わからないことだらけ
臨時講義の内容はおもに現状公開されているユビキタス理論に関するものだった。本来アンスラクーホ研究員の専攻である人文科学からは大きく外れる分野だが、マッティ・メイカライネンの提唱理論が持つ魅力は彼を魅了するには十分なものだったらしい。
「つまり、ユビキタス理論の発想の根底には共有と平等と代替があるのでしょうか」
「ええ、そうです。とくに、平等性と代替可能性については彼の一貫した主張でしょうね」
「フラナリー閣下からお借りしたこちらの資料には数多くの書き込みがあります。そのうちの……こちらについては」
「ああ、実験準備関連のめもでしょう。ある物質がラニプレカノア親和力の高い状態とは要するにどのような条件を満たしている状態なのか、【ユビキタス構想の提唱と論旨の整理】で丁寧に書かれていた本質でしてね。基礎的な再現実験から試みるはずですから、立証実験第17班が試みているのは未詳物質〝ロア・ゥル〟の再活性化のはずです。これはその手順を省略や略称を用いているだけですよ」
「そうなのですね。ほかに気になるのは【ユビキタス理論の前提とする仮説:生来性不活性動力の再活性化効力に関する仮説】の……327ページ以降によると、生命体が有する生来性不活性動力を用いると再活性化が可能と記されているのですが」
「そう、そこですよね。なぜマッティ・メイカライネンは生命体だと限定したのか。私が拝読したかぎりでは理解が及びませんでした。無機物では再現成し得ない反応があると仮定したところで、生物以外の有機物で同様の反応が発生しないとなぜ把握しているのか。今代筆頭の〝アーニィ〟ですから私などでは足元にも及ばないためなのでしょうけれど、気になります。彼の思考はどうなっているのでしょう? そもそも彼の文章からは……失礼。長くなりますので割愛します。今回はそうですね、生命体、生命体以外の有機物、無機物ーー例えば、人間の被験者、蝋燭、金属ーーでは再活性化を適えられるのか、当該実験に用いられるのはそのあたりでしょうね。同期が班員なので機会があれば聞いてみます」
「本当ですかっ、でしたら、今わたくしが抱えている案件が落ち着くのはおそら、く……」
ふと視界の端に真紅が入りこんできて、そのまま扉の方向へ視線が流れた。
目が合うと、彼は小さく肩をすくめた。
「結構ですよ。時間はまだありますから。そのままどうぞ」
あくびを我慢するような声色でローガニス補佐官は告げた。
「いつから」
「ああ、本当にノック聞こえていらっしゃらなかったんすね。つい、復讐的な無視かと。んじゃあ、とりあえず、どうされます? 区切れちゃいましたよね、色々と」
一度、メロディとアンスラクーホ研究員は目を見合わせた。苦笑を交わし、後日改めて機会を設けることに落ち着いた。
法務省のふたりは研究員に暇を告げて廊下を進んだ。
「いったい何のお話されてたんです? 途中からだったものでまったくわからなかったのですが」
「フラナリー閣下からこちらをお借りしたんだ。先生にはその解説をしていただいているところだった」
メロディはローガニスに冊子を突き出した。題名を見た途端、補佐官は明らかに表情を曇らせて肩をすくめる。
「内容、わかりました?」
「ひとりで理解を試みるよりは、ずっと」
「それで、本来の目的は?」
「……ああ。考古学的骨格復元技法の応用は可能だと返答してくれた」
「忘れていらっしゃらないようで安心しました」
技法に関して、最初の数十分あるいは数分ほどしか話していないが、内実は沈黙することにした。
「そちらでは閣下と何か話したのか?」
「いえ、とくには。そもそも私は武術院卒なので最新の研究内容についていけませんし。向こうも犯罪捜査に関して同様ですからね。今回の訪問理由を尋ねられましたが、何と答えればよかったのか」
「人間が作った幻想は必ず人間の手で壊せるものだ。事件の真相は見えないだけではじめから存在しているのだから、まずは覆い隠しているその霧を払ってやれば良い。そのための火を灯して水蒸気の飽和を解消する……研究者相手ならこれくらいで伝わるだろう」
「ははぁ、なるほど。次回以降使わせていただきましょう……とはいえ、今回の霧は濃すぎません? 〝試練の灯火〟くらいなけば霧は晴れないように思いますが」
