休憩と贈りものの認識
「実験ということは、何か具体的なことを試みるのよね?」
「そーだね。ちゃんと想定通りに動くかなーとか、ある条件下ではどうなるかなーとか! 仮説から何が導かれるのか、わかっていてもわかっていなくても、ただ確かめるってことがしたいからねー!」
「ならば、わたくしはカリス卿に協力を求める必要があるわね」
「うんっ、そのほうが実験の幅が広がる!」
メロディ、イリス、オルトの3人で、どのような実験が適しているか話し合っていると扉のノックが聞こえてきた。「お飲み物をお持ちしました」声で誰がやって来たか把握したイリスは扉を開けに行った。
「おまたせいたしました」
給仕台とともに姿を現したのはヴァシレイアひとりだった。もうすぐ行儀見習い期間を終える彼女のため、ヘレンやフィリーが気を使ってくれたのかもしれない。メロディは努めて笑みを浮かべた。
ヴァシレイアは室内にオルトの姿を認めると「ご一緒だったんですね」と微笑んだ。ただ、カップを3つ用意しているところを見るに、予想はしていたのだろう。
「夜遅くにごめんなさい。ありがとう、ヴァシレイア」
「お気になさらないでください。ただいまご用意します」
オルトが自分には不要だと仕草で示すとヴァシレイアはひとつうなずき、カップをふたつだけひっくり返した。鼻歌とともにミルクポットを円柱型の台に乗せた。イリスがそれに合わせて歌いはじめる。すると、何度か聞いたことがある歌だったのか、つられて行儀見習いの少女も口ずさむ。
ぱちぱち ほのおと おなべさん
くつくつ ミルクを あたためて
ぽこぽこ させない ようにする
あらあら あぶない ふきこぼれ
ぷくぷく あわあわ かわいいな
ぬくぬく みんなも あたたかい
ふるふる ゆきさん まいおりる
ぽかぽか おひさま またあした
ふかふか おちばは たのしいな
しんしん つもるよ おもいでが
さくさく あせらず きをつけて
ほかほか ミルクが まっている
ダクティーリオス王国の第一言語や準大陸統一言語の発音に近く、そもそも難しい単語が使われていないため、歌詞を知らないメロディにもある程度は聞き取れる。
加えて、なんだか両足を交互に揺らしたいリズムだった。
最後まで歌い終わるころ、温かなミルクがカップに注がれて差し出された。
「おもしろい歌ね」
「すみません、お読みになられているところでしたのに」
「問題ないわ。わたくしはヴァシレイアの鼻歌も歌唱も好きですもの」
「ほ、本当ですかっ?」
「ええ。楽しくなったり嬉しくなったり……色々な体験をさせてくれるから。この歌はどこの地方のものかしら。発音に特徴があったように聞こえたけれど」
ヴァシレイアは少し考えたが思い至らず、イリスに視線で意見を求めた。
「どこだか覚えてにゃい☆」
「方言でいうと、きっとペークシス領のほうではありませんか? 母音の音が飛んでたり弱かったりしてましたから」
「あー、確かに! 北っぽいかもねー」
地理はわかるメロディだが、関係性の把握は未熟だった。ふたりの会話に「ならば、北東部かしら。ユーホルトのほう?」自分の知り得る、なおかつ、必要な情報を放りこんだ。
「いえ。ユーホルトはどちらかというと西寄りですから、この訛りかたはもっと東ですよ。レーヘンラント帝国のほうです」
ヴァシレイアが答えた。「詳しいのね」メロディが褒めると「姉が、卒業研究で言語について相違と発展を取り扱っていて、それで……」恥じらいの笑みを見せた。
「相違といえば、ねえ、巫女の名前は知っている?」
突然の話題変換に戸惑いを見せるヴァシレイアに、オルトは「バシレイアとヴァシレイア」端的に補足した。それで疑問点を把握したらしく、「最初の文字が違うんです」と続ける。
「一番最初の文字が、わたしはΒで、巫女はFです。以降の綴りはまったく同じですので、発音は、わたしはヴァシレイア、巫女はバシレイアになります」
「そうなの。ありがとう、わかりやすいわ」
