研究に魅せられて
フラナリー伯爵に「局員に確認しておきましょうか?」と聞かれたが、メロディは丁重に断った。他者が何をどのように考えているか、気にならないと言えば嘘になる。人の心は難解であり、経験上、意志が事件をより不可解にし得ると理解している。
しかし、職務あるいは〝真実の愛〟の研究と比較すれば、依然として優先順位は低いのだ。今は真紅の制服に身を包んでいるからか、職務が最優先である。
「こちらの手紙は」
「他の者には見せないと約束していただけるのでしたらご随意に」
「原本ですよね?」
「彼を見つけるために必要であれば、是非もありませんよ」
静かで穏やかな声色から厚い信頼を受けとる。フラナリー伯爵は言葉よりも行動で示す、なんとも武官らしい一面がある。
軽い首肯を返すと3通の手紙を茶封筒に入れなおし、右手に持ち直して差し出す。意図を察したフラナリー伯爵は「不要なのだけれど」と肩をすくめるが、メロディは「学務省では問題なくとも、法務省ではよく入手した証拠品や参考物品の信ぴょう性について論じられるものですから。こちらのブランザ博士からの手紙を衆目に晒すかどうかに関わらず、念のためにご協力願います」相手に必要以上の反論を許さない論舌も有無を言わせない微笑みも、軍務省時代、直属の上司から学んで自らの言動に落としこんだ。今では、これくらいならお手のものである。
職務の差異を理由に使われてしまえば拒否する理由は見いだせない。伯爵は右手で差し出された手紙に触れて左手をメロディと合わせた。
「ディオン・ブランザからの手紙へ誓いを捧がん」
ふたりで声を合わせて万物へ宣誓する。
「其は無限の中に在りて有限なる存在、ここに始まり在りて終わり有らん。日輪を仰ぎ、紡がれし記憶を忘るること勿れ。反故さるるならば御天道様の道理を侮るも同義なり。これをもって、この誓いを尊重する」
メロディは礼を告げながら茶封筒を制服ジャケットの内ポケットに押し込んだ。
若干膨れて見えるが、拳銃携帯時ていど。重量は断然軽い。ボタンを留めなければそれすらわかりにくいらしい。
体調管理にうるさい補佐官だが、薄着に文句をつけることはあっても着衣の乱れまで何か言うことは無いだろうと以前の発言から思い至る。少なくとも茶封筒は見えないようにするとして、執務室へ戻るまでは前ボタンはすべて外しておこうかと逡巡する……周囲の目からどのように映るか……考えた末、やめた。発言を軽んじられる要因はなるべく作りたくない。王妃付き行儀見習いに就いてから5年以上かけて作り上げてきた当代ヒストリア伯爵像を理由もなく崩すことになりかねない。
懐中時計をポケットから取り出す。チェーンをベストに装着したまま反対側のポケットに入れなおす。これで前ボタンを留めれば先ほどよりも内ポケット側に余裕があり、シャツ越しに腹部に沿わせるよう調整すればふくらみもあまり気にならなくなった。
カップを一息に煽り、立ち上がる。
「お引き受けしますが、完了時期は現状推し量ることは難しくあります」
「承知した」
フラナリー伯は快く返して立ち上がった。
研究室を出てすぐ、近くの机で作業していた秘書官に端的に命じた。
「スウェラ。アンスラクーホに声をかけてくれ。まもなく向かう」
「はい、閣下」
丁寧に礼をするが、どこか気が進まない様子は見てとれた。その後姿を眺めていると、不意に「気にすることはないよ」と告げられる。書棚に並べられた冊子を確認し続けている伯爵に「よくあるのですか?」と尋ねてみた。
「原因はわかります」
「それは」
「あ、見つけた。ありました、こちらですか?」
「はい?」
「ええ、こちらですね」
伯爵の独り言に反応してしまい、軽く唇を噛んで視線を落とした。
目の前に差し出された冊子の題名は、【ユビキタス理論の前提とする仮説:生来性不活性動力の再活性化効力に関する仮説】だった。
「注釈や考察は書き込まれていますけれど、まあ、まだ読めないほどにはなっていませんよ」
「わたくしが持ち出したら困りませんか?」
「写しのうちのひとつさ。まだいくつか保管してあるはず、何も問題はありません」
「でしたら、ありがたくお借りいたします」
「不明点については私が説明できる範囲で話しましょう。時間が必要であれば連絡が欲しいです」
「はい、ありがとうございます。そちらについても後日報告いたします」
