研究と〝天才の懸念〟
イリスの疑問をおいてきぼりにしつつ、メロディはあの日のことについて書かれた紙面を眺める。
【Λόγια=言葉】
真実の愛を貫かせてほしい
☆
婚約を解消する必要、望んでいるのか
→大変申し訳なく思っている
→お気になさらずに
君らしいと思った・・・誉め言葉?
→好きに受け取ってほしい。普通の令嬢は怒ったり倒れたりする
→ヒストリア伯爵に望むのか
君は優しすぎる
→昔誘ってくださった観劇みたいに怒鳴ってみた
→そういうところだと笑われた、殴っても構わない
→ご冗談。休憩時間に職務へ悪影響を与えたくないわ
こんなだから、嫌になったの?
→嫌いにはなっていない。大切に思っている。でも、アナは……別の意味で、特別☆
彼女をお守りしたい。必ず、幸せになってほしい。絶対に幸せになるべき方だから
そういうものだから、どうして願わずにはいられようか
→とても素敵ね
☆
お体に障りますよ
長居の意図はございません。どうぞそのまま、立ち去って忘れてはくださいませんか
申し訳ないが、こういう性質です。返却不要、扱いは任せます
【Πράγμα=行動】
執務室を訪れた彼を招き入れた→目が合わない、うつむいてばかり
「真実の愛を貫きたい」
→天上を見上げたり、見つめたりした
☆
いつもの会話にしようとした→できなかった
執務室に彼をひとり残して退室→奥の庭園へ
誰もいなかったから子守唄を口ずさんだ
どなたかいらしたから静かにした
☆
ハンカチを受けとった・・・知らない方、男性
涙の跡を布巾で拭ってから執務室に戻った
補佐官には詳細を話さなかった、ごまかした→後日、話した。お菓子をもらった
彼が退室前に暖房をつけてくださった→快適だった
押し花の栞(イーリオスティア、白い花弁の花)を机に残された
上着を畳んでおいてくださった
休憩時間終了の鐘→職務に戻った
【Δόξα=考え】
☆愛を優先したいと望まれている、その相手はわたくしではない
→破談は避けられない
邪魔をしたくない
経緯は少し気になる
泣いたら困らせる、構われる
→室員たちに見られたくない、ひとりになりたい
悪意はない、守りたい存在≠わたくし
嫌いにはなっていない→もっと大切にしたい方がいる
→わたくし、そちらの方どちらにも誠実であろうとされた
→婚約解消の提案をするに至った
わたくしの対応は正しかった
忘れたい
海が見えない土地で船を用意すようとするのは愚者の所業だ
☆
置かれた場所で枯れたふりして強く根を伸ばせるように、心を切り替える必要がある
→真実の愛について、知りたい
→研究してみたい☆
【Συναισθήματα=気持ち】
突然聞かされて驚いた、どうすればいいかわからなくなった
もっとひどい方法なら嫌いになれるのに
嫌われたいなら真正面から嘘で適当なことを言えばよろしかったのに
嫌いだと言われたらもっと悲しかった、言われなくて良かった
☆彼を嫌になれそうにない
ひとりになれると思ったから来たのに、放っておいてほしい
うけとったら去ってくださるかしら
ハンカチのほうがシャツの袖口よりも泣いていたのが知られないかもしれない
☆
イーリオスティアは門出の意味
→意図が読めない、でも明言されていない
→好きに解釈できる
☆わからないからこそ知りたい
あれから10日以上経過した今もなお、考えと気持ちについて変化は思いつかなかった。
すぐ隣からイリスが紙面をのぞきこむ。
「たくさん星印描いたねー」
「いくつでも良いと言っていたから」
「へーぇ。【行動】のこれとか、なんで気になったの?」
「天上ではなくて、天井だと思ったから」
「え?」
「天上は、空のことでしょう? わたくしは室内にいたから、見上げたのは天井だったの」
「もしかして……印のところ、ぜんぶそういう気になった、だったりする?」
「いいえ、違うわ。これだけよ」
「じゃあ、ここ、横線引いて訂正しなよ。気になったのって綴りだけなんでしょ?」
