力説と指南
アンスラクーホ専攻研究員による、研究に関する解説に魅せられて。メロディはどこかぼんやりとした現に身を任せていた。すると、研究員は姿勢を正して苦笑してみせる。
「……と、まあ。それらしいことを申し上げましたが。王城勤務とはいえ、畢竟、我々のような研究員と呼ばれる者たちがしているのは学生時代の延長線に過ぎません」
「何らかの講義を受けているのですか?」
「いえ、講義は受け持つ側になりましたよ。変わらないのは、論文執筆のため自らの研究を深めていることです。論文の中核にあるのは分野に因らず研究ですからね。卒業のために執筆した論文が興味のために執筆する論文に変わるだけですから、自明でしょう」
「要するに……学生時代も今も、論文を執筆するために研究をしている、という認識ですか?」
「ええ、そうですね。論文は考察のための自問自答の文章という側面を持ちますが、最終的にはその文章が他者を納得あるいは説得できるか重視されます。個人の正しさを対外的な正しさであると証明する必要がありますからね。独りよがりの正しさが科学的な正しさである保証などありません。個人の言葉を妄信するのは、それは、もはや科学に対する冒涜でしょう。イーライ・トレイルによる暴論たちが今もなお研究され続けていることが証左ですね。そもそも研究は科学のためにあると言っても過言ではありません。ある有名な学者の言葉を借りなおしますと……論文の価値は、厳密性、体系的重要性、内在的興趣の3点から成り立つ……自らの文章に論文を名乗らせるためには、事実の記述であり科学にとって興味深く、なおかつ、既存の科学の修正あるいは拡張を適え、その文章の対象が内在的に抱える魅力や重要性がなければならない、ということです。それを第3者に確認してもらう作業、それが査読の正体です……論文には、自ら立てた興味深い疑問、その疑問に対する自らの解答、その解答の根拠が必要不可欠になる……と言いかえることもできますね。どちらがわかりやすいでしょう? 意味としてはどちらも同じですが、大変面白いことに、学生らの感覚次第で受け取られかたが変わるのですよ。同時期に同講義を受ける同期にも関わらず、このような相違がみられるのですよ。それまでの生育環境や教育環境に関しては、まあ、国民においては、貴族と他の国民、城下と地方など相違が生じ得るだろう要素はいくつか挙げられます。しかしどうしても個人差というものは存在してしまいます。人間であるかぎり、いえ生物であるならば、体格や能力は統一されていませんからね。いやぁ、本当に面白い。なぜ同一生物種にもかかわらずここまで差異が生じるのか! あくまでも同じ種族に分類されるのに! わたしの研究の根幹は間違いなくここにあると確信しております、はい。身内にもかかわらずまったく能力が異なることもありますし、まったく血縁を違うにもかかわらず第三者視点から見れば親子あるいは多胎児のように容姿がおどろくほど類似していることもあります。相違と類似……幾星霜もの要素が絡み合い、解け合い、混ざり合った末に生まれる妖術ごとく私を魅了して離さない事実と疑問の数々! 閣下のご提案をもとに考案した、考古学的骨格復元技法はまさに青天の霹靂でした。そうか、骨格による分類も考えるに値するのか、と! わが国では自然葬が専らですからね。前提となる復元させていただける顔がそもそもありませんでしたから。繊細すぎる問題が付随するので他国から研究資料として取り寄せられるような代物ではありませんし、写真や似顔絵があれば容姿も体格もあるていど把握は可能だというのもひとつの要因でしょうか。犯罪捜査に関わる機会が無ければ私の人生をかけてもたどり着けなかった発想のひとつだと確信しています。一転、白骨化したご遺体を用いさせていただきましたことにより、私は認識を新たにしました。そう、表情は生きているのです。それまではお恥ずかしながら、芸術分野には非常に疎く評論家たちの述べるような……人物が生き生きと描かれている、まるで作品の中で生きている、日常のある一瞬を切り取ったかのような……虚構の中に生を見出すような表現について理解が及びませんでした。やはり新たな見解というのは他分野への理解も必要なのだと実感しました。いやはや、自らの未熟を理解してはおりますがさらに至らぬところを見つけられるとは想像していませんでした。生きるために学びなさい、と幼い頃からの父の言葉が身に沁みます。いつの日か呼吸するように学べるようになりたいものですよ、はははっ。だからこそ、未熟な自身への理解はまず未理解への理解が必要ですよね。そう、要するに、表情は生きているからこそ生まれ得るのだと実感が欠けていたわけです。基本に立ち返れば想像に易しいことでした。表情は心情を顔つきや身振りによって外部に表すことを指していますからね。文字の意味から追うと、心情が無ければ表情は存在し得ないわけです。生きているとは心にある思いが存在することだと仮定したとき、創作物には存在することは不可能だと思い込んでいたのです。しかし、復元技法の試行錯誤を重ねる中で、ある時点の過去を切り取った創作物と正面から向きあい続けたことにより見える景色が変わりました。あたかも目の前にいるかのような感覚……平面的な情報を参考にしながら、決して平面では再現なし得ない実体の可視化が習作として成し得た、そのとき……先達が作り上げてきた知の巨塔から見えるものをわずかながら霧の中に捉えた心地がしました。同時に、自らの斬新な未熟を悟りました。それまで論文を拝読するときは知識や見解あるいは考察ばかりに意識を向けてしまっていましたが、当然ながら、論文は人間が書いている文章の集合体です。そうです、書いたのは、人間なのですよ! さきほど申し上げましたように論文とはある考察のための自問自答ではあるのですが、前提として、科学のために存在する文章でなければならないという認識を違うつもりはありません。