「いえ、小さいころ、兄が姉に聞いているのを耳にしただけです」
「ディアネイア嬢とプロソディアス令息よね? 春麗祭ではふたりを見かけなかったわ。わたくしが気づけなかっただけかしら」
「第二王子殿下が御参加される式典でしたから参じたはずです。ただ、姉は懐妊から日が浅いので無理を避けていたのだと思います。弟とその婚約者を自由にさせる代わりに両親は自分につきっきりだったと、姉からの手紙に書いてありました」
「そうなの」
「兄は……そうですね、兄なりに婚約者を気遣ったのだと思います。小柄な方ゆえ、とくに人混みが苦手だそうです」
メロディは春麗祭の様子を思い出して――遠巻きにしている派閥、積極的に挨拶を交わす派閥があり、後者のほうが多かった――納得した。加えて、自分とは異なる理由で式典や会合を苦手としている人もいるのだと知った。
「婚約者といえば、気になることと気にかかること、それぞれひとつずつあるの」
「婚約者様……?」
「ええ、カリス卿が説明してくださらないから」
控えめに首を傾げたられて、メロディは新しい婚約者へ憤慨したように見せる。他方、ヴァシレイアはアレクシオスのことではないと認識を改めた。
「か、カリス卿って……カリス公爵のご長男のことですよね?」
「ええ」
「……どのような方なのでしょうか」
何を気にしているのか――彼女が行儀見習いとして勤め始めたころオルトを前に泣き出してしまった件を思い出して――すぐにわかった。
優美な貴公子と噂で聞いていても、父親はあのカリス公爵……不機嫌でなくとも強面で現役軍人さえ怯えざるを得ない云々と聞こえてくる。とくに軍事の一角を担うムジーク伯爵家の令嬢ともなれば当代伯爵の交友の折、同じく軍務長官を務めるカリス公爵に面会する機会があっただろう。彼女の脳内でカリス卿の容姿が固まらないのだろうと容易に予想がついた。
「優しい方よ。ただ、人を揶揄うわ」
先入観を与えても仕方がない。自分の目で確かめてほしかった。それだけ答えて、話題を戻した。
「今日の職務終わりに、春1番の贈りものを交換したの。ああ、今朝、あなたたちにも行き届いたと思うのだけれど」
「はい、いただきました。装飾品、みんな喜んでいましたよ」
ヴァシレイアは花が綻ぶように笑った。「良かったわ」微笑みを浮かべて先を続ける。
「彼からは、琥珀のネックレスをもらった。そのとき、海を漂うと聞いたの。流れ着いてきた琥珀はカリス領の特産のひとつだと」
「カリス領は海辺を含みますから、そういうこともあるのではありませんか?」ヴァシレイアが疑問を呈した。
「琥珀は昔、樹液が固まったもの。だから、漂うには重いのではないかと思って」
ふたりの視線がイリスに向けられて、目を見開いた――水道の蛇口からイリスの指揮に従うような水流が、宙を漂う小さな水槽に導かれている――あるていど水槽が満たされると、手元の懐中時計を軽く握りしめた。
すると、水槽はイリスに抱きとめられた。先導を失った水流は、床に打ちつけられて水しぶきを上げた。かわいそうに、一部の資料が濡れた。ただ、当人は気にせずメロディとヴァシレイアの前の机に水槽を乗せた。
「琥珀の比重が1より小さいからだよー!」
「ひじゅう?」ヴァシレイアが首をかしげると「重さだと思ってて。基準の、1っていうのは水の重さね?」補足した。
「琥珀の純粋な比重は1より大きいんだけれど、実際は――」
オルトから受け取ったいくつかの固体を、一度に水槽へ入れた。固体は、黒く艶やかなものと銀の光沢をもつもののふたつは底へたどり着いて小さな音を立てたが、蜂蜜色をしたひとつは水面に浮かんだ。
「――固まるときに気泡や不純物が混ざるから、一般的に1より小さくなりやすいの! 海水だと、1よりもほんの少し比重が重い。琥珀は1より小さい。だから、海水に石を落とせば沈むけれど琥珀は浮かぶ。そーゆー仕組みだよ」
「どれも硬くて石のようだけれど、違う性質を持つのね」メロディは水槽の中を見つめながら言った。