「ならば用意しよう」
「どのようにご用意すれば?」
「出張前に少なくとももう一度は〝φファイ〟を行う。そのとき、室員たちが収集してくれた情報を踏まえて、改めて疑問点や不明点を確認する。今のところ――失踪者が増えず10年近く経過した理由、ユーグルートに近しいほかに挙げられる失踪者の共通項の有無、国内外の同様事案……これはわたくしの記憶にあるかぎり、少なくともこの100年で国内には存在しない……について類似点の有無――この3点か。童話や〝神隠し〟に関してティルクーリがどれほど情報収集を進められたか比重が重いな」
「難航していたら手伝っておきますよ」
「頼めるか?」
「頼まれたら断れない性質であります」
「それは、いつからだ……?」
「当初より」
ローガニスが肩をすくめメロディは曖昧な笑みを返し、ふたりの会話は終わった。
改めて、補佐官にはよく観察されていると痛感する。ひとりで考えたいときには進んで会話を終わらせてくれるのだ。
メロディはその心遣いに心の中で感謝して、フラナリー伯爵に振られて動揺した話題を思い出した。
ディオン・ブランザ博士の失踪は、フラナリー伯爵によると、1675年3の月21日。春分の前後あるいは当日……〝福音の舞〟演者を経て、日の長さや月の満ち欠けに関する知識は身に染みついた……過剰反応しているだけにすぎないが、気になってしまった。これがきっかけでなぜ自分が演者を目指したのか、連なる記憶として思考に浮かぶ。
父親の失踪にともなう死亡宣告をより有効に利用して、爵位を継承するためだ。
ブランザ博士には家族がいる。誰かの夫であり、誰かの父親である。失踪者を待つ誰かがみな死亡宣告を望むとは限らない。
その事実が胸に取り残されていた。
歩いているうちに情報調査室へ到着する。ローガニスは扉を開けて中の様子を確認した。メロディも彼の背後から室内を伺う。シリルとティルクーリは自席で書類作成に励んでいたが、ツァフィリオはストラトスの隣へ椅子を移動させてふたりで何か話していた。そっと入室したものの内容が気になり、若干進む先が執務室から逸れると背後から咳払いが聞こえた。すいと部下たちから視線を逸らす。
しかし会話は聞こえて、結局、指紋の有無に関する不意の疑問が零れる。赤みがかった濃茶と晴れた冬空の瞳がそれぞれ集まった。いくつか情報を共有すると、可能性の範囲にある推測が浮かんできた。補佐官には諫められたものの、彼の普段の勤務態度を考慮すれば、お互い様だと言い訳ができる。表情から察されてはうまくいかないかもしれない、メロディは足を止めた。
「どうされました?」
「……先に謝れば許してくれる?」
「はい?」
「どちら?」
「まあ、ええ、そうですね。貴女が怪我するわけでないのでしたら構いませんよ」
「そう?」
振り向くと同時に銀髪を結っていたリボンを解き、下へ放る――やはり本質的には忠実な補佐官だ。リボンは床につくことなく、彼の手中に収まった。体勢を崩したまま見上げる彼の笑みが若干崩れて非難がわずかに見えた。が、部下は無事にメロディと類似する結論に辿りついてくれたらしい。会話らしき一方的な自問自答には心なしか既視感があった。
「そこだよ! なぜ指紋が残らなかったのか――なぜ手袋を外さず作業を進めたのか!」
資料の該当ページをツァフィリオに見せながらストラトスは興奮とともに続けて力説する。リボンを差し出され、補佐官に背を押されるようにしながら再び執務室へ歩みを進める。扉が閉じられる直前「だとしたら、犯人像を絞れる!」それだけで謎の氷解が果たされると信じられた。
「ご満足ですか」
「直接は答えを告げていない」
「はいはい、そーですね」
呆れを隠さないローガニスは、執務机に書類を乗せる。
「こちら、裁判所からの承認申請に関する書類と資料です」
「二重帳簿の?」
「それはあくまでも要素のひとつですよ。まあ、軽く確認したかぎり我々が認識している範囲ですね」
「だが、変更点があるから改めて裁判所から送られてきたのだろう?」
「さあ、どーなんでしょうね? 案外、誤字脱字を見つけたからとか、そんくらいかもしれませんよ。まあ、閣下の証言は明日ですし、そう大幅なものでは無いでしょ?」
(明日……? そうよ、明日だわ!)
