募る考察
車内でローゼンシュティール伯爵の論文【第6次大戦期エゼラフェル地域における未成年者強制徴兵計略に関する旧ピサラ王国の対処】に目を通す。
先日わざわざオルトが要約をつけて同論文をかしてくれたのを思い出して申し訳なさを覚えたメロディだが、読みたいのは今だ。
友人らによるユビキタス構想が現実のものになればこういったすれ違いを減らせるのだろう。きっと遠くないうちなのだろうと勝手に期待を膨らませる。それでも期待に応えてくれると今までの経験から疑いすら抱かせないのが彼らである。
当該論文では、やはり、大戦末期に皇国が実施した未成年者強制徴兵計略に対する糾弾のひとつの方法として童話が成立したこと――『ユーホルトの豆挽き』が語られるようになった由縁が考察されている。大戦期のユーグルート王国の軍人である著者が何を思って童話を採用したのか――伯爵はどのような人なのか、この論文を通して本当に知りたいことは何か考えながら読み進める。が、あいにくアンスラクーホ研究員のようにはうまくいかない。
昨日のフラナリー伯爵の解説によると、ダクティーリオスで愛される英雄ザラスシュトル・オヴィに手記で文武両道の男だと評されていたらしい。動植物の命だけでなく国家ですらも戦乱に飲まれた時代だ。
童話は言わずもがな、子守唄と同様、子どものための物語。大人になると、否、あるていど年齢を重ねた子どもはいつのまにか関わりを断ってしまう。メロディ自身、王妃付きになると読書はすっかり自学自習のためにした。母の存命中はよく特別な物語を聞かせてもらっていたにも関わらず。
(ローゼンシュティール伯爵には、家族が……童話を話して聞かせる年頃の子どもがいたのかしら)
批判のために城内の政治ではなく童話が用いられた理由として、自然と思考が結びつく。
ふと、思考が記憶に引き寄せられたーー昨日、フラナリー伯爵は、母は話題にしたが父については何も言わなかった。新緑祭で父の名を詠めないのを分かっているからの対応なのかーー失踪したブランザ博士の行方に関する依頼をしているのだから無意識だとは思えなかった。
携帯している短刀に指先が触れた。金属に体温が緩やかに解ける。
先代ヒストリア伯爵である祖母の名前は、遺体が一部しか発見されていないが、西方の悲劇当日を命日として〝諡り名〟を詠んでいる。祖母の死亡は受け入れられたが、爵位継承裁判では父の死亡通知を利用したにも関わらず、父の生存は諦められずにいる矛盾を抱えたままどうすることもできない。
祖母から短刀を譲り受けた時のことはあまり覚えていない。西方への出征前だったのは確かだが、どのような意図で、どのような言葉とともに受け取ったのか曖昧だ。それまでにおいても会話したことはほとんど無く、ともに食事をとったことは一度すら無い。祖母の笑顔は見たことないのに、笑顔を知っている違和感……ああ、そうね……記者の話題提供から、思い出す。数年前初めて観た『好奇心に屈する』で挑戦的な笑みを浮かべる、会ったことすらない絵画の中の少女。記憶の中の祖母の姿は、彼女の笑顔に通じる何かがあるのだ。
彼女の背後にある長方形の真っ暗な夜空からはわずかに見える星々の瞬き。窓ガラスには明るい室内の様子が鏡のように反射して、かばん、高さのある器、オヴィの遺品とされるカメラ……あらゆるものが写り込んでいた。さらに観察すると時計が3時半過ぎを――反転させて、8時半前を指していることまでわかる。
しかし、わからなかった。
彼女の得意げな笑みは一体誰に向けられているのか。なぜそのような表情を浮かべているのか。オヴィはなぜこの絵画に『好奇心に屈する』と題をつけたのか。そして、この絵画を前にしてなぜ涙が溢れてしまったのか。
アレクシオスがこの絵画を卒業論文の題材にした真意もわからないが、彼の考えていることが説明されるまでわからないのは出会った当初からだ。
「どうされましたか?」
「わからない」
補佐官の問いには端的に答え、考えてもわからないものはわからないものとして、思考を切り替えた。
考えるべきは職務に関することだ。
今回の〝φファイ〟において被害者の唯一の共通点はいまのところ移民や旅行等でユーグルート共和国と縁があること。
起案者であるストラトスが収集した失踪事件の概要ではおおむね居住地区は近く、バルトロマイに集中していた。その彼は、大量失踪が関係する物語として『ユーホルトの豆挽き』を挙げた一方、ディオン・ブランザ博士の失踪は取りあげなかった。その意図は本人に尋ねるとして、他のことも気になった。
