おもしろい職場
アエラース商会新聞部門の〝疾風に聴け〟に所属するエイトスは、人生最大級の混乱に見舞われていると自覚した。学生時代の友人であり王城の文官として勤めるティルクーリの首に腕を回して連れ去らんごとく退室した。直前、「わたくしの執務室を使いなさい。扉を閉めれば音は聞こえない」可憐な少女の声は威厳を纏おうとしているのか無理に低く発声された。エイトスは、友人が上司へ礼を言うが早いか遅いか、ひとまず扉の向こうへ出た。
面接室から退室したふたりは、ほかの室員たちの遠慮がちな視線を受けながら情報官の執務室へ駆けこんだ。うざったいのを隠さずティルクーリはエイトスの腕を引き離した。
「バカ面晒すなよ、同類だと思われたら困るんだけど」
「アエネアス!! なんだよっ、あの美少女は?! 聞いてない!」
「言ったら面倒だからだよ」
「ティルクーリ、扉」シリルの端的な注意に元気よく返事をして、おそるおそる音をたてないように扉を閉めた。そっと握り手から離れて友人に向きなおる。
「つーか、情報官の要請ってのは言ったろ? 俺の勤務先も知ってんだから内容は」
「だって、市井では伯爵様の写真なんて出回って無い! もはや妖精として認識されてるって言っても過言じゃないのはわかってるだろ?! 明らかに後光がさしてたよ? どんな原理??」
「あー……ご自覚ないからなー、あの人」
視線をどこか虚空に任せて回顧するようにつぶやく。情報調査室着任からおよそ8か月――活躍を風に聞いていた紅一点メロディ・ヒストリアの部下になるよう下命された日から今日まで――学生時代から優秀さを自負していた世界の狭さを、年下の少女に思い知らされるばかりだった。悪循環に陥りかねないが、上を目指せる好環境にもなり得る。だからこそ、まだ格好つけていたい。「はぁ?! むしろご本人が輝いていらしたし! 何、ここ、どこ? 〝天空城〟? 今ならよゆーで信じるけど?!」ティルクーリは荒ぶる友人に、着任早々うろたえる自分の姿を重ねた。
「いや、マジでわかんない。一応、地上だと思ってる。あとさ、お前、だいぶ慌ててるけどさ、ちなみに、俺だって配属されて毎日死にかけてるから。使えないと思われたら終わりだからな? わかる? 前触れもなく話しかけられたときの終わり具合、伝わる?」
「え、なんで生きてんの?」
「同じ境遇のやつらがあとふたりいるから」
「仲間って大切だね」
「そう。マジで、そう」
労わるように友人の肩に手を乗せていたエイトスだったが、不意にあることに気がついてしまった。
「おい待て、テメェ俺のこと生贄に捧げたんか?」
半笑いで「故意じゃないよ?」と言う友人の胸倉をつかむ。
「クソが、その頭には愚者の石詰まってんのか? あ?」
ちょうどそこへ補佐官が顔を見せた。扉を閉めていたため、外部にほとんど声は聞こえない。情報官の予定として今は新聞社から呼んだ参考人と面接室で話していると認識していたらしい彼は、少々驚きを見せたものの、間もなく普段の飄々とした言動に戻っていた。
「おっと、失礼ー? 書類、置いてっても?」
両手に抱えた資料を軽く持ち上げてみせる。ティルクーリはエイトスの腕を掴んで壁際に履けながら「すみません、どうぞ」と頭を下げた。
「彼、この前の〝φ〟で言ってた友人くん?」
「はい」
「ははっ、めっちゃ仲良いね。親友ってやつ?」
「えっと、ええ、はい。腐れ縁です」
「はじめまして、トゥーリ出版より参りましたセバスティアン・エイトスです」
「ははっ、すっげー。やっぱアエラースさんは新人教育行き届いてんねぇ。ああ、そっか。ちゃんと自己紹介するよ」
資料をソファー前のローテーブルに乗せると、表情を引き締めた。