イリスはメロディにペンを差し出しながら横目で説明不足を責めるようにオルトを見つめた。
「こ、の前……」
「そういえば」
オルトとメロディの声が重なった。ほぼ同時に話題を振ってしまったらしい。オルトはメロディに先を譲った。天井、と綴ってからペンを置いた。
「先ほど名前が出た、イーライ・トレイルというのはどなた?」
疑問に答えたのは、その名を出したイリスだった。
「ヤーティッコ博士と同じ時代の人だよ、トレイル博士が活躍したのは旧帝国。まあ、優れた人物はその死後に評価されるって言うでしょ? ふたりともその筆頭なんだけど……〝最期通帳〟って聞いたこと無い? あれもトレイル博士だよ」
「最後通牒とは違うの?」
「〝最期通帳〟は、〝最期通帳〟だよ」
「固有名詞?」
「うん、そう! 〝科学の夜〟のきっかけとして、トレイル博士が処刑される直前に大陸中の科学者たちへ投げつけた結論たちが〝最期通帳〟ってよばれてるの。結論だけが列挙されてるから未解明のものがたくさんある!」
「11世紀の方でしょう? いまは17世紀後半よ?」
「そっ! もう、なんというか、笑うしかないよねー! 虚偽だって言われてたこともあったけど、ひとつ、ふたつ、またひとつ……そんな感じで結論の正しさが証明され続けたからもう疑いようがなくなっちゃって。大陸学術機関も躍起になるしかなくて今に至るって感じ。600年近くかかっても誰もたどり着けない孤高の場所にいる――だからイーライ・トレイルは〝狂乱の天才〟って呼ばれてるんだよ!」
「途轍もなく、すごい方だったのね」
「そーだね。あらゆる学問の根底を整えたとも言われてくらいの人だから。もっと長く生きてたら時代を300年は進められたって」
11世紀まで断続的に大陸中を混乱に陥れた大戦によって時代は100年巻き戻ったと非難されている。イーライ・トレイルはその中で300年の時を進められる可能性を秘めていた――たったひとりの人物に掛けられる期待の大きさからはその能力への信頼が伺えた。「300年も……」メロディは思わずつぶやいた。
「とくに11世紀は激動の時代って言われてるからねー」
「そうなの? いえ、そうね。第6次大陸大戦の坩堝だもの。きっと今とは比類ないほどの混乱が大陸を襲ったのではないかしら」
「だねー。14世紀に大陸中南東諸国で事変とか反逆があったけれど、この300年はずっと平和でしょう?」
機械や技術に関わらない話をするイリスは新鮮だった。メロディは「歴史、好きだったのね」と微笑みかけた。
「そーかもねー、1年生のときに単位落としかけるくらいにはねーぇ」
「落としたら大変なの?」
「学生でいられる時間が長くなるかなぁ」
「学園が嫌いなの?」
「いや、んんっとねぇ、違うよ。そういうのじゃなくてね……メル、もし半年間ずっと逆立ちで歩き続けなければいけなくなったら、どう?」
「そ、それは、訓練として?」
「ううん、個人の趣味として」
「そうね。情報官になってから職務中の移動は少なくなったけれど、変わらず王城勤務だから邸宅との往復はしなければならないし、離れと本邸を行き来するのも逆立ちなのでしょう? 待って、そもそも長時間逆立ちしていたら頭に血が集まってすぐ体調を崩してしまうわ!」
「でしょー? 大変でしょー?」
「ええ、とても大変!」
あまりにも素直なメロディに若干の罪悪感を抱かされたイリスは、その後方から向けられているだろうオルトの視線を甘んじて受け続けることにした。
「オルト、さっきあなたは何を言おうとしたの?」
「……こ、の前……仮説、考えた」
「何の仮説?」
「君、の……」
少し記憶をたどってから「ハンカチの、真実の愛に関する仮説?」確認すると首肯が返される。その隣でイリスは首を傾げた。
「証明するためには、その範囲を考える必要があると助言してくれたの。そこで、わたくしはハンカチを例に仮説を立てたの――真実の愛とは、ハンカチのようなもの――と。
ひとつ。角が合わさるように、ぴったり重なる相手が存在する。
