期待と夢
嫌な夢だったのは、明確にわかった。
目覚めたとき、眠っていただけのはずなのに、呼吸が荒かった。全身は暑いのか寒いのかわからないが汗で濡れており、顔や首筋には髪の毛が張りついていた。また、顔回りの赤髪が濡れているのは汗だけが原因ではなかった。髪の毛を指ですくってはがしながら、ぺとぺとする頬を手の甲で拭ってみると透明な水滴がこびりついた。意識してみると目が重く、まつ毛も心なしか湿っている気がした。
仮眠するだけのはずが深く眠っただけでなく、泣いていたらしい。もしかしたら仮眠前よりも体が疲れているかもしれない。しかし、だからといってまたすぐに就寝しようとは思えなかった。少なくとも、また同じ夢を見るのは避けたかった。
イリスはソファーから重い体を起こした。ぼんやりと脳の覚醒を待つ。
悲しさや苦しさといった名前ではないように思う。ただ生理的に受け入れられない光景が広がっていた。必死に走っていた気がする、否、走っている者に抱きかかえられていただけだろうか。あまりうまく思い出せないが、とにかく、悪霊が見せる夢にふさわしい内容だったことは疑いようがない。
ひとまず顔を洗うことにした。全身が湿っているのは服を着替えればほとんど改善できるが、顔がぺとぺとには無力だろう。触らなければ気にならないとはならず、相応に不快だった。一刻も早く嫌な感覚から離れたかった。
適当な容器をひっつかんで〈セレマトロン〉シリーズの給湯機で中途半端に沸かした湯を注いだ。触れた瞬間、熱が急激に集合して、勢いよく液体を振り払った。反射的に手を離したものの、指先がじんじんと軽く痛み赤くなった。容器上部をよく見ると、湯気が立っている。少し冷まさねばならないらしい反面、おかげで思考の霧が晴れた。
なぜここまで熱いのだろう? 過熱時間が想定よりも長く、水が高温になったからだ!
(好きな温度に調整できたほうが便利かな……? スイッチよりもメモリで調整を、そうなると温度計を内蔵する必要があるね。どこに設置すればあるていど正確な温度が、待って、構造から見直そっかな。あたしたちにしては粗雑なデザインだし!)
イリスは給湯機に向かって得意げに笑いかけた。熱いからと待たされている場合ではなくなったが、ちょうどよく触れる温度までにはまだ下がっていないだろう。しかし、もう待たされたくない……視界に入った布巾を掴んで広げる……大丈夫、いつからそこに置いていたかわからないが、汚れは見えない。つまり、きれいである。
湯を入れた容器に、その布巾を浸してから顔の高さにまで引き上げる。白い湯気がまき散らされて、深呼吸すると咽喉の湿度が上がった。また、乾いたところを摘まんでいるので熱さは和らいでいる。そのまま数回転すると、湯気を立てているが濡れた部分は触れないほどではなくなっていた。相応に派手に飛び散った水滴はそのうち蒸発するだろうと無視した。イリスは軽く布巾をねじって余分な水分を容器に戻すと、顔を包むように優しく拭った。ついでに右手の甲も拭う。
クローゼットから手に触れた服を引っ張りだして、ベッドに放り投げた――残念ながら届かず床に舞い降りた。しかし、イリスは気にせず湿った服をそのあたりに脱ぎ捨てると代わりの服を拾って頭からかぶった。意匠の都合上リボンを結うほうが体に沿うが、赤髪だけまとめると部屋を飛び出した。
原真作の〈セレマトロン〉シリーズはすべてイリス自ら設計した機械であり、設計図は完璧に思考の中に在る。しかし、給湯機そのものは蒸気暖房の副産物である。本命ではないため、本腰を入れて考えた製品ではなかった。要するに、設計者本人ですら改善点が何か、あるいは、いくつあるのか把握していない――イリスの好奇心と探求心を刺激するには十分な不明瞭である――つまずいて転びかけても駆け足は緩めなかった。
研究部屋に飛びこんで「オルト!!」と友人の名を呼んだ。彼は窓辺でのんびりと読書しているところだった。イリスがすぐそばまで駆けよると大きな手で優しく赤髪を撫でた。
「今日は、もう……寝て、る……と思、てた……」
「良いこと思いついたの! 手伝ってー、おねがい!」
「…………」
「どうかしたの?」
「……なんか……様子、変……だよ…………?」
そう言われて悪霊に嫌な夢を見せらたことに思い至ったが「そう?」と首をかしげてみせた。するとオルトは、おもむろに書籍を閉じて窓辺に置いた。イリスに向き合いながら仮面を外す。不意打ちだと、この瞬間、イリスはいつも心臓を掴まれたような感覚に陥る――美しい緑青の瞳を前にすると、何も隠しごとができないと突きつけられる――まっすぐ瞳を見つめられ、最後の抵抗として自分から視線をそらさないようにするので精いっぱいだった。
