子爵邸にて
歓待は終始穏やかだった。
はじめは緊張しきっていたストラトスも、次第に食事が喉を通り、話を振られれば表情を緩めて受け応えられていた。
前子爵夫妻に関する事件について話題が移行したのは食後のお茶を嗜んでいるときだった。
わかくしてバルトロマイ領主に就いた当代イフェスティオ子爵だが、時宜は弁えているらしかった。
食器が下げられる代わりに、カップとソーサーが並べられた。カップの中の液体は赤みがかった濃茶だった。果物のような芳醇な香りに鼻腔をくすぐられ、頬が緩む……ふと、ソーサーのデザインに意識が向いた。わかりにくいが、縁が波打ってまるで花弁を象っている。そっとカップの底に触れてみると、こちらも、ただの円ではないのがわかる。指先を滑らせていくと――見えないところにも確かに花が綻んでいた。
「お気に召されたようで。何よりです」
「……。植物の意匠が採用されたのはユーグルートの影響でしょうか」
「それも要因のひとつでしょう。もとはメテオロス公爵閣下がご関心を抱かれてお持ちなさったもので、私はそれの数を増やして普及させたに過ぎません。幸い、この地域の土質と陶磁器の相性が良く、住民たちもいたく気に入ったらしく産業までに発展しつつあります」
「そうなのですね。たしかに祭事や祝典にて、あなたとメテオロス閣下と親しくされている姿は見かけたことがあります」
「情に厚くていらっしゃる方ですから」
「思い当たるきっかけは?」
「院は異なりますが、私は公爵閣下の5期下に当たります。閣下が最高学年のときに入学した代です。通学が重なったのは1年だけですが、〝すずらんの会〟をはじめとして学園にお見えになるときは必ずお声掛けいただきました。私が5年前の新年祭にて――在学中に爵位継承したこともあり、よく気にかけてくださっていたのだと思います」
「メテオロス公も在学中の継承でしたね。他には?」
「それこそ、情に厚いからだと思いますが……」
「無ければ結構です」
拒絶するつもりは無かったが、突き放すような印象はあったのだろう。子爵は口を横に引き結んだ。すると、すかさず
「伯爵閣下は聴取が不慣れでいらっしゃるんです。憲兵局と法務省あわせても2年目ですから――とはいえ、ご安心を! 〝氷柱の白百合〟たる由縁は類希なる頭脳、事件解決のために必要な情報を集めるのは我々の仕事です。なので、白百合に代わって我々からいくつか質問してもよろしいですか、イフェスティオ子爵殿?」
補佐官が言葉を鷹揚に続けた。子爵は若干の動揺を見せたものの「……もちろん」苦笑とともに答えた。
「公爵閣下の5期下ということは523期生ですよね。かつ、5年前の在学中に継承されたということは1678年の新年祭時点、当時15歳――その1年前の時点で爵位継承の年齢条件は満たせていたはずです。その1年間にはどのような理由があったのでしょうか?」
「憲兵さんは、自分の12歳のころを覚えていますか?」
「おおよそは。ただ、あなたの言葉として伺いたいのです」
「……。ほかに兄弟がいませんからいつか子爵位を継ぐのは幼心に理解していましたし、そのための教育にも真面目に取りくんできたつもりです。それでも、実際に継ぐのは……現実的には大人になってからだと思っていました。法律では継承時点で満14歳であれば問題ありませんが、あくまでも法律の話。14歳だった私の心は、まだ置き去りでした。2年間は、私にとって決心するには短かっただけです」
子爵は顔を上げると気まずそうに微笑んだ。
「次の質問にはなんとなく予想がつきます。どうぞ?」
「でしたらお言葉に甘えましょう――婚約者に関してお伺いできます?」
「カロケーリ伯爵家の3女です、10年前に事故で亡くなりました。1673年2の月13日に友人と出かけた先で事故に巻きこまれ、翌日、星の御許に還りました。黄道貴族ではなくても伯爵令嬢ですから、当時は騒がれたはずです」
「記憶にありますよ、もちろん。運転手を含めた8名が亡くなった、車両が普及して最大の交通事故ですから」
「誰にとっても、彼女の死は受け入れがたい悲劇でした。私も立ち直るのにかなり時間を要しました。両親の件も堪えましたが、周囲の支えのおかげで今があります」
「両親の件というのは、父君の死と母君の失踪ですよね?」
「ええ、はい。ああ、そうだ。隣の建物の4階なんです。父が亡くなったのは。どうされますか、案内しましょうか?」
一度は顔を見合わせた面々だったが、結局は子爵の提案に乗った。その道中、子爵は一瞬だけ歩く速さを緩めた。傍らの壁を見つめ、気が済んだのか前を向きなおすと歩く速さを戻した。
メロディの目線よりも少し高い位置には、前子爵夫妻と子爵本人だと思われる少年が描かれた肖像画が飾られていた。微笑む女性が座る椅子の背と少年の肩に手を置く男性がいる。ろうそくの灯りが暖かい光りを齎す廊下、女性と少年の表情は柔らかいが男性は不機嫌そうに睨みつけているような視線だ。
