彼の日常
ある夕刻。シリル宅に来客があった。同僚ローガニスと、その息子である。
一家は玄関先でふたりを出迎えた。
父親らしく「ほら、ルーク。自己紹介」と促す。
「はじめまして。ルクレティウスと申します。いつも父がお世話になっております」
「こら」
親子のやり取りを諧謔と受け取ったシリルは笑みを見せて家族を紹介する。
「私はディスマス・シリル。妻のガラテア、娘のマヤだ。よろしく」
「どうぞよろしくおねがいします」
ルークは丁寧に辞儀をした。
家長は客を招き入れる。ガラテアはローガニスと面識がある。軽く挨拶を交わすと、ルークに尋ねた。
「学生さんかしら?」
「はい、王立学園に通っています。今は3年生です」
「あら。もうすぐ夏季休暇ね。カルディアは?」
「伝統武術と植物栽培です」
「掛け持ちしているの?」
「はい。どちらも捨てがたくて……幸い、活動日に重複がありませんから」
「努力家さんなのね」
ガラテアは朗らかに笑った。ルークは「いえ、そんなことは」否定しようとするが、父に「誉め言葉くらい素直に受け取りなさい」と髪をかき混ぜられた。
15歳の誕生日を迎えて日は浅いが、子ども扱いに不満はある。睨みはしないものの面白くない気分を込めた眼差しを向けながら手櫛で髪を整える。
ローガニスは両手を上げて退散しつつ、シリルとともにふたりから距離をとった。
それまで良い子に我慢していたマヤは「ビオン! 遊んで!」と足元にまとわりつく。シリルは抱き上げながら「マヤ。こんなやつ、おじさん呼びで十分だ」娘を窘めた。
「言葉遣いに気をつけろー。娘が将来、こんなやつ、なんて言ってきたらお前死ぬぞ?」
否定できないシリルは口をつぐんだ。それに満足して「ルーク」息子を呼び寄せる。夫人に一礼してから駆け寄ってきた彼に「マヤ嬢の相手を頼む」と言いつけた。
「はい、父上」
礼節をわきまえた返事をする。幼い少女に優しい笑みを見せて「何して遊ぼうか?」と尋ねるが、彼女は父親の首に抱きついて何も言わなかった。
「残念、子ども相手に胡散臭い笑顔は通用しなかったな」
自覚はあったのか、ルークは若干うつむいた。助け舟としてシリルは「大丈夫。ビオンよりまともだ」と言いながら娘を床に降ろした。「おい」という声は無視する。
「ほら、向こうで遊んでおいで。お気に入りの絵本もあるだろう?」
「でもぉ……パパも一緒が良い」
「パパもマヤと一緒が良いけれど、すこーし大切なお話があるんだ。今日の夜、とっておきのお話を教えてあげるから。それで許してくれる?」
「ほんとっ? 絶対?」
「ああ。約束する」
「わかった、パパ大好き!」
急に胸を抑えて蹲ったシリルのそばにルークは膝をついた。
「心臓、悪いんですか?」
「心臓じゃない、頭。ほら、マヤ嬢の相手」
が、父に雑な追い払われかたをされた。釈然としないながらも離れたところからマヤに「見て! お誕生日に買ってもらったの!」大きな絵本を抱える彼女に呼ばれて駆けて行った。
そちらへ手を振りながら「とっておき?」と尋ねた。
「セレーネ・カルナの童話を諳んじているに過ぎない」
「文豪の言葉なら間違いない」
笑われたことに対して「息子はお前には似なかったんだな」意趣返しのように言ってやった。ローガニスは何でもないことのように「ほんと助かるよ」と肩をすくめた。
シリルは壁に手をついて立ち上がり「それで、その書類は」ローガニスの右手の資料を指摘した。
すると、ガラテアは「あら。仕事の話ですか?」テーブルの用意を進めながら猜疑の視線を向ける。
「5分だけ……」
「わかりました。お食事の用意は進めてしまいますからね。冷めても知りませんよ?」
「かっ、必ず10分以内には終わる」
シリルはローガニスに詰め寄り、「3分で終わらせろ」とだけ告げた。
「承知しましたーぁ。っつっても、まあ、重要なのはふたつだけ。お前なら読めばわかるだろ。資料は焼却でよろしく」
「面倒くさがるな」
「信頼だよ。喜べ。ほら、15秒」
資料を棚に入れて鍵を掛けると、放流された魚のように、シリルは妻の手伝いを始めた。
(客人が手伝うのも失礼に当たりかねない……いや、邪魔されたくないか)
続いて、息子役として連れてきた少年のほうへ視線を投げる――慣れていないふりが非常に自然だ。訓練した甲斐があったというものである。
ディスマス・シリルという男は長らく憲兵局にて犯罪捜査に関わって来た。違和感に対する嗅覚は非常に鋭い。気をつけるべきだと早期に認識していた。おかげで、いまのところは問題ないらしい。引き続き留意せねばならないことに変わりないが安堵はあった。