やがて満足したのか、赤髪を撫でながら仮面をつけなおした。イリスは短く安堵の息を漏らした。
「……どんな、夢…………見たか、覚え……て、る?」
「え? えーっと……ううん、あまり覚えてない。疲れてる感じするから見たんだと思うけどねー」
「思……い出せない…………なら、無理……しない、で…………」
「んー、でもね、すっごく気になる!」
「……時がくれば、わかる……かも……?」
「えー、本当にー? そういう魔法みたいな方法があればいいのにねー」
不意に、自分で口にした魔法という単語に引っかかった。魔法とはあくまでも物語の中に存在する超常だと認識している。この身ひとつではできないことを、新たな技術や道具によってできることにする。それがイリスの機械工学を志す者としての矜持であり、かつ、おおかたのことは機会を制作することで適えられる能力があると自負している。
「……作れるかなぁ? 作りたいっ、作ろうよ!」
いつもの三段活用をすると、オルトはゆるやかに口角を上げてくれたのでイリスは肯定と判断した。書籍を取ろうとしていた彼の手を引いて
「前に話していたでしょう? 思い出せないのは記憶から消えたんじゃあなくて、ただ自力で見つけられなくなっているだけだって。自分じゃない誰かに探してもらったら見つけられるようにできるかな? そのためには何が必要だろう?」
「……論文、新しく整理…………脳科学分野、あまりここに無い……よ…………?」
「じゃあ考えるのは、お預け?」
残念そうに尋ねるイリスの肩を軽く叩きながら「お預け」と言った。不満そうに膨らむ頬を指先で押されて息が漏れた。理論構築はオルト、設計はイリス――得意分野の棲み分けは完璧だが、知識量は圧倒的にオルトに分があり論文参照が必要なのも専らイリスだけだ。すでにその頭脳では改善点を精査しているだろうと考えると、楽しみのお預けは相応に不満だった。
他方、不満をかき消すのは満足である。イリスは本来の目的――〈セレマトロン〉シリーズの給湯器のことはすっかり頭から抜けていた――を思い出した。蒸気暖房を制作する際、熱と光に関する理解を進めたばかりだ。給湯器も万華鏡もその習作のため、必要な論文は室内に揃っている。
提案すると、賛成してもらえた。さっそくふたりで設計を練りなおすために必要な資料を引っ張り出す。
その間、イリスは自分が見た夢を思い出そうとした。
おそらく最後の場面だけ……何かを見てしまい、目を固く閉じて両手で耳を塞いだ。すると、優しい誰かの指先が触れて恐る恐る目を開く。そっと両手が耳から外されて言葉が聞こえる「夜明けの時分ですよ」音と言葉が切り離されたような感覚で、そう言ったのが男性か女性かすら判然としない……何を見たのか、どれだけ時間をかけて考えても、イリスはそれ以上は思い出せなかった。自分は何を恐れたのか――友人が気にするようなことだっただろうか。
ふと、棚から取りだした資料から隣で同じような作業をしているオルトを見上げた。
以前は顔全体を覆う仮面だったので、彼は伯爵家の使用人たちから不審な目を向けられていた。暗い色を好んで身に着けることに加えて顔を隠しているのだから無理もない。当人はたいして気にするそぶりを見せなかったが、イリスは気になった。外すようにせがむと、何の躊躇もなく外してくれたので問題なくなると思ったのだが、それは間違いだった……絶世の美男を拝むため年若い侍女が離れの棟に殺到したのだ。名門貴族の使用人としての自覚は十分らしく、乙女たちはしっかり結託して業務に支障が出ないようにする強かさがあった。当時、本邸におけるメロディの生活に影響はなかったようだが、こちらの平穏が乱されるのは正直なところ迷惑でしかなかった。
イリスは自分の容姿が愛らしい自覚はあるが、オルトとはまったく系統が異なる。親しいが、血縁が無いのはなんとなく察していた。
資料探しに戻ると、「あっ」と声が漏れた。4等分した紙面に情報が書きこまれている――先日、もうひとりの友人から取り上げた別の研究資料だ。
「そういえばさ。メル、研究どうするんだろうねー? 春麗祭前からまったく進めてないよね」
「……い、そ…………が、しい…………から…………」
「あー、まあ、そっか。また体調崩してたみたいだし」
「……?」
「一昨日くらいに蜂蜜酒と薬、フィリーが貰いに来たでしょう? 絶対にメルのだよ。あの子、水だけじゃあ薬飲めないもん」
やがて資料をおおかた見つけて床や机に並べて、それぞれ確認を進めた。
しばらくすると、扉がノックされた。誰かまで問う必要は無い――あの子に決まっている――イリスは扉を開けに駆け寄った。