「完全に自然由来の有機物だからね。鉱物じゃないもん」
「そう。……宝飾品に興味があるの?」
「んにゃ? これ? 実験用だよー。静電気、琥珀は正の電荷を持ちやすいの!」
イリスは水面に浮かんだ琥珀を人差し指でつつきながら答えた。
「それで、気にかかることって? こっちは気になることでしょ?」
「ええ。わたくしは彼にネクタイピンを贈ったの。蒼玉の飾りがついたものを選んだわ、質素でも華美でもなければ使いやすいと思って。彼の瞳の色で、なおかつ、古くから守護の効果が信じられて〝福音の舞〟の衣装装飾にも用いられているから。意図を聞かれてそれを答えたの。そしたら、彼、それだけですか、とおっしゃるの。からかわれていることは察したけれど、なぜなのか結局は教えてくれなかった」
「えー、なんでだろーねー。別に変なプレゼントじゃないでしょ? センスも悪くないと思うけど」
「そうよね? 不適ならヘレンやフィリーが止めてくれるもの」
ふたりで困惑していると、隣でヴァシレイアがうずうずしていることに気づいた。話を振ってみると
「は、花言葉はご存じですよね?」
「ええ。けれど、わたくしが贈ったのは花ではなくネクタイピンよ?」
「宝石がはめられた、ネクタイピンです!」
修飾部が強調されてメロディは居住まいを正した。これから本質が話されると直感した。
「蒼玉ということは、青い宝石ですよね?」
「ええ。深い海の色、ちゃんとカリス卿の瞳の色と似ているものを選んだわ」
「青って言っても幅が広いというか、なんかたくさんあるよねー」
イリスがのんびり意見すると、ヴァシレイアは熱がこもった声色とともに意気込んだ。
「そうです、そして! 蒼玉の語源はアスターシュ文字でサファイアのことを指しています、イリス!」
「え、あ、そうなの? ん? 青って、名前と意味そのまま過ぎない? あれ? あー……なるほどね?」
呆れたような口調。語源と言語を聞いただけでヴァシレイアが言わんとしていることを把握してしまったらしい。が、メロディにはまだ意味が掴み切れていない。
「アスターシュ文字は……ラノンレイヴ公国の、王国時代の言語だったかしら」
「そっ。エルンスト・シィの生まれ故郷だし、機械工学の聖地だから、あたしも真面目に勉強したの!」
嬉しそうに言うと、そのまま解説役を引き継いだ。
「コランダムだから、結構使いやすい素材なんだけどー、んーっとねぇ……貞操を守るとか誠実って意味だったり、神とともにある石だったりとか言われるんだけどー……まあ、率直に言うと、結婚式とかでもよく採用されるよね」
「……?」
「宇宙の話はしてないよ?」
「わかっているけれど、なぜ結婚式が話題に出てきたのかわからなくて」
「宝石にも、花言葉のように、宝石言葉というものがあります。さきほどイリスが言った、貞操、誠実とともに一途な思いが主に挙げられます。な、ので……その……」
「メル、貞操ってわかる?」
「それは……ええ、わかる」
「つまりね、蒼玉を贈るってことは――貞操をあなたに捧げます――ってこと」
「………………………………………………」
長い長い沈黙。
やがて顔を真っ赤にしたメロディが勢いよく立ち上がった。
「ヒストリア家の当主としては何も間違った選択をしていないわよ?!」
ヴァシレイアは居たたまれず両手で首筋を冷やし、イリスは「そうだねー、正しいねー」と生暖かい笑みとともにティーカップを傾けていた。真実の愛を研究すると言いながらこの無知と初心はどうしたものだろう……思っていても口に出さないだけ良心的だ。
あらゆるものに精霊や妖精が宿ると信じて人間が備えるべき精神を育む文化ゆえに、物と言葉が密接――これが万物への誓いが成立し得る由縁であり、ダクティーリオス王国の根底を貫く信条である。
軽んじたわけでなかろうと、意味や意図を把握していないのはもはや怠慢と同義……メロディは深く反省し、贈りものは見た目だけでなく内含される意味や意図を把握してから選定すると固く心に誓った。