研究と証明への道筋
扉を叩くと、すぐに部屋の中から軽い足音が近づいてきてイリスが笑顔を見せた。メロディの手を取って中へ引きいれる。室内は、雑然とまではいわないまでも、紙束や道具が引き出されていて明らかに乱雑指数は高かった。
「急に来てごめんなさい、忙しかったかしら?」
「へーき! メルのほうが時間無いでしょ?」
優先してもらうことに若干申し訳なさはあったが、助かるのは事実だった。謝罪と礼を告げるとイリスは気にしていないよと軽くかぶりを振った。
「メルの研究、進められそ? 体調も崩してたっぽいけど」
触れられなければ何も言わないつもりだったメロディは、一瞬、言葉を探した。7年近い付き合いにもなれば、たったそれだけの間さえあれば「お薬飲めたかにゃー?」と的確に揶揄うことなどお手のものである。つい弁解するように「もう問題ないわ」と返した。
「ほんと?」
「本当よ!」
冷静沈着と名高い〝氷柱の白百合〟が余裕なく語調を強める様子はおもしろいものの、あまり揶揄いすぎると拗ねてしまいかねない。イリスは話題を変えようと「オルトー、どうしよっかー? 前回さー」背を向けてメロディの手を放そうとしたが、反対に、引きとめられた。
「あなたに預けた4分割の思考整理したものの続きも進めたいけれど、忘れてしまう前に、用語一覧に新しいものを追加したいの。ペンをかしてもらえる?」
「はいはーい! あとねー、思考整理のやつ、さっき見つけたよ」
ふたりの少女たちが引っ張り出した大量の資料へと視線を泳がせていると、オルトがそのうちのひとつの山から迷いなく紙を抜き取って机に乗せた。メロディを机まで誘導して座らせるとペンとインクを差し出した。
メロディは手に持っていた紙を机に広げた。迷いなく類語のところに〝恋バナ〟〝惚気〟、少し話した位置に〝いちゃいちゃ〟と、対象となり得る人物像のところ、〝運命の人〟の隣に〝推し(会える推し)〟と、記す。イリスは書きこまれた言葉に曖昧な笑みを口元に浮かべながら尋ねた。
「どんな事情聴取だったの……? 混沌すぎない? メルが扱うのは現場が手に負えない事件ばかりっていうのは知ってるけど、今回のはかなり特殊じゃない?」
「職務で聞いた言葉ではなくて、カリス公爵邸で」
「ああ、新しい婚約者だっけ?」
「え、ええ、そう。新しい婚約者」
イリスはからかうように「照れてる?」と聞いた。
5の月初日に開催される円卓議会の席でコニーとの婚約締結を認めさせる予定であり、〝理詰め令嬢〟として培った徹底した論理構成の弁論内容はすでに精査した――情事による傾城傾国を望まないのは国の中枢にある者であれば承知しているだろうから、それを利用すれば良いのだ。メロディには苦手な社交において共に在れる婚約者が必要だったし、コニーは自分の将来のためにメロディとの婚約を望んだ。政略としてであり、あくまでも双方の利点が嚙み合ったゆえの婚約なのだから国が傾く心配は希薄だと――感情より論理を優先して、周囲の反論に対する反駁も予想しうる範囲で対策済みである。
少し気恥ずかしかったのは、婚約者の存在ではなく彼の言動が原因だった。アレクシオスが男性としての基準であるメロディにとってコニーはあまりにも未知数で意味不明……自身の鼓動が早くなる原因すら判然としていなかった。
メロディは「まだ慣れていないだけよ、問題ないわ」とだけ答えて話を戻す。
「それでね、職務終わりに彼が誘ってくださったから訪問したの。邸宅にはちょうど彼の弟君と、婚約者姉妹がいらして」
「え、公然の二股?」
「え?」
「えーっと……カリス卿の弟って、カリス公子だよね? 婚約者は何人?」
「スティファノス殿の婚約者が、なぜ複数人なの? ドルシア・フラナリー嬢おひとりだけよ」
「あー、わかった! なんだ、そっか、双子だから!」
「そう。フラナリー伯爵家の双子姉妹のこと。そういえば、スタシア嬢もいらしていたけれど、彼女の婚約者なのにザハリアス殿はその場にはいなかったわ」
「んぁー……ああ、スパティエ伯爵令息だっけ? フラナリー嬢たちは学術院だけど、令息は所属院が違うよね? 予定が合わせにくいんじゃない?」
「そうなの?」
「もちろん、正確性は保証できないけどね」
イリスはそう前置きすると説明を始めた。
「学術院、武術院、芸術院に所属する1年生から6年生まで、みんな学園で勉強したり訓練したりするんだけれど、学年ごとに練度とか違うわけじゃん?」
「ええ、そうね。学習の流暢性を考慮すれば当然だわ」
メロディの同意に口角を上げてみせると「だから、まず1、2年生を基礎学年、3、4年生を応用学年、5、6年生を発展学年って大きく分けてるの」手元に引き寄せた紙にペン先を走らせながら言葉を続けていく。
「基礎学年は教養科目が多くて、これは院に関わらず合同で講義を受けることが多いからよく一緒になると仲良くなったり話したりする機会がある。けれど、3、4年生くらいからだんだん自分のやりたいこととか好きなことを深めていくことになる。興味が完全に重なれば一緒の講座を取ることもあるかもしれないけれど――わざと示し合わせて仲いい人と一緒の講座を取ったりとかもあるみたいだけれど――まあ、基礎学年のころと比べたらすべて同じ講座って可能性は低いよね。専門性も高くなるからほかの院に所属する生徒が講義に参加してるところ、学術院では見たこと無いしほかの院も同じじゃないかな」
