペンを回収しようとしたレベッカと目が合う。「この香りは?」尋ねてみると「〈麗らかな陽光と読書〉といいます」彼女は恐縮した様子で答えた。
「そうなの、落ち着くわ」
「幼いころから乗り物酔いしやすいからと、誕生日に友人がこちらの香水を贈ってくれたのです」
「素敵な友人ね」メロディがそう返すとレベッカは恥じらうようにはにかんで礼を告げた。主人の湿った銀髪の毛先を乾かしながらマリサはレベッカを揶揄うような笑みを見せる。レベッカは小さく頬を膨らませた。フィリーが「あなたたち?」軽く諫めると、ふたりは明らかに手際を良くした。
就寝準備も家の仕事に関する確認事項も済ませて、メロディはすぐに眠りにつこうとした。
他に誰もいない。知らない部屋。いつもと違う匂い――遠路移動で疲れているはずだった。しかし、なんとなく落ち着かない。何度も寝返りをうってみるがどうにもならなかった。メロディはベッドから降りてそっと廊下を覗いた。
「お嬢様……? どうされましたか?」
扉のすぐそばの椅子に座っていたフィリーは立ち上がりながら優しく口元に笑みを浮かべた。
「あなたは休まないの?」
「朝方に暇をいただきます」
「眠くないの?」
「はい、眠くありませんよ。何かお飲みものをご用意しましょうか?」
「いいえ、いらないわ」
「でしたら、どうされますか? もう月は天上に昇りましたよ?」
「……。少し歩きたいの」
「かしこまりました。どちらへ向かわれますか?」
「待っていて構わないのだけれど」
「はい?」
「……本当に少し歩くだけよ?」
「はい」
勝手にひとりで邸宅外へ以降としていると思われたのだろうか……そう思われてしまうようなことを――していたので、メロディはそれ以上何も言わずに歩き出した。
廊下をゆったり進む。のんびりとした足音が軽やかに響く。
しばらくはふたりとも何も言わなかったが、
「レベッカとマリサは仲が良いのね」
無言が寂しくなって、言葉にしてみた。
「ふたりは学生時代寄りも前からの仲ですから」
「そうなの?」
「10歳から入学までの行儀見習いも、ふたりで同じ貴族家へ奉仕していたそうです。そのときに意気投合したのでしょうか。同じ学校へ進学して、以来ずっと仲良しだったそうです」
「それなら、レベッカの香水もマリサからの贈りものかしら」
「そこまでは存じませんもので」
「ふふっ、あのふたりは仲良しなのね」
「はい、そうですね」
ふたりの笑い声が聞こえたのか、廊下の先から「伯爵閣下?」アンゼルム・イフェスティオ子爵がひとり窓の前に立っていた。その手には、小さな長方形の紙が握られていた。彼はそれを懐に仕舞いながら小首をかしげる。
「このようなお時間にどうされましたか?」
「目が覚めてしまっただけです」
「しばらく使っていない部屋を整えたつもりでしたが……」
「素敵なお部屋でしたよ。眠りが浅いのは珍しくないことですから。何を見ていたのですか?」
「街を。この時間でも相変わらず賑やかですよ」
苦笑するアンゼルムの隣の窓から同じように街を見下ろした。暗闇に温かな光源が帯状に散らばっている。音は聞こえてこなくとも、それだけで楽しそうな様子が伝わって来た。
「端から端というのは、あの灯りを頼りにすれば良いのですか?」
「そう、でしょうね。それぞれが並べた持ちよったものを蝋燭や電灯で照らしているのだと思います」
ならば、補佐官が辿ったのは街の範囲ではなく賑わいの中心の端から端という意味だろうと考察して認識を改めた。心もとない解像度の地図が淡い色を帯びた。
「普段からですか?」
「いいえ、こうなるのは他にはメテオロス公爵閣下が視察に訪れたときや祭りが開催されたときくらいです。騒ぐ理由が欲しいんですよ、きっと。そのほうが……」
「……?」
「このあたりの住民の多くはそのような性質ですから。公爵閣下の気質が好かれるのも受け入れられる理由が醸成されていたということです」
「それだけですか?」
「他の理由が必要ですか?」
「いえ、そのような意図ではありません」
焦ってメロディが否定すると、不自然な沈黙に至る。
アンゼルムは少々逡巡してから手を差し伸べた。
「おすすめの場所があります」
誘われたのは、2階の廊下のある地点だった。
中庭の奥に庭園が広がる。
思わず目を奪われた。美しく整えられた植物とただそこにある夜空は他にはない調和を果たしていた。
「両親が愛した場所です」
低く冷たい声に、小さく肩を震わせた。そっと見上げると、月夜が見せる子爵の表情は曖昧だった。他方、廊下の肖像画の前のときより優しくさえ見える。
「限られた者のみ立ち入るのを許された場所です。私ですら、なんだか……代々継がれてきたものですから。子どものころはまだ知りませんでしたが、おそれ多いものです。……黄道の方を前に傲慢な物言いでしたね、すみません」
「いいえ。理解できます。子爵は学生時代に継承したのでしょう? 重圧も相当大きかったと思います」
