苦手な言葉
抱っこをせがまれたルークは軽々とテレサを抱き上げて扉の向こうへ姿を隠した。
「うだうだ言ってるくせに面倒見良いですよね、あいつ」
「誰に似たのかしらね」
「さあ、どなたでしょうか」
軽く肩をすくめながら「ルークの相棒って、結局どうなるんですか?」彼女に尋ねてみた。組織内の情報力では遠く及ばない。このほうが自力で調べるよりも簡単かつ確実だ。
「貴方、あの子に肩入れしすぎていない?」
「問題ありますか?」
組織内で構成員と候補生が必要以上に親しくしているのは決してよろしいことではない。あくまでも組織の目的を最優先に行動すべき立場にある構成員にもかかわらず、ところどころ従わないのが彼である。こういうところが御上の評価の覚えが悪い原因なのはしっかり把握している。が、必要以上に組織に貢献しようと思っていないこともあり、いまさら変えるつもりはない。彼女もそれは知っているため、しつこくしなかった。
「今のところ、保留されてるわ。偽名で学園内の単独諜報任務についてるってことになっているから、卒業まではこのままでしょうね」
「卒業後は?」
「わかっているでしょう、国内外の情勢に左右されるわよ」
「もちろん。ただ、時事に疎いものでして」
「最近は、そうね……御上は国内の情報網を固めたがっているみたいだから、王城かアエラース商会方面の補充かしら」
「ははは、ここ数年はずっとですね」
「西方の失敗を忘れられないのよ」
「そりゃあ、あの規模の失態はなかなかありませんからねーぇ」
軽い口調だが、本心は別のところにある。メロディ・ヒストリアであれば見当違いな指摘をしてきそうなものだが、隣を歩く彼女は野暮をしない。ただ困ったように微笑むだけ――彼女もあの失態のせいで手を焼かされた覚えがある――言いたい言葉を飲みこめる程度には良識のある女性だ。
「あいつの配属、帝国方面ではありませんよね?」
「否定はできないけれどね。第一皇子の虚弱体質と第三皇子の傍若無人っぷりは有名だから」
「えっ、帝位争奪戦っすか? 皇帝、もうすぐ崩御しますっけ?」
「貴方……国が違えば首を飛ばされるわよ?」
「敬語使ってますから平気ですよ。あのジジィ、まだまだ現役だと思っていたんですけどねー」
「私、何があっても貴方を庇わないわ」
曲がり角。
彼は彼女の後ろに続いた。彼女は訝しむ視線を向けながら「疲れてるでしょう? 早く休みなさい」と告げた。
「いや、送りますよ」
「迷うような道じゃあ無いわ」
「でしたら、紳士としての矜持ってことにしてください。それなら構わないでしょう、夫人?」
恭しく辞儀をして、エスコートの手を差し出す。彼女は仕方なさそうに「そうね――本来の役柄に戻らねばなりません」言葉とともに分に気を切り替えた。気安く優しい情報通な先輩から、穏やかでありながら凛とした気品を持ち合わせた貴族夫人へと。
以降、会話はなくなった。あるべきではなかった。彼は長年仕える従者のように彼女にすべてを合わせた。
拠点のある一室にて、大型機械の操作を完了すると、同室で彼女を所定の位置へと――床一面に描かれた円形幾何学模様の中心へと導いた。
「ありがとう、ラース」
彼女は上品に微笑んで魅せる。同じ構成員として雑談に高じるときの女性はもういない。
「ごきげんよう、奥様」
彼女が去るまでは――彼はどうにか表情を変えないよう努める――次の瞬間、彼女は光の柱に包まれて……姿を隠していた。
もう誰もいない。室内でひとりきりになったと理解しですぐ、彼は壁に背を預けてそのまましゃがみこんだ。細く長く息をつく。
感謝の言葉は物心ついたころから苦手だった。
誰かの記憶が脳漿にへばりついているせいで。
これを夢と勘違いしながら思い出したのは、10歳のころ――この男の子が死んだ年齢になってからだった。