オルトによると、世界学術機関がその名を改めた1600年1月からおよそ半世紀、発表された大量の論文の中で15語の題を持つ論文は87あると言っていた。11世紀末の皇国の軍事批判は13ある、と。
一般的に論文には参考文献が添付されており発表年を推測できるが、ローゼンシュティールの論文では欠けているものが多い。いつ発表されたのかわからない。
オヴィの盟友であるローゼンシュティールが5世紀も生存していたのは非現実的であり、定かではないがかの軍人が政治に敗れて暗殺されたと言われるのはオヴィの謎の失踪よりも前――英雄直筆の手記に名前は挙げられていないもののローゼンシュティール伯爵の死後の安寧を祈ったとされる言葉が遺されている――戦後の大陸巡礼にて星の数ほどの伝説を遺したオヴィに関しては、前触れもなく姿を消したのも伝説を補強して、戦火や混乱により12世紀にかんする国内外の書物はほとんど現存しない中でありながら奇特なことに手記や作品群はあるていど執筆期間あるいは制作期間が特定されつつある。
推測される当時の平均天寿年齢を考慮すると、ローゼンシュティールもオヴィも、少なくとも12世紀のうちには星の身許へ還っただろう。他方、このころは〝空白の12世紀〟と表現されるように極端に資料が少ない。当時は列強に名を連ねた大国や周辺諸国だけでなく、大戦後に成立したとされるダクティーリオス王国も例外ではない。
(だから欠損や落丁を修正できないのかしら)
補おうにも、資料が失われていれば適わない。
とくに、列強の一角だった皇国は崩壊して地図からその名を消滅させた。ダクティーリオスは建国に際してユーホルトをフラナリー伯爵領として自国に組み込んだが、その土地に由来する知識までは吸収しきれなかったのか……知識欲が服を着たような男が治めている地域だ。最大限の努力はあったのかもしれない。しかし、あるべきものが存在しなければ努力は実らない。
「……ブランザ博士の研究資料はどこにあるのだろう」
「探せば見つかるんじゃないっすか?」
「失踪直前まで進められていたはずの研究資料のことだ」
「無いなら、破棄したのでは?」
「専攻研究員の言葉を聞いた後では、容易く手放したとは思えない。あれは、学者自らの魂にも等しいものだろう」
「悩み抜いた末ではない、と?」
「どうだろう。わたくしの身近にいる学者然とした者たちは自らの住居よりも論文や研究資料の保管を優先する」
「奇特な方々がいるものですねぇ」
「本当に」
「それで。どうされましたか?」
「……解決に時間を掛けたくない」
「〝φ〟に関してはいずれもそういった目的だと思いますが……理由は把握されていますか?」
「失踪を……あの地域に住む人々に〝神隠し〟を現象として受け入れさせた原因は国にあるとしても、人が消えるのは仕方のないと認識するに足る文化が根付いていたとしても……なぜ納得してしまったのだろう。それが、わからない」
「今回の出張では失踪者の身近にいた者たちに、全員は難しいでしょうが、数名には話を聞けるでしょう」
資料だけでは、関係者の意図がわからない。
意志は事件よりも謎めいている。だからこそ、意志を読み解ければ事件の全容は自ずと照らされる。言葉を声にして発するたびにより理解は深まっていく。そう信じることにした。
他方。
ティルクーリは助手席に学生時代からの友人でもある協力者エイトス記者を乗せていた。
急遽、電話をして時間を開けられないかと声をかけたところ可能だという返事を受けてすぐに迎えに行ったのだ。エイトスの勤め先からまもなくのころは何度も謝罪を口にしていたティルクーリだったが、友人に「さすがに鬱陶しい」とまで言われて、別の話題を提供した。旧知の仲のふたりの会話はすぐに盛り上がった。おかげで王城の駐車場に到着するのはあっという間だった。
「あっ。そういえばさ。ヒストリア伯爵の縁談が進んでいるっていうのは?」
降車直前にエイトスが尋ねるが「閣下に関する諸事情、こっちから何か言うと思う?」ティルクーリはやんわりと解答を拒否する。「いや。なんつーか……あれだね。渦中にある妖精の部下に聞いた、って事実が欲しいだけ」エイトスは鞄の中身を確認してから苦笑してみせた。
「じゃあ、答えはなんでもいいってこと?」
「事実ならなお嬉しい。ほら、よくあの貴公子が来るようになったんだろ?」