自然な意思疎通を経て、ふたりは隣接する建物へ移動した。フラナリー伯爵が学務省学芸局局長に就任した折、大規模増築したうちのひとつだ。可能なかぎり装飾が殺がれた内装のため、慣れていなければどの扉が目的の部屋なのかわからない。何度か足を運んだことがある研究室であろうと、外部の者にとっては室内から約束していた人物の許可する声が聞こえるまで不安が残る。目的地だと知る手段は必要以上に制限されているが、それが気にならないほど研究以外に興味のない人間の巣窟こそ、学務省だ。
幸い今日は見当たらないが、時折なぜか廊下に転がっている学務局員を目印にすると帰り道がわかりやすいというのは王城勤務の使用人たちの間では冗談でなく、口承により不文律とされている。目印にされる学務局員たちに対して現場で働く医務局員が頭を悩ませているのは余談である。
廊下を何度か曲がると、開かれた扉の前にスウェラ秘書官がいた。彼は明らかにたじろいでいた。
「あの人がまだ小娘の時分なのは明らかでしょう?」
憐れな秘書官の影から「誰が小娘だろう?」不敬な補佐官を睨みつけた。
「おや、話は終わりましたか」
「答えなさい」
「いやぁ、その反応をするのは自明の理でしょう?」
不満をぶつけようと言葉をさがしていると、書類が差し出される。表紙に【考古学的骨格復元技法の体系化構想】の綴りを見つけた。
「お時間なりましたらお迎え上がりますから。駄々はこねないでくださいねー」
話は終わっていなかったが、ローガニスは退室して扉を閉めてしまった。いつの間にか秘書官も姿を消していた。
アンスラクーホの研究室は、整理整頓されているとは言い難いが、おおよそ雑多では無いようにも思える。部屋の隅には、フラナリー伯爵の研究室に静置されていた透明な装置がある。薄まった茶褐色が張りついているのを見るに、使用して間もないらしい。
「アンスラクーホ卿」
「生憎ですが、自分は騎士位は持っておりませんよ、閣下」
「失礼しました、アンスラクーホ先生」
メロディが言い直すと、軽く口角を上げてみせた。
アンスラクーホ子爵家は専ら優秀な学者を輩出する家門として名を馳せており、その長男とは軍務省所属時代にフラナリー伯爵に紹介されてから緩やかに交流がある。
「わたくしの補佐は、何か失礼をしませんでしたか?」
「失礼の定義は不明ですが、否定しておきましょう。カハヴィも褒めてくれましたし、探し物も手伝ってくださいました」
返答にひと安心して、本題に入った。
「1の月末に発見された白骨遺体については身元が判明いたしました。ご協力に感謝申し上げます」
「いえ、お力になれてなによりです。とはいえ、再現できたのは生前の顔立ちと生活環境だけ、体格や推定年齢は大きく外してしまいましたが……」
「既存資料に制限がありましたし、個人差の大きさはどうしても推定が難しいでしょうから。とはいえ、アンスラクーホ先生。これからの本研究には期待しても?」
「もちろんです、ヒストリア閣下。先日は持ち帰らせていただいた体系化の話につきましても、現状の自分の結論として、犯罪捜査方面で用いるための似顔絵への参考を目的とした考古学的骨格復元技法の応用は可能だと思われます」
断言しないながらも、その言葉は力強い。否、断言しない誠実さは冗長な明言よりも信頼を寄せられる。
メロディは受け取った資料を検めていく。アンスラクーホ研究員は、滔々と話し始めた。
「さきほど補佐官殿に手伝っていただき見つけた論文も添付しました。先日、大陸学術機関へ寄せられた興味深いものでしてね。査読段階で自分に送られてきたので筆者は不明ですが、内容の確からしさは保証できます。機関にもそのように返答しましたし。ああ、内容としましては、そうですね、骨の分析から主食の推定が可能なので生活地域の推定が可能なのはご存じですよね。先日、ご説明したように思います、していなかったら申し訳ありませんが。まあ、とにかく、大陸においてすべての人間が主食を同一としておりませんからどの地域で生活しているか推定できるんですね。このとき、そう、生活地域から人種への予想が可能であるとき、人種ごとに適した手法がさらに詳細に分けられているのですが、それに関して見解を新たにした内容です。今お読みになっているページ、ではありませんね。わかりました、お待ちします」
「いえ、構いません。失礼な姿勢をお許しいただけるなら、聞いているのでお話していただけますか?」
「弟妹にはよく混乱するからとりあえず黙っていろと言われるのですが」
「でしたら会話しましょうか。まずは、そうですね。ダクティーリオスの人間とユーグルートの人間では、適した手法は異なっているのですか?」
