物語の行方と悲恋の所在
数分すれば、いたたまれない雰囲気とメロディの熱が引いてきた。
ヴァシレイアはそのときを見計らって話題を提供した。
「さ、先ほどまでみなさま何をなさっていたのでしょうか?!」
軽く声が裏返ってしまったのはご愛敬。
意気込んでいるようにも見えるかわいらしい年下の少女を前に、メロディは気を取り直して、説明をする。
「研究のために、どのような実験をすべきか一緒に考えていたの。論理だけではなく、論証を客観視しやすくしたりほかの視点を受け入れやすくしたりするためには文字以外からも情報収集が必要なのですって」
「え。イリスさんがよく行われるような……?」不安そうに首をかしげると、すかさずイリスは「考えてたのは爆発しない内容だよ、安心して」と補足訂正した。ヴァシレイアは明らかに安堵のため息をついた。メロディから送られる猜疑の視線には気づかないふりを通した。
「メロディ様、フィリーから紹介された書籍は読まれましたか?」
イリスに非難の視線を送っていたら、自分にも非難され得る要素があると思い出した。メロディは言葉を詰まらせる。他方、ヴァシレイアは気にせず表情を綻ばせた。
「まだでしたら、まずは悲恋哀歌シリーズの『ネフェルティア皇妃』を是非!」
「それは、なぜ?」
「セレーネ・カルナの作品はどれも素敵なのですが、実験という意味合いでしたら『ネフェルティア皇妃』に登場する主人公が試した〝未来日誌〟を参考にするのはいかがかと存じます!」
「〝未来日誌〟?」
「物語は、敗戦によって敵国の皇帝へ嫁がねばならない王女ネフェルティアの視点で進められます。父王からは皇帝を籠絡せよと命じられるのですが、聡明なネフェルティアはすでに故国にはそれほどの力が無いと察しているため国民にこれ以上不利益を与えるわけにはいかないとそれを軽んじます。代わりに、少なくとも自分の心に嘘をつかないためどうすれば良いのか悩みます。結果……愛されなくても構いません、それでも私はあの御方を愛しましょう……彼女は哀しい結論にたどり着いてしまうのです」
解説が進むにつれて、ヴァシレイアの演技に拍車がかかる。名門貴族令嬢として心情が重ねやすい側面もあると理解できるが、12歳前後の少女の情操教育としては発展が過ぎるのではなかろうか……しかしながら舞台女優のような繊細かつ芯の通った口調を前に、誰も言葉を挟めない。基準として問題はあるが、もうすぐ16歳になるメロディすら後れを取っている。
「しかしネフェルティアはまだ初恋すら知りません。考え抜いた末に、自分の言葉を用いることで自らにとっては真実にできると思い至りました。まだ見ぬ未来を推測して、行動と感情を決定するために日誌をつけるのです」
「それが、〝未来日誌〟なのね?」
「ええ、はい。夫である皇帝とどのような関係になるのか、どのような言動をとるのか……それによって自らの感情がどのように遷移するのか……綴られる王女の痛切な心の内、次第にネフェルティアと心を通わせる皇帝の悲しい過去……実際に試行する現実軸との交差は、涙無くしては読み進められません」
「それがなんで悲しくて寂しい話になっちゃうの?」
「え?」
「悲恋哀歌って、そういうことじゃないの?」
「ああ、シリーズ名のことですか。ちゃんとフィリーに教えてもらいましたよ! 悲恋は恋愛に悲しい運命や苦悩を背負いながらもその恋に執着してしまう心情をさしていて、哀歌は悲しみの心を述べた歌のことです。このシリーズの一貫した主題として描かれているんですよ。『ネフェルティア皇妃』では、嘘で守れるものを真実として良いのかと苦悩しながらなおも〝日誌の内容〟に縋ってしまう彼女の心がよく表現されています」
メロディはすかさず用語一覧の、〝執着〟の隣に〝悲恋(悲恋哀歌)〟と書き入れた。
「セレーネ・カルナは古典小説の大家のひとりに数えられます。現在にも通じる繊細な筆致によって描かれる物語には、実際に体験させられているかのような感覚さえ与えられます。悲劇か喜劇かは作品によりますが」
先日ミハエルが軽く説明してくれた内容を踏まえて、恋愛の複雑さを思い知るメロディだった。
同時に、スタシア・フラナリーのことを思い出した。
「どうされましたか?」
「今日はスタシア様からたくさん話を伺ったから、思い出してしまって」
「スタシア様の悲恋ですか?」
「……知っているの?」
「ええ、まあ……祖父が酔うと話しています。先代フラナリー伯爵の早逝がなければほかの選択肢があったのではないかと」
繊細な話を喧伝するような子では無いと信頼して、メロディは思考整理の相手をヴァシレイアに務めてもらうことにした。
「婚姻法では近親者において4等親以上であれば婚姻は可能でしょう? わたくしも祖父の縁で、当代デメテール伯爵の末子との縁談があったと聞いたことがある」
「え? あっ、えっと、諸外国を放浪なさっているという、えっと……」