しかし、それでも、研究は、どうしてもある特定の疑問に執着していなければ続けることは非常に困難な行為です。何に魅入られてなぜそれに問いを見出したのか、どのような道筋で解答に向かわんと藻掻き足搔いたのか、何に光を見て、最終的に何処へ辿り着いたのか――論文に記される情報、つまり、文字の上から執筆者自身が見えるのです。気づけた後、いままで読了してきた論文をすべて読み返してみたところ、執筆者ごとに文章の特徴があるとわかりました。規格化されて科学に捧げられたはずの文章に、執筆者個人が見えたのです。ならば果たして、統一された規定に押し込められていない過去のある一瞬を閉じこめんとした創作物の中には何が秘められているのか。この世界で生きるあらゆる人間には何が有るのか。その先に広がる科学はどれほど壮大に座するのか……研究や論文を通して、私が表現できているのか正直なところ自信はありません。それでも私の論文を読んだ誰かにこの魅力が伝わり、学問が成熟していくことを願います。そのためにも、考古学的骨格復元技法の体系化構想というのは我ながら科学への大いなる挑戦だと自覚しておりますが、成し遂げたい目標のひとつです。おや、失礼。話が大きくそれてしまいましたね。研究を将来の科学へ捧げるための論文なので、論文を執筆するという行為をする以上、学園から王城へと場所が変わっただけで研究を続けているわけですからね。ただ、学生は卒業論文が初めての論文執筆ですから、それに向けた練習を重ねる必要はあります。専ら講義のたび教諭から生徒に課題が与えられます。課題は講義の内容に関する、学生自身の自問自答の末の解答ですから修練として有効でしょう。こちらと論文執筆相違点は……そうですね、学生に与えられる課題には教諭から議題が与えられますが、論文では自ら選択することが許されます。そのため、論文執筆のほうが課題よりも自由度を自ら調整できます。とまれ、書いている内容や考えかたなどについては90パーセント以上変わらないというのが私個人の所感です」
「論文執筆やそのための研究は、場所や立場に因るものでは無いのですね。しかし……論文には研究における自らの疑問と考察と回答が綴られねばならない、対外的な正しさも求められる、科学に有意義な内容である必要もあるのですよね……?」
「ああ、しかし、調査論文なるものもあります。狭義や厳密さを求めると厄介なことになりかねませんから、そう難しく考えずともよろしいかと。気をつけるべきは十分な根拠を用意することくらいでしょう。査読でも注意されるのは学術的な信頼性を保証できるかどうかです。執筆者の偏見や独断の有無ですね。研究に関する良い方法は思い当たりませんが、禁忌はあります。根拠なき妄信と冒涜的な侮辱である捏造、この2点くらいでしょうか。さきほども申し上げましたが、ヒストリア閣下のご活躍を風にきいている身としては、問題がある方法を用いて職務を遂行なさっているようには思いません。特に、私にも栄誉を与えてくださっている〝φ〟については、私の講義に取り入れたい手法ですよ。ただ……時間制限を設けること、少人数である議題について討論すること、最後に論じた内容をまとめること……学生らにどのように説明すれば良いか。学生らの感覚次第で受け取られかたが変わりますからね。正直なところ、教鞭を執る身としては、講義中においてこちらの表現の妙による理解度の差はなるべく小さくしたいのです」
「それこそ、論文執筆のように練習を重ねられるようにすればよろしいのではありませんか?」
「閣下はどのような練習方法を取られましたか?」
「どのような、と言われましても。わたくしは特筆すべきことは何もしていません、彼らはわたくしよりも年長ですし、皆、学園を卒業していましたから。わたくしの未熟な提案の、あまり詰めて考えられていない要点を上手に解釈してくれたらしいので。もちろん、回数を重ねるごとに上達はしていますが、わたくしは何も指導や教育は……強いてあげるとすれば、考えかたについては何度か伝えましたね――可能性とは確率論、確率論には数値に差はあれど絶対に起きない事象は存在し得ません。すべてのあらゆる事象は須く起きる可能性を秘めています。ただ、ある特定の事象からその事象はどのように発生したのかを考えることは可能です。そのための考えかたは少々、日常生活からは離れ浮いたものになります――この考えかたについては、室員よりもわたくしのほうが慣れていましたから……ええ、それくらいでしょうか」
「風の存在を推測するように、ある特定の事象からその事象を引き起こした要因を探るための思考をする……素人考えではありますが、研究の実践は犯罪捜査に類似しているのではないかと愚考しています」
「先生の話を聞くかぎり、目的の相違はありますが、わたくしも納得できる考えです。方法論については些細な差異でしょう。犯罪捜査は未熟ですから学問と比較できない点は多くありますが」
「そうですか、まったくの見当はずれでは無くて安心しました。でしたら、やはり閣下が研究するときについて、そう困難が伴うとは思いません。演繹法、帰納法、仮説法をもとにした推論から選ばれた仮説をはじまりとして、根本を成す仮説の発見への収斂を志す――それだけです。文字に研究内容を落としこむのであれば、やはり一連の探求に必要なのは推論でしょう。演繹、帰納、仮説、聞き覚えは?」
「言葉としては、なんとなく……」
自信なく伝えると、アンスラクーホ研究員は「でしたら」軽く咳払いをする。
「研究のかたわら臨時教諭として王立学園で教鞭を執ることもあります。よろしいですか?」
「ええ、お願いします」
ふたりとも時計を一瞥すらしない中、その後も臨時講義は継続された。