ひとつ。折り目がつくように、経験は残るし想定可能である。
ひとつ。ひろげても、すべてがきれいまっさらになるわけでは無い」
念のため「これのことでしょう?」と確認するとオルトは首肯した。
「……何らかの、事象、に……ついて…………不可能だという、ためには、存在しない、と……される現象について、科学実験を…………繰り返さ、ない、限り……不可能とは、いえない……」
「そうよね。考え付いた限りの方法の中に可能なものが存在してるなんて言えないもの」
オルトは両手の指を絡めはじめた。彼は仮面で目元を隠していることに加えて見えている部分の表情は変わらない。何か察するべきか、時間をかけて考えているだけか、あるいはそれ以外か……メロディは沈黙の意味がわからなかった。
助け舟を出したのはイリスだった。何か思いついたらしい声を上げると
「トリレンマのこと? 〝懸念のトリレンマ〟!」
初めて聞く言葉に、メロディは首を傾げた。イリスは「これもイーライ・トレイルが提起したやつだよ。知識や論理などの確実な根拠は得られないんだーって懸念のこと!」そう続けると、教鞭をとるような仕草とともに「要点は3つだよ!」と言った。
「ひとつは、正しさには根拠が必要である。これを事実の真理性とかっていうこともあるよ。けれど、根拠ってキリが無いんじゃあないかって懸念」
「事実χに、ついて根拠αを提示する……。根拠αの根拠と、して……根拠βを提示したら、根拠βの根拠、として……根拠γを提示、しなければならない。……事実χの真理性、保証するため、には……理由が充足する必要がある……けれど、どこまで満たせ、ば……良いと判断で、きるのか……客観的な指標、存在していない」
若干饒舌になったオルトの補足とともに、イリスの説明にうなずいた。
「正しさを証明するための最終的な根拠を提示することは非常に困難なのね」
「うん! まあ、やるだけ無駄って感じかなー」
イリスはメロディの言葉に反応しつつ、話を続ける。
「ひとつは、原理や公理のように証明不要の正しさが保証されない。これは、証明してないしする必要がない。けれど、それは本当に正しいのかって懸念」
「理由、や……根拠が無いから、受け入れ……る、しかない事実……厳然た、る、事実のこと」
「感覚的に近いけれど、理解できるわ」
「ひとつは、循環論法による無効。根拠を考えていったとき、どこかで使った根拠に戻ったらだめだよねって懸念」
「……循環するから、終わりがなくなる」
「終わりが無かったら議論が踊るだけで生産性や創造性が欠けているわね」
(――これも、わかる。いいえ、知っていたわ)
説明を終えたイリスは「どうしたの?」と尋ねる。目敏いイリスを相手に隠しごとは向かない。メロディは抵抗せず「以前、同じ内容を公子から聞いたことがあるの」と、話し始めた。
イリスはすぐに公子がアレクシオスのことを指しているのだと察して表情を強張らせた。
「彼は〝懸念のトリレンマ〟やその規則について直接の引用はしなかったけれど、これを言いたかったのでしょう。今はわたくしでも理解できるけれど、きっと当時のわたくしが理解しやすいように言いかえてくれたのね。……要するに、論理だけを厳密に扱っても証明が困難なのでしょう? ほかの方法があるのかしら」
メロディは顔を上げて、オルトとイリスを見つめた。イリスがオルトを見上げながら「実験しようってことでしょ?」と尋ねる。すぐに首肯が返された。
他方、ふたりにはわかっていてもメロディにはわからない。
「まことにためす、ってこと! 論理だけだといけないなら、実験して情報を集めてみるのも良いと思うよー。ほかの視点が入りやすいから」
「実験といっても、どのような?」
「んー、どんなだろー?」
3人は紙面を囲んで膝を突き合わせて、議論する。
「……感情と行動の相関、とか……?」
「あっ、いいね!」
「あと、は……星印と仮説、組み合わせ、る……」
「組み合わせる? ええっと、そうね……」