「本官は、ビオン・ローガニス補佐官であります。どうぞ、お見知りおきいただければ幸甚に存じます」
目を丸くするエイトスを前に、にやりと笑いかけて最敬礼を解く。
「新聞屋さんとは親しくしといたほうが仕事がしやすいんでね。そんな驚くとは思ってなかった、悪かったね。まあ、とにかく、よろしく」
「は、はい! よろしくお願いします!」
同年代が見せるような人懐こい笑顔に、思わずエイトスは表情を緩ませた。
「ってことでさ。もうそろ戻ってあげな? うちのお嬢さん、容赦って言葉が辞書に……書いてはあるんだけど、なんか汚れてて読みにくいみたいだから。な?」
別にリュシュリュー記者に助け舟を出したかったわけではないが、さっさと追い出すには良い言い回しだった。口笛を吹いて讃えたい気分だ。
情報調査室から席を外している間、何が起こったか誰が何をしているか、組織が用意した諜報道具を用いて確認する。保存容量の関係で荒すぎるので満足して見れた映像ではないが、自分の記憶とも照らし合わせつつ、音声のおかげで面白い再現ができている。
内容を記憶に刻みこみ、映像も音声も抹消した。保存できる時間と量の制限が厳しいのだ。
ひとりになれる場所で進めたほうが怪しまれない作業も多いが、外出時間を最小限にするためには他に選択肢は無い。そのためのビオン・ローガニスという人格作りはなかなか難しかったが、幸い、参考にできる人物はメロディ・ヒストリアの周囲に複数人いた。新しい人格の創造は、少なくともメロディに気づかれないようにするためでもあったため、好条件だった。
ちなみに、今回の外出によって手に入れたのは、ひとつの論文の写本だった。
【第6次大戦期エゼラフェル地域における未成年者強制徴兵計略に関する旧ピサラ王国の対処】ヴォルフラム・ローゼンシュティール
法務省情報調査室の6名分の写書が用意できたと連絡を受けて、城内の使用人に任せるには内容と活用範囲が繊細だったため、補佐官直々に取りに行った。
春麗祭からまもなく、迅速な対応である。おそらく畏敬を集めてやまない〝氷柱の白百合〟直々の依頼を受けた文官が張り切ったのだ。彼の目のクマは濃かった。それなりに厚さのある論文を、自らの職務の合間に6人分写書してみせる手腕は見事だ。しかし、白百合からの感謝を仲間に譲らず独り占めしようと画策した挙句、体調を崩されてはかなわない。
ローガニスはその文官に「見事な仕事だが、白百合殿は無茶を嫌っていらっしゃるんだぜ?」と忠告してやった。
他方、うら若き情報官の情報収集能力には驚かされた。大陸学術機関には毎年あらゆる分野について各国からすべての論文が提出される。その数は4桁にも上る年すらあり、累計となると一生かけてもすべては読み切れないほどの量だろう。そこから「15語の題名」かつ「11世紀末の皇国の軍事政策を批判するもの」など紙に零したインクに滲んだ文字を読むよりも困難なのは想像に難くない。また、学者は単語数を考えて論文に題をつけないし、かつての大戦時の軍事批判に関する論文など枚挙にいとまがない。
(ヴァネッサ、ヴィレミーナ……いやぁ、「ヴォルフラム」を女性名と間違えるのは無理だ。そもそも著者は男性であり名前も中性的ですらない。内容を満たす論文をひとつずつ確認したにしては閣下の申請は早すぎる。自分で探すと心に決めていらしたにしては情報を与えた意味がわからないし、開示情報が曖昧過ぎる)