「隣国ですが、そういうことです。ただ、そもそもダクティーリオスの国の成り立ちからしてユーグルートの血縁ではありますから万別とまでは言えません。傾向の話ですね」
「国境付近なら、どのような手法を選択しますか?」
「予想し得る手法をすべて試行します。そのうちのどれかが最適です」
「失礼しました、数字で語り切れるものではありませんね」
「はい。あいにく、人間の身体をすべて数字や計算で表現するには、学問が未熟です」
「本手法で計算を用いるのですか?」
「はい。頭蓋の形状から表情を司る筋肉や脂肪の配置を推定するときに必要不可欠です。門外漢ですが、数学科や医学科の局員は丁寧に気が済むまで対応してくれますから」
「それは」
メロディは確認を終えた資料を閉じた。アンスラクーホの目をまっすぐ見つめる。
「先生が学問に真摯でいらっしゃるからでしょう? 相手にも伝わるほど」
「……光栄な言葉です?」
「そう受け取ってもらえれば嬉しく思います。同じ大陸に生きる人間だろうと頭蓋の形状が異なるのは初めて知りました。この筆者はどのように資料を収集したのでしょう? 相当な困難があっただろうことは想像に易しいです」
「そう、それは自分も不思議に思いました。ただ、大陸学術機関から取り寄せた大陸各地の論文に添付された資料を確認できる範囲で参照したところ、資料収集に問題があるとは思えませんでした。なので、向こうへの査読返答は肯定的なものにしました。これから調査を進めますので、判明次第、お伝えします」
「本当ですか」
「時期はわかりかねますが、まあ、自分が死ぬ前までには」
「でしたら、仕事を増やされると困りますか……?」
「法務関連ですか。〝西方の悲劇〟や先日の事件とはまた別途ですか?」
「5の月を目安にしてほしいのですが、現在取り扱っている〝φ〟の内容次第ではご協力願う可能性はあります」
「医務局員から注意を受けないかぎり問題ありませんよ」
それが唯一にして最大の問題だ、と言いかけてやめた。学務省の、とくに学芸局員になると、ある特定の項目では意思疎通が困難になってしまう。同じ言語を用いているとしても……非情に根深く難儀な問題である。
「他に何か気にされていますか?」
そう尋ねられ、目下、通じるだろう疑問はすぐに思い浮かんだ。研究者に尋ねるべきは、いつだって研究に関する疑問だ。
「ええ、そうですね。研究するのに良い方法はないかと」
「無いと思いますよ。あれば我々は何も苦労しません」
「そう、ですよね」
「研究にご興味がおありで?」
「わたくしの年代はちょうど学生ですから。自分の選択に後悔はないけれど、それでも気になってしまいますね」
「自分が認識している範囲にはなりますが……研究というのは、ある特定の物事を執拗に明らかにせんとする行為を指しています。そのために考え、調べ、ときには実験して明らかにしていきます。わかること、わからないことを整理する、と言いかえることも可能です。わからないことの中で知りたいことを明確にするために、前提条件を把握する、曖昧なままでは考察を進めない――重要なのはおもにこのふたつです。閣下ができていらっしゃらないとはおもいませんが」
メロディは困ったように微笑んだ。まず資料を読みこむべきなのはわかる。しかし、何のために読むべきか把握できていない状態では何に注目すべきか曖昧だ。読み進めてはいるのだが、なかなか読了できないのは多忙だけが理由ではないのだ。
すると、アンスラクーホ研究員は尋ねる。
「風を目視したことはありますか?」
「え?いえ、ありません」
「風はご存じですよね。空気の移動のことです」
「ええ、そうですね」
「なぜ見たことが無いのか――色も形も無いからです。しかし、風が存在することはなぜわかるのか――直接は見えなくともそれが発生させる現象から見えるからです。これが、わからないことをわかるようにするため、見えないものを見ようとすること……これこそ研究だと、自分は考えています。これが、科学研究のはじまりであり、今日まで繰り返されてきた行為の本質だと。この繰り返しの根底には、探求を促す好奇心が……先達が科学を発展させてきた原動力です。大変な作業だろうと決して容易でない行為だろうと、本当に知りたいと心から願えるなら、すべて苦になりません。我々を魅せる何かがあるかぎり――その何かが必要不可欠であって、ほかのあらゆる要素はあくまで副次です。重視すべきは方法でもないようでもなく、対象そのものだけです」
自問自答のような口調は、熱量は少なく見えても人を惹きつけるには十分すぎた。