おとなしいというよりも引っ込み思案、引っ込み思案というよりもビビり……とにかく何事だろうと強く出れない性格をしている男の子だった。
その日は、同じグループに所属している女の子を探していた。あまり広くない建物。それほど時間はかからないだろう。なんとなくあたりをつけた場所をいくつか確認して回っている最中――小さな悲鳴が聞こえてきた――建物内にいるのは、研究者を除けば同年代あるいは年下の子どもたちだけ。
今の悲鳴は明らかに後者のものだった。歩みは遅くなったが、悲鳴のほうへ向かった。
はっと息を飲む……見てはいけないものを見た気がして、咄嗟に壁に身を隠した。
が、遅かった。
姿を見られていたらしい。視線の先にいた女の子は強い眼力を突きつけながら「何?」とだけ言う。背は男の子のほうが若干高いが、それはもはや意味を成さない。紺碧の瞳から逃れようとする視線と怯え切った声色とともに「い、いや……」小さく言葉にならない何かを返すので精いっぱいだった。
オドオドした曖昧な態度にしびれを切らしたらしい女の子は、男の子の両足の間にある壁を蹴りつける。
「言いたいことあるなら言えよ」
怒気を含んだ声とこの状況にすっかり恐縮する体は何も言うことを聞かない。立っているだけで何もできず、伝えたい言葉も浮かんでこない。やがて彼女は舌打ちすると
「あんたは何も見て無いから」
「……え…………?」
「わかった?」
「あ……えっと」
「博士たちになんか言ったら許さない、と言っているの。わかった?」
「……」
見てはいけないもの、もとい、悲鳴が聞こえてきた原因は、本来、大人に伝えるべき内容だ。それはわかっている。そうしなければいけない、伝えないとしても、何か
「わ、か……た」
男の子の言葉に満足したのか、彼女は満面の笑みを浮かべると
「ありがとう、ラース」
それだけ告げて去って行った。
威圧から解放された途端、背が壁を滑ってしりもちをつくように膝を折った。
普段の訓練では、もうほとんど息が上がることは無い。だが、今は汗が噴き出して肩で息をする始末だ。このときほど自らの気の弱さを呪ったことは無い。怯え切って、言わねばいけないと思ったことすら言えなかった。これを誰かに見られていたことも、確かに、悔しさを覚えた。
「大丈夫?」
不意に声が掛けられる。そっと顔を上げる。
立ち去ったはずの彼女と、瓜二つの女の子。左頬がわずかに赤く腫れている。
「何かあったの?」
質問が重ねられる。本当は、むしろ聞きたかった――なぜここにいたの、なぜ叩かれたの、なぜ君は泣かないの――何ひとつ聞く勇気はなかった。
「βが、みんな博士に呼ばれているから……それで、君を探してて」
「そう、だったんだ。ごめんね。立てる?」
かっこ悪いのはいまさらだ。少女の小さく冷たい手を借りて立ち上がった。
「もうみんな集まっているの?」
「ううん、でも、スティフはリアと一緒だろうしシュトルはかくれんぼしてないかぎりすぐ見つかるから」
「そうなんだ、じゃあ、少し急ごうか」
「き、君は」
「大丈夫だよ。今日はちょっとアルの機嫌が悪いだけだから」
「でも」
繋いだままの手に力が籠められる。
先ほどと同様、若干見上げられるような姿勢で、女の子の言葉を聞く。
「博士たちには言わないでね、絶対。約束して」
「……わかった」
「ありがとう、ラース」
お願いされて、同じ言葉を言ったら、同じ顔で同じ言葉が返された。
この日からまもなく行われた最終実験の最中、最期に聞いたのも誰かの「ありがとう」だった。
かっこ悪さと後味の悪さ。加えて、後悔、苦痛、憎悪……いろいろな嫌な記憶を呼び起こすきっかけになり得る言葉。それが、彼にとっての感謝の言葉だった。