「王城の職務で、省庁が異なれば互いに干渉しないのと似ているかしら」
「さー、どーかしらねーぇ? まあ、とにかく、応用学年から放課後にはカルディアの活動始まるし、それぞれのカルディアについても毎日活動するわけじゃないから余計に予定がかみ合わなくなるってこと」
「要するに、一緒の施設に長い間いるとしても、長く時間を共にしたり交流したりできるかどうかは保証されないのね」
「そゆことー」
以前、同院でも学年が違うためアレクシオスとイリスは学園内ではほとんど関わらないと聞いたこともあり、そういうものなのかとメロディは納得した。
「それで、フタマタというのは?」
「気にしないで! へーきだから!」
「気になるわ。関連する言葉だからあなたの口から出たのでしょう?」
「いいからいいから! ああ、ええっと――そうだね、カリス公爵令息兄弟とフラナリー伯爵令嬢姉妹がいたんだよね?!」
明らかに挙動不審な対応だったが、この調子では教えてもらえないだろう、「ええ、そうね」と、話を先に進めた。
「スティファノス公子とドルシア嬢はまもなく席を外されたから、話してくださったのはスタシア嬢だったわ。ご姉弟のことを教えてくださった際、これらの言葉を用いていたの。彼女によると恋愛に関する言葉みたいだから忘れる前に用語一覧に追加したかったの」
「メルって記憶力よくなかったっけ?」
「聞きなれない言葉ばかりだもの」
イリスは紙面に視線を下ろした。まだ書いたばかりの文字のインクは明るい紺色をしている――〝恋バナ〟〝惚気〟〝いちゃいちゃ〟〝運命の人〟〝推し(会える推し)〟――メロディの言葉に納得せざるを得なかった。どれも思春期前後の少年少女が興味関心を抱くようなものであって、王城で大人たちの口から耳にするものではなさそうだった。
「用語、増えて良かったね」
「ええ。これらは意味を知らないものもあるから調べてもらうつもり、知っていても正確に把握しているとは限らないわ」
「例えば、どれがわかんないの?」
「特に想像できていないのは〝いちゃいちゃ〟かしら。〝推し〟とともに図書館で一緒に勉強することだと伺ったけれど……」
「やってあげよっか、いちゃいちゃ」
「ここ、図書館ではないわ」
「場所は関係ないよ、相手と何をするかってのが要点!」
イリスは得意げに笑みを浮かべると「オルト!」と隣の友人に抱きついた。すると、オルトがイリスの赤髪を撫でる。それを見ていたメロディは椅子の背に両手を乗せたまま首を傾げた。
「……いつものあなたたちじゃあないの」
「えー、別の人だったら違う感じしない?」
「別の…………つまり……複数人が積極的に触れ合っていて、仲良く見えること?」
「んー? 言語化すると……そーなるのかな?」
「とりあえず、この言葉については明日以降の報告を待つわ。あとは……ああ、そう――想像はある程度できるのだけれど〝推し〟という概念が曖昧ね。それによって〝会える推し〟というのも範囲がわからない」
「〝会える推し〟?」
「フラナリー嬢によると、〝推し〟と親しい関係にあること――大好きな方に会える関係にあるという意味なのですって。けれどね、この〝推し〟という概念が定義されているとは言い難いの。愛している方、つまり大切な人と親しい関係というのは、家族や友人にも当てはまるでしょう? 身内へ抱く愛情が由縁である場合も、恋ゆえに抱く愛情である場合も、どちらも包含し得る可能性を否定できないの」
「それの何が悪いの?」
「研究に必要なら、言葉の意味や用法は正確に認識しておいたほうがいいでしょう?」
「あれ? 最初に言葉の定義と意味を把握しようとしてる? いきなり全部は無理じゃん?」
「そ、そうかもしれないけれど……わからないことが多すぎるから」
「そこからなのっ? 仮説立ててたから把握してると思ってた」
イリスは視線を落としたメロディの頬を両手で持ち上げて、丸くした陽の瞳で見つめた。両手を宙に彷徨わせたまま、紫の瞳はオルトに助けを求めた。
「……体系、は…………そこで言及され、て……い、ない存在、も…………認識、できる…………。……研究の、目的…………ひとつ、は……体系化…………言葉は、あとから…………共通認識、のため…………使う、か、ら…………だから……いま、は〝赤い糸〟……を優、先…………しよ……?」
メロディが「ヴァシレイア?」と、ある少女を思い浮かべながら首をかしげると「バシレイア! 解明の、赤い糸のこと!」オルトの答えをわかっていたイリスが頬から手を放して説明を引き継ぐようにメロディに向き合った。
「さて、現状の問題点は?」
「研究方法が、必要な情報の全容がわからないこと?」
「そのとーりぃ! それを列挙して精査するのが証明への道筋になるの。考えてみて、工夫してみる。それで失敗したらやりなおす。積み重ねたらきっと証明に手が届く――失敗は良いよ、障害物にも踏み台にもなるからとっても便利!」
満面の笑みを浮かべるイリスの瞳は、すでに熱を帯びはじめていた。