同じ部署についておよそ8カ月が経過する。従来の法務省情報調査室は、北方に位置する犯罪資料館へ納めるための資料作りを専らとした職務とは名ばかりの貴族の子女が部下を持つにあたり心構えをしたり指示の練習をしたりするための部署だった。だからこそ、命令系統としては法務省の他部署から完全に独立した、良く言えば法務省長直轄の遊撃隊、隠さず言えば城内では閑職あるいは左遷のような扱いだった。
事例が下りたときは楽勝だと高をくくっていたローガニスだった。しかし、長についたメロディ・ヒストリアはそれで満足する性質ではなかった。改革に次ぐ改革によって認識改善や現場との意思疎通を適え、当人は知らないだろうが、今年の〝六将星〟候補に挙げられるまでに名を馳せた。
たった15歳の少女が自らの努力によって作り上げた理想。必要もないのに余計なことをして壊すのはさすがに良心が声を上げてしまう。
本来の組織から下された命令も「壊せ」ではなく「来たるその日まで守れ」だ。他方、勝手に死地へ飛び込んでしまいかねない少女を物理的に守っていたはずが、いつの間にか周囲へ働きかけて環境を整えるよう気を回してしまうのは、すでに心を掌握されているからだと自覚していた。そのほうが自分には都合が良いことも、理解していた。
ガラテアの料理に舌鼓を打ち、食後を堪能した。マヤの「おやすみなさいの時間」が近くなり、ローガニスとルークは暇を告げることにした。
その際、マヤがルークに「帰らないで」とワガママを言ったとき――母は微笑ましそうに「あらあら」と頬に手を当てて、父はなんともいえない表情をふたりに向けていた――両親の反応はまるっきり異なっていて、それがシリル夫婦らしくて、思わず笑った。
助手席に乗せたルークに「お疲れ。悪くなかったよ」と、労う。
「ありがとうございます」
「欲を言えば、もう少し、なんだろう……慇懃無礼でも良かった。最初の挨拶は完璧だった。食事中もあれくらい言ってくれればなお良い。演技が表面的なのは修正できているからその調子で頼む」
「はい、ありがとうございます。ちなみに、どこが気になりましたか?」
「表情、語尾。あと、相手の目を見ろ。シリル相手だと、見せないと邪推されやすい。〝ビオン・ローガニスの息子〟を演じるなら、な。ほかの役だったら、君が解釈したとおりで構わないけれど。今回、俺に少し臆しただろ?」
「……はい」
「自覚しているなら良いよ。次回は期待する」
「ありがとうございます」
少年の笑みを見て、自分も後輩を育てる立場になったのだと身に染みる。似合わないのも自覚している。
「マヤ嬢はどうだった?」
「良い子だと思います。訓練生たちよりもよほど素直で愛らしい子でした」
「君は彼らとも仲良いじゃないか」
「嫌ですよあんな生意気で悪戯ばかりするクソガキども」
本心では無いと、表情からも口調からもあふれてしまっている。成長途中の年相応の反応だ……それができるなら、この環境には向かない……10年以上前から揺るがない個人の見解だった。
彼が組織に所属したのは7歳の誕生日の数日後。いまではその日付を正確には覚えていないが、大好きな両親とかわいい弟妹に「おめでとう」とたくさん言ってもらって、ずっと欲しかった書籍とおいしい食事をしたことは鮮明に覚えている。名前と一緒に捨てたはずだったが、その日のことだけは忘れられなかった。
これを、かつての相棒に話したら冷笑とともに「ひとつくらい幸せを知っておかねえと地獄か現実か判断できなくなっちまうからな」と肩をすくめた。年齢はあまり変わらないのに、見えているものが違うのだとわからされた。間もなく任務中に命を落とした相棒は地獄か現実か判断できていたのか否か、今もわからない。
故郷を追われてこの組織に拾われた。帰る場所も選択肢もほかには無かった。
仮に、ほかの人生を選べたら……後輩や年少者に、それを与えられるとしたら?
「そんなこと無いわ。わたくし、見る目はあるもの」
「でしたらなぜ私を補佐官にしていらっしゃるのでしょうね?」
「怠慢は魅力的よね。でも、職務を丁寧に行うのは、与えられた仕事に満足するからでしょう?」
赤い制服を身にまとい得意げな笑みを見せる少女は、まだ15歳。選ばざるを得なかった道を進む彼女は、それを理解しているのだろうか。今現在、これから先、いつか地獄と現実を判別しなければならなくなったとき、果たしてどちらを選べるのだろうか。
素が姿を現して何も言えずにいると、返答が無いのが不安になったのか上目遣いに主張する。
「本当よ、信じなさい。必要なことはわたくしが勝手に気づくから」
「少なくともそのあたりは疑っていませんよ」
(こちらは気づかれてはならない制約に悩みを抱えているのだから)
自嘲の笑みに混ぜれば――本心を理解されない安寧、志しを理解されない懊悩――自分でもどちらの意味を込めたのかわからなくなった。