春麗祭明けはどうしても日付の感覚が希薄だ。証言しなければならないことを忘れていたわけではない。いつ証言するのか曖昧だったのだ。とはいえ、明日の予定のための資料を前日に渡されてしまうと、急いで目を通して内容を今日中に把握するしかない……裁判所側か補佐官か、どちらの怠慢か知れない。が、今、不満な視線は退室しようとする補佐官の背中に向けるしかなかった。
扉が閉じられて、執務室内にひとりきりになった。
メロディは来客用ソファーに深く体を預けて制服とシャツの襟ボタンを外す。首筋からチェーンに指先を滑らせると、球体に触れた。出勤時から人肌に触れていたからか、ほのかに温かさを帯びていた。この鍵がどれほど大切な何を守るためなのか、今もわからない。あの日の母の言葉だけを、ただ、約束を覚え続けている。
「鍵は何かを守るためにある」
1675年3の月下旬。
フィーニックス・ヒストリア夫人が体調を崩すことはそれまでも少なくなかった。数日会えないのは珍しくなかった。広い邸宅でひとり食事をとらねばならない回数が15を超えたころ、ようやく違和感を覚えた。
急に母が衰弱した原因は、可能性はあるいていど絞られているが、わからない。
当時、母の身に何が起きていたのか判明したとしたら。活性化による効力が計り知れないのだとしたら。〝ロア・ゥル〟を自在に操れるようなラニプレカノア親和力の高い状態を維持できる手法が存在していたら。ユビキタス理論の前提である生来性不活性動力の再活性化効力に関する仮説をもとにしたその手法が安全に人体へ影響をもたらすことができたのなら、母を助けることができたのではないか……最初に思いついてしまった感想は、もう適わない、幼いころ抱いた自身の願望だった。
フラナリー伯爵の研究室内を思い出す。大量の論文の中、プリムラ・ダクティーリが飾られた花瓶と亡夫人の彩色写真があった。研究者である彼自身は同じことを一度でも考えたのだろうか。
(だから母と並べてユビキタス理論の話題を出されたのかと思ったけれど……)
話題選択に関する疑問はほかにもある。母のことは話題にしたのに、なぜ父のことは俎上に挙げられなかったのか、メロディにはわからない。
母の死は王宮医が正式に認めた。父の遺体は発見されていないが、死亡宣告は認められた。法的には、メロディの両親は星の御許に還っている。
フラナリー伯爵と父は学生時代に交流があった。だからこそ母のことを上げるなら同時に父のことを俎上にあげれば良かったのだ。そうされてしまえばメロディは選択肢をひとつしか持たなくなる。春麗祭前の婚約解消を経て国王夫妻が取ったのは、命令を避けたものの、実質メロディに従わせる方法だった。今回、フラナリー伯爵も同様の事情を抱えており同様の対応をさせたかったに違いない。ただ、取られた方法に瑕疵がある。
同様の事情だろうと対応する言動には個人差が生じ得るのは承知している。が、黄道貴族家の当主は想定される失敗可能性を事前に潰さず放置するだろうか――ここまで考えて、答えは出ないと確信して思考を区切った。
立ち上がり、執務机へ移動する。
受け取った裁判所からの資料を確認するのが最優先である。襟を整えなおして書類に向きあった。