「カリオフィリス殿。年齢が倍近く離れていたこともあったしヒストリア伯爵位を継ぐのはわたくしでなければならなかったから、両者の負担が考慮されてすぐ流れたそうだけれどね。つまり、わたくしの大叔父のご子息であるカリオフィリス殿は5等親。婚姻について法律上は問題なく、当時はあり得る可能性のひとつだったのよ」
「あれ……? 当代フラナリー伯爵閣下は、メテオロス公爵家ご出身ですよね? ですから、当代メテオロス公爵閣下とスタシア様は3等親ではありませんか?」
「〝西方の悲劇〟によって、防衛の要を担ってきた当代メテオロス公爵とその長男が亡くなったでしょう。それに加えて、もうひとりの直系である次男ヴィクトルは早逝した先代に代わってフラナリー伯爵位を継いでいた。ゆえに、公爵家断絶を回避するためにリトラ子爵家の次男だったイオエル殿に白羽の矢が立てられたのよ。先代公テオドール殿の妹がリトラ子爵家に嫁いでいたから」
「あっ。リトラ子爵は」
「そう、ミハエルのことよ。メテオロス公爵の実兄だもの、彼も見事な腕前」
「英雄ザラスシュトル・オヴィの末裔といわれていますもんね、リトラ子爵家は!」
「そうなの?」
「え。オヴィ資料館の所在、リトラ領ではありませんでしたか……?」
噛み合うようで噛み合わない会話に終止符を打たんと、メロディは話を纏めにかかった。
「ようするに、カリオフィリス殿とわたくし、イオエル殿とスタシア様は同様の条件下。双子令嬢のどちらかとイオエル殿の婚約の話題は存在したでしょう。おふたりは年齢が少し離れているけれど、カリオフィリス殿とわたくしの婚約が1度は俎上に挙げられたのだから可能性は捨てきれない。好意があるほうが裏切りも不和も防ぎやすい。フラナリー伯爵もイオエル殿も、それくらいはご承知の、はず……だけれど、そうね。どの時点でスタシア嬢がイオエル殿に好意を抱くようになったのかわからないからあくまでも推論の域を出ないわ」
「確かに。ザハリアス殿とスタシア様の婚約成立よりも後でしたら、スパティエ家との不和を望まないために悲恋を受け入れたかもしれません」
「ドルシア様がおっしゃっていたように、イードルレーテー公子とわたくしの婚約が解消されることで不和の生じない婚約解消が可能だと存じたでしょう。そうなると、スタシア様の選択肢は――このままザハリアス殿との婚約を受け入れるか、新たにイオエル殿との婚約を結ぼうと奔走するか――どうなさるのかしらね」
「どうなのでしょう……ザハリアス殿とスタシア嬢との不仲は聞きませんが、同時に熱愛も聞きません。それに、メテオロス公爵閣下の意図もわかりません」
「そうね。貴族は、殊に次期当主は学園を卒業すれば婚姻を結んで後継を考える……婚姻法とは反対に、こちらは3等親以内でなければ認められないから直系から選ぶのが最も楽な選択。黄道12議席において現状、未婚はメテオロス公爵とわたくしのみ。わたくしはともかく、イオエル殿は独身を貫いて後継には養子をとることを表明しているわ」
「確か、1650年後半のお生まれですよね? 婚姻を諦めるには早いように思います」
「彼の年齢まで、よく知っているわね」
「あ、いえ。公爵閣下は〝西方の悲劇〟では唯一学生でありながら遠征に参加されましたから。軍法にて14歳以上でなければあらゆる軍事作戦への参加が禁じられていますし1674年7月時点で18歳未満ということは……そうなりませんか?」
「ええ、なるわね。だから、なおさら不思議。命の危機は身に染みていたはずよ――味方はほぼ全滅、右手が義肢になるほどの切迫した環境下に置かれたのだから。子爵家次男から黄道貴族当主になられて立場は大きく変化した。後継者についても焦燥がなかったとは考えられないわ。本人に直接伺うわけにもいかないから、この先は保留ね」
書いて間もない〝悲恋(悲恋哀歌)〟を指先でなぞり、インクが渇いたことを確認しながら言った。不意にヴァシレイアが「もしも〝悲劇〟がなかったら、どうなっていたのでしょう」頼りなく独り言ちる。
「新緑祭で配布される死亡者連名簿も付属の解説書も、なかったのでしょうか」硬く握りしめた両手を見つめながら言葉を続けた。「誰も死んでいなかったらってこと?」イリスが尋ねると、首肯した。
「今を生きるわたくしたちが彼らを誇らずしてどうするの」
話題を断ち切るように、メロディは断じる。
「わたくしの祖父母だけではないわ。あの悲劇に居合わせた者たちは、戦い抜いたのよ。戦う価値があると確信したために、その身を震わせる恐怖や混乱を抑えて最善を尽くした――その結果を文字の上からなぞって憐れむのは無礼だわ」
イリスがのんびり「にゃーい」と返事をする一方、ヴァシレイアは短く息を飲んだ。
主人は弱冠16歳、自分と5つも変わらない、少女の時分である。他方、どれほど時間が経過しても同じように思考できる自信は微塵も無い。
「〝悲劇〟に見舞われた方々の中にも、悲しい恋は存在したのでしょうね」
代わりに、ヴァシレイアは誤魔化すように小さくつぶやいた。