子爵は曖昧に微笑んだ。その笑みの意味がわからず、メロディは誤魔化すように「先ほど、紙を仕舞われましたよね?」すると、彼はすんなりと懐から取りだした紙片を差しだした。
「ブランザのおじさんに撮影してもらったんです」
写真は、彩色ではないが淡い色彩が確認できる。
4人の少年少女が正面方向へ笑みを見せている。2本のロープで吊られた台座にひとりの少年が腰かけ、その周りを囲うように3人が笑っている。唯一、据わっている少年の視線が他の3人とは若干逸れているのが気になった。
「ディオン・ブランザ博士ですね?」
「やはりご存じですか……その写真、遊具に乗っているのが、アンリです。アンリ・ブランザ――博士のひとり息子です。彼の右にロクサ嬢、そのふたりの後ろにいるのが私で、すぐ左がカロケーリ嬢です。……思えば、このころが一番楽しかったですね」
「……。みなさん10歳にもならないころでしょうか」
「ええ。博士が71年に〝6将星〟入りした祝いに、父がカメラを入手して製本工房へ寄贈したんです。そこの主人のご厚意で撮影した写真です。最近はもう両手に乗るほどの大きさで操作も簡単ですが、当時は何もかもが複雑だったんですよ。大きさも、当時の私たちよりはあったと思います」
「博士と父君は親しかったのですね」
「第9王立学園学術院卒の同期であり、同郷のようなものですからね。卒業後も家族ぐるみの交流がありました。その縁で、当代フラナリー伯爵やその御友人とお話する機会もありました」
「フラナリー伯の専攻はともかく、博士は物理学ですよね。父君は何でしたか?」
「歴史だったと聞いたことが……伝承文学史でしたか、そういった名称だったと思います。カルディアでは古文書解析をしていたとは聞いたことあるような……」
「古文書……いつごろのものか、わかりますか?」
「具体的に何をしていたのかは心当たりが無く……すみません。古文書といいましても、星歴元年前後から100年前の書籍まで、該当期間が広すぎますよね」
「ええ。原始から近代の間における、原始寄りの期間を想像します」
「同感です。あっ、父が卒論やカルディアでも扱っていた内容なら、母校に何か記録があると思います」
「第9王立学園学術院ですよね? ありがとうございます、後日確認します。それと、話題を戻しますが、関心分野と交流はそれほど関係があるわけでは無いのですか?」
「どうでしょう、まったくの無関係ではないと思いますが……カルディアを含めると関わる機会が多いのはやはり同じ関心分野の同期なので」
「そういうものなのですね。あ……子爵は、その、どのような?」
「私は学芸院卒です。都市園芸を学びました」
「でしたら、あの書斎に収められている書籍はすべて父君の取捨選択ですよね」
「ええ、はい。母と花を飾っているほうが好きでしたので」
書斎にどのような書籍があったか思い出そうとしたメロディだったが、優先順位は高くないと判断して、やめた。代わりに、再び写真へ視線を向けながら尋ねる。
「こちら、彩色写真では無いようですが」
「え? ああ、父の拘りです。彩色なら絵画と変わらないから、と……。どうしても彩色者の視覚情報が反映されるでしょう? それなら、客観的な情報を遺したかったようで」
「ロクサ嬢というのは?」
「カロケーリ嬢の友人です」
どうやら、薄紅の髪をふたつにまとめた少女がカロケーリ伯爵令嬢、濃茶の波打つ短髪をリボンで後ろに流しているのがロクサ嬢らしい。ふたりとも年相応に愛らしい笑顔だ。顔立ちは異なるが、笑顔の浮かべかたは似ていた。
「当時から親しかったのですね」
「そうですね、当時は」
「最近は疎遠ですか?」
「事故以来――というほうが正確ですね」
「失礼しました」
「いえ、お気になさらないでください。そういう運命だっただけです。それに、博士があの事故原因に関する分析を上申書としてまとめてくれたおかげで裁判は納得いく結果でしたし、何より博士の支援者が増える契機になりました」
そこまで言うと、子爵は窓に背を向けて背を預けた。
「博士が名声を高め、それまでは父が博士を資金面で支えてきましたが、さらに道が開けたんです。研究が進めやすくなったりアンリの治療に力を入れられるようになったり……辛いことばかりではありませんでしたから」
言い聞かせるような口調には何も言えなかった。
「あなたこそ、このような時間にどうされたのですか?」
「子どものようでお恥ずかしい限りですが、心が高ぶっているようで……この地に染みついた悲しみをどうにかできる日を……ずっと、待っていたのだと思います。心の底から」
窓からたっぷりと入ってくる万物の浄化を促すごとく青白い明かりが青年の横顔を照らす。自分よりも幼く見える気がして、何度か瞬きをして再び見上げる――気のせいだった気がした。
ただ、待たせてしまっていたのだと受け止めた。