ヴォルフラム・ローゼンシュティールという名は歴史の教科書の端に載っている。論文に目を通して、15語の題名ウンヌンよりも、記憶に残りやすい名前のはずだ。政治に敗れて部下に暗殺された高級情報将官だと後世に伝わっている、ユーグルート共和国が王国だったころの軍人だ。およそ名誉ある最期とは言えないが、かの軍人の名がダクティーリオス王国でもよく知られている。当人が軍務関連の論文執筆に旺盛だったことに加えて、我らが英雄ザラスシュトル・オヴィ伝説に登場する友人のひとりだからである。
(あの人の頭の中がわかったら何も苦労しないか)
資料片手に歩みを進めた。
情報調査室の職務室では、シリルを含む室員たちが情報官のメロディの周囲を固めるように何かを話し合っていた。〝φファイ〟を除けば皆無であるその光景の中に「どうされましたかー?」何も臆せず足を踏み入れた。
「話を聞いていた」
「それだけにしてはティルクーリが泣きそうですけど」
「泣いてません!」
後輩を揶揄おうと言葉を続けようとしたが、シリルに腕を引かれて耳打ちされる。いわく「二重帳簿の説明がうまくいかない。そもそも教えて問題ないか俺らには判断できない」すっかり眉根を顰めていた。
「なんで?」
「知らないなら知らないまま無縁で構わないだろう? それに、この仕事を知らなければ知らずにいたわけだし」
「娘に重ねすぎ」
「それは、認める」
「珍しく素直だな。だいたい、犯罪捜査陣が誇る頭脳が二重帳簿を知らないってマジかよ」
「その類の犯罪はいままでお前がすべて捌いていただろう?」
「サボりじゃないって。後輩を育てるためだ」
「お前の認識がどうにしても、閣下の目には触れてなかったんだよ。で、今回はティルクーリがまとめたからこうなったわけだ」
「じゃー、あれか? 教えたくないティルクーリ、知りたい閣下が対立してるってこと?」
「ああ。問題は、俺も教えて良いのかわからないんだ」
「それは、マジでなぜ?」
「貴族うんぬんの話がマジで無理」
「あー……」
王国に国籍を置きながら不思議な主張だが、シリルの過去を知る身としてローガニスは納得せざるを得なかった。
このままでは仕事にならない。ならば教えてしまったほうがはやいだろう。判断は早かった。ティルクーリとメロディの手から資料を抜き取り、目を通すふりをした。
「あー……二重帳簿が、この事件の根幹を成して痛みたいっすね」
「二重帳簿……?」
「情報官殿はつけたことありませんか」
「帳簿と言うことは金銭管理だろう? わたくしはひとつしかつけてない」
「ひとつだけでよろしいんですよ、本来は」
ローガニスはふたつの帳簿をゆっくりめくりながら見せていく。
「なぜ複数の帳簿を…………――っ?」
内容を検めていくと、ある記録に紫水晶が留まる。
「隠したいことがあるんじゃあないですか?」
「書かれていることに相違があるのだな。しかし、面倒ではないか?」
「犯罪なんて大概はそうでしょう」
「利点が無い」
「申し上げたでしょう、隠したいことがあるんだと」
「なぜ?」
「悪いことをしている自覚があったのでは?」
「では、裁判で証言する際、意図していたことも反逆の思考が存在したことも明言して構わないんだな?」
(ああ、そうか。)
ようやく上司の求めるところを理解した。〝白百合の献身〟から数カ月もすれば、法務関連の仕事に就く者たちの間でメロディ・ヒストリアを子どもだと見る者は非常に少数派になっていた。その延長で、情報官は裁判で検察側の証人として証言台に立たされることが増えた。
不安を見せたら敗北も同然だと思い込んでいる少女は、当該事件を完璧に把握しようと試みる。
「そうですね。書きかた次第ではただの写本を作成する際のミスの可能性もありますが、証拠品を拝見するかぎり、まあ、しっかりと元気に散財してますからねー」
自分で作った人格から外れない範囲で、この二重帳簿の作成者を全力でこき下ろした。