「何もないよ」
「本当に? 何か言ってないの?」
「言わないよー」
駐車場から情報調査室へ案内するように先を歩くティルクーリに「知ってる」と返しつつ、内心エイトスは友人への申し訳なさを覚えた。この友人は頭の回転はなかなか速いのだが、裕福な環境で育ったからか、どこか世間知らずというか詰めが甘いところがあるのだ。
「あの貴公子が来るようになったんだろ?」これに対して「何もないよ」と返した。
何も知らなければ貴公子は誰のことを指しているのか、わからないだろう。
何もないよ、と答えるならば来ていることは否定できていないだろう。
この情報をもとに記事を書くほど、世間に確度の低い醜聞をばら撒こうとは思っていない。だが、いつか、とんでもない情報を零してしまうのではないかとひとりの友人として心配だった。
「あっ、ごめん。忘れてた。ちょっと上司に電話かけに行く」
「待っていようか?」
「いや、いいよ。すぐ終わるから。追いかける」
「そうか? 調査室の場所はわかる?」
「前回いったところだろ? まっすぐ行って、左の階段で4階」
「じゃあゆっくり進んでる」
「ありがと」
エイトスは城内の電話機室へ急いだ。
先客はひとりもいない。覚えた番号を電話機へ入力して待つ。
「はい。こちらは第5裁判所でございます。私オナシスが、ご用件を伺います」
「どうも。アエラースの〝疾風に聞け〟所属記者エイトスといいます。そちらにリュシュリューという記者がいると思うのですが、繋いでもらえますか?」
「かしこまりました。少々お時間いただきます。そのまま電話を切らず――」
「よう。どうだった?」
戸惑う女性に代わって上司の声が聞こえてきた。この人らしいと思いつつ、指摘はしなかった。端的に「おそらくはずれです」とだけ報告した。
「ははは、そうか。残念」
「自分はこのまま協力を続けますか?」
「嫌なら離れればいい」
「弟がうるさいんで嫌ではありますが、協力そのものに不満はありません」
「だったら好きにしろ。こっちもやりかたを変えるから心配いらない。まあ、少しはお真終えも忙しくなるだろうがな。まあ、勘弁してくれ」
「もちろん。善処します」
通話を終了して、友人の背を追いかける。駆け足でもなかなか追いつけず、道を間違えたかと自らの記憶を疑い始めたころ、ようやく真紅が視界に入った。すると、足音が聞こえたのか、ティルクーリはふり返って足を止めた。
「さすが、記者は体力勝負だな」
「ゆっくりだっつったのに」
「別に走っていないよ」
「こっちは荷物が重いんだって」
「あ、そっか。童話とか翻訳資料とかだったっけ? ごめん、持つよ」
「いや。良いよ、もうすぐそこだろ?」
ティルクーリとエイトスが情報調査室に到着して数分もしないうちに、ローガニスとメロディも入室した。
ローガニスはエイトスの姿を認めるなり「あれぇ? 今日だった?」首をかしげる。その隣でメロディは補佐官を軽く睨みつけ、エイトスに向きなおると「すみません、待たせましたか」と労わりを見せた。
「いっ、いいえ! そのようなことはございません!」
焦るエイトスに対して「悪いね、急に。なにぶん、急に決めたものだから用意が追いついていなかった。来てくれてありがと!」若干のなれなれしさを見せつつ、シリルに「何か動きでも?」小声で尋ねた。するとシリルは近くの資料の山を指さした。
「学芸局から。見たところ、ユーグルートの軍人に関する内容だったから可能であれば〝初風〟の資料も欲しかった。もう明日だったろう? 急いだほうが良いと判断した。幸い、時間があったらしい」
「そりゃどーも。随分な御慧眼に惚れ惚れするよ」
事情を説明しようと思ったローガニスだったが、すでに上司は資料の内容に目を通していた。それだけで彼女は大方の事情を察したらしい。口をまっすぐに結んで精一杯の難しい表情を浮かべていた。
「わたくしの名を出せば無理は構わないと思っている者がいるのか?」
「ご存じありませんでしたか?」
昨日メロディはフラナリー伯爵を通して、学芸局の職員にローゼンシュティールとファブロイアについてまとめるよう、頼んだ。しかし、伯爵には無理はさせないよう明言した。にもかかわらず、この素早さである。
補佐官の軽口に意見せず、細くため息をついて思考を切り替える――ここまで用意を進められているのだから休んでいる場合ではない。こちらを優先しよう――自分にそう言い聞かせた。