再び子爵の背を見つめる。暖かい光りを頬に受けているにもかかわらず、肖像画へ向けた視線は固く冷たかった。
すぐ後ろを歩く部下たちは、あくびをしているか、器用にメモを見返しながらついてきているか、どちらも子爵の表情を見ていたとは思わなかった。小さくため息をついて子爵の背を追った。
隣の建物の階段で3階まで昇り、その廊下を進んだ。一度廊下を曲がってその突き当りにある階段で4階をめざす。4階には部屋が3つ並び、子爵は懐から金属製の鍵を取りだすと、真ん中の部屋の鍵穴に差し込んで回す。「ここが父の書斎です」子爵はそう言いながら扉を開けた。
明かりを点けると、室内の様子がよくわかる。整理整頓された広い部屋。正面に執務机、その背後は布で覆われ、本棚が左右の壁の前に居座っている。
遠慮なくローガニスが布をめくる。「おー、晴れていれば良い景色なんでしょうね」窓ガラスに映る自分に庇を作るように手を押しつけながら言った。もう外は真っ暗、そうでもしなければ室内の様子が映しだされるだけだ。
「そうですね、街が一望できます。父が気に入っていました」
「この部屋には暖炉がありませんね」部屋を見渡してからメロディは独りごちるように言った。これに対して子爵は「書籍保存のため、父が嫌いました。隣室のものを使えばこの部屋でも冬に凍えるほどにはなりません」と答えた。
「書籍は、すべてこの部屋に?」
「いえ、別の建物が図書館になっています。そちらは二重扉を用いていたり書籍保管空間の風通りを設計したりしているので、同じく暖炉はありませんが温度や湿度は一定に保たれるようになっています」
「そうなのですね。珍しい書籍が揃えられているので、どうされているのか気になりました」
「明日にでも図書館もご案内しましょうか?」
「時間があれば」
「あっ、失礼しました。お仕事でいらっしゃいましたね」
「いえ。気持ちは嬉しいです」
「ところで、子爵殿は父君の事件についてどこまでご存じでいらっしゃるんですか?」
「当時、話を聞かれました。なので、さきほど屋敷に持ち込まれた資料に記載されていると思いますが」
「まだ目を通せていないものですから」
「話せるのは、書かれた内容とそう変わらないと思いますが、よろしいですか?」
ローガニスは「念のためこちらを」本棚に手を触れようとしたメロディに素早く白手袋を差して、器用に「是非!」と子爵に答えた。他方、ストラトスと視線がかち合った。現場に慣れていないだろう彼だが、手帳とペンを握りしめるのはすでに白手袋越しだった。
「事件は8年前だけれど、実際の空間や物品を確認できるのは希少な機会だ。役立つ保証はできないが、ここのすべてを覚えるつもりで観察しておきなさい」
「は、はい! わっかりました!」
メロディも同様に手袋を装着して、室内を確認していく。まず気になった本棚の前に立って蔵書を見つめる。
子爵は思い返すような口調で話し始めた。
「騒がしいように思って、ここへ来てみたんです。3階で慌てている使用人を何人か見かけて、嫌な予感と言いましょうか、何かが起きてしまっているのだとわかりました」
「当時も同じ話を憲兵にされました?」
「はい。名前はわかりませんでしたが、使用人たちの容姿も伝えてあります」
「なるほど、のちほど確認しますね。それで、こちらへ到着したんですか?」
「ええ。4階の廊下には誰にもいませんでした。しかし、父の書斎の扉が開け放たれていて……ちょうど、憲兵さんが立っているあたりでしょうか。そこにガラス片が散らばっていて、その椅子も倒れていました。机の影から、椅子に伸ばされた手が……」
ローガニスは立ち位置を変えながら話を区切るため礼を告げる。それに合わせて子爵の視線も誘導される。机の脇にある蓄音機を熱心に観察していたストラトスの隣に立つ。
「椅子は当時のものらしいですが、こちらの蓄音機も?」
「ええ。それらにかぎらず、今こうしてこの部屋にあるものは、すべてそうですよ。蓄音機も憲兵さんが関心を持っていたらしく話を聞かれるときにいくつか質問されましたから、資料に残っているのではないでしょうか」
「そうでしたか。でしたら――ちょっと、閣下? 何されているんですか?」
目敏く、椅子を持ち上げられず引き擦ることを選択した上司に声をかけた。
「本棚の背が高いから」
「あとで確認させて差し上げますから。危ないんでやめてください」
注意されて、おとなしく傾けた椅子を元に戻した。
「えーっと、何を聞こうとしていたのか……思い出したら聞きますね。あなたが、父君が倒れていると確認する前に3階で使用人たちとすれ違ったとのことでしたが、彼らが最初に現場を発見したのでしょうか」
「いえ、別の使用人たちだったと聞いた記憶があります。もう退職しましたが、すぐ近くで保養院の手伝いをしていたはずです。彼女が部屋の前を通りすぎて階下へ移動する直前に大きな音がして、父の書斎の扉を叩いたそうです。返答が無く、中へ立ち入ろうとしたら、鍵がかかっていて入れなかったそうです。一緒に掃除をしていた使用人のひとりに鍵を開けてもらえるよう執事を呼びに行かせて、彼女自身はずっと部屋の前に数名の使用人たちと待機していました」
「4階ですし、泥棒が入るには人の気配が濃いですね」
「そもそも、父の書斎から小さな話し声が聞こえていたそうです。だから、その場では掃除を飛ばしてその後戻って綺麗にするつもりだったそうです」
「話し声? 密室が確認される間近まで話し声が聞こえていたということですか?」
「彼女の話によると」
「名前は?」
「ラウルト夫人です」
子爵が答えると、急に「ベアトリス・ラウルトのこと?」机の影から顔を覗かせたメロディが問う。子爵は戸惑いながらも首肯した。
「お知り合いですか?」ローガニスが尋ねると「3番目の失踪者」それだけ言った。
「あー、ベルナール・ラウルトと姓が一致しますね。もうそんな読まれていらっしゃったんですか」
「まだ5人目の途中まで」
「十分ですって。他に気になることは?」
「あるけれど、もう少し考える時間が欲しい」
「わかりました――失礼しました、子爵。続きなのですが、えーっと、そう話し声といいますとどのような内容だったかご存じありますか?」
質問を再開したローガニスとその対応をするイフェスティオ子爵を余所に、メロディは机の傍らにある蓄音機を矯めつ眇めつする部下を呼び寄せた。彼は元気な返事とともに駆け寄ってきた。
「この椅子に座って欲しい」
さきほど引き擦ろうとしていた椅子を器用に傾けて回転させて、座面を部下に向けた。戸惑って突っ立っていたが、彼は素直に深く腰かけた。
メロディは膝を曲げて観察を再開した。
椅子の背の隙間には、刃物で印をつけるように軽く切りつけられたような1本線がある。腰かけたストラトスを目安とすると、椅子の中央に腰かけた人間の幅よりも広い箇所に線がある。
「身長は?」
「はい? 自分のですか? 配属前測定では1.71メートルでした」
「ならば、肖像画を参考にすると、前子爵およそ1.64メートル、前子爵夫人およそ1.54メートル、当代子爵あるいは当時子爵令息1.37メートルだろうか」
「……は、い、おそらく……そーう、なのでしょうか……?」
子爵は中肉中背だろうか、少なくともストラトスよりは横にも縦にも小柄だ。目印としてつけるには、線は意味不明な位置に思えた。
「夫人の座りかたとこいつの座りかただいぶ違いますよ、きっとさらに小柄でしょう。ストラトス、もう少し浅く座って背筋伸ばす。そうそう、そんな感じーーいかがです?」
子爵との問答に一区切りつけたらしいローガニスがストラトスを据わりなおさせる。メロディは立ち上がると「そうだな、1.51メートルに修正する。どうだろう?」首を傾げた。
「俺らに計算しろってのは無理ですよ。武術院でも目測は習いますが、閣下ほどの精度はありませんし、計算に至っては門外漢です。わかるのは……この椅子が肖像画と同じものだろうと言うのはわかります。それを参考にー、子爵がこれくらい、令息がこれくらいってことから、まあ、1.65前後と1.35前後だろうなと。それくらいの感覚です」
肩の高さくらい、胸と腹の中間あたりの高さでそれぞれ両手を横振りしながら答えた。正確な数字よりも、おおよその感覚が一致しているらしいとわかれば十分だ。
すると、ローガニスはメロディのそばで片膝をついて、彼女を見上げた。
「さ、肩に乗ってください」
「かた……?」
「貴女の目線では見えないんでしょう?」
一瞬、どうすれば良いかわからなかった。どうにか幼いころ祖父や父にしてもらったのを思い出して彼の肩に腰かければ良いのだと把握した。右肩にそっと体重を掛けて準備が整うと、部下が立ち上がる。ふと自分の質量を概算し、なおも危なげなく立ち上がる体の強さに目を瞬かせた。
「髪を引っ張らないでもらえます? まだ生やしておきたいんです」
「っ――」
咄嗟に手を離して上体を若干逸らしてしまった。傍らに控えていたストラトスが咄嗟にメロディの手を握り、背にもう片方の手を触れさせた。
「離すようには言ってませんよー」間違いなく原因を作った本人なのに納得できない言い分だった。しかし乗せてもらっている以上、何か文句をつけるのはおかしな気がして口をつぐんだ。
視線を向けると本棚の上が見える。天井に手を伸ばしてみると、指先が届きそうなほど近かった。
「それで、いかがですかー?」
意見を求められ、メロディは観察に意識を集中させた。