王女と兄王子
太陽の花イーリオスティアは暁を経て万物を照らし出すために生まれ、夜の守護者プリムラ・ダクティーリは第二の月として夜を見守るために生まれた――幾星霜を生きた精霊たちの涙に育まれた2輪こそ、並んで愛されるダクティーリオス王国の国花である。特に後者は、名前に国名を宿しているように、よく国旗や省庁のモチーフにされる円環が連想される。
シプリアナは足を止めた。さきほど摘んだプリムラ・ダクティーリの小さな白を眺める。細い茎を指先に滑らせると6枚の花弁が瞬間的に円を描いた……その白さから。先日受けとった書状を思い出した。
その書状には、国王――レオニダス・ハロ・セーラス――父の署名が入っていた。王位について20年以上が経過するのだから、王位継承権ではなく在位を名乗れば良いのに……以前、兄に話してみると困ったような表情を浮かべられてそれ以上は聞けなかった。兄に聞いてこうなるのだから、母にも、まして本人に聞けるはずがなかった。
「気に入らなかったかい?」
不意に。
確かに男声が聞こえて、周囲を見渡す――誰もいない。しかし、心当たりならある。試しに誰に向けるわけでもなく「兄上……?」と呼びかける。
「せっかく君に合わせて急いで文書にしたのに」
声が聞こえてくるのは壁の向こう側だった。白亜の壁を前にして、シプリアナはそっと手を触れさせた。
「春麗祭の時点で、もう取り返しがつきませんでしたわ。早かろうと遅かろうと変わらないでしょう」
「そっかぁ、良い時機だと思ったんだけどなーぁ」
どこか気の抜けた言葉を聞いて、自嘲を含んだ笑みを壁の向こうに見せた。兄の思惑、弟の哀願、そして自分の未来――それらの優先順位を推し量るには、まだ情報が足りないと理解している。他方、ヘクトールはすでに理解しているらしいが、共通認識が形成されなければ駆け引きはできない。シプリアナは進んで話題を変える。
「お兄様、またリオをからかったでしょう?」
「あははー、もうばれちゃったーぁ」
「もう。今度は何をしたのですか?」
「えー、弟を思う兄心だよーぉ! 好きな子とぉ、同じ講義を受けてドキドキ体験ーっ!」
「ヒストリア伯は忙しいのよ? あの子のことですから仕事と学業を両立させようとすれば体調に障りますわ」
「だぁいじょーぶ、向こうにとっても悪い話にならないようにするからねーぇ」
「……内容が掴めないのですけれど?」
「そぉ? 予定が無いから作ってみただけだよ?」
「そのような勝手が……メロディが気づいていないのはしかたないとして、リオが可哀そうだわ。手が届かないのに、どうして見える範囲に……焦らしているだけじゃあないですか!」
「手が届かなかったはずのものを掴み取れた君が、それを言うの?」
「っ……」
「君は手に入れた。でも、エミリオスは?」
「わ……私は、リオはっ……私と公子は、同学年で関わる機会も」
「そう、そうだよぉ! だから、同じ条件下にするためにエミリオスがヒストリア伯と勉強できる環境にするんだ! 遊学の件は絶好の機会でしょー?」
気まぐれに周囲を巻きこみ、人を動かす――盤上を思いどおりに動かすごとく所業は、能動側であれば面白いのだろうが受動側にとっては受け入れがたい心情が働く。
「人は駒では無いのよ? チェスではありません」
「ははっ、遊戯だとは思ってないよーぅ」
「でしたら」
「たとえ君とアレクシオス公子が結ばれることを許せてもさー、婚約者不在という問題が解決されなければぁ、ヒストリアとはいえ怒りは残るでしょー?」
「しかし、彼は」
「彼は彼、ボクはボク! どれだけ担がれようと、王位に向かないと自覚くらいあるよぉ」
「……」
兄が王位を厭う事情を理解したいと思っている。
自分が王位に向かないことも自覚している。
弟が王位よりも望んでいるものを知っている。
しかし、不要な政争を避けるためには次代の王を王族から出すべきだろう。王位継承権の有無でいえばスティファノス・カリス公爵令息も持つが、順当にいけばカリス公爵位を継承する。やはり、ヘクトール、シプリアナ、エミリオスのいずれかが王位を継がねばならない。
(私たち3人のうちなら、お兄様はどう思われますか?……そう聞けたら決心はつくかしら)
シプリアナは白亜の壁に額を預けた。拒絶するようなひんやりとした硬さが今は有り難かった。
「灯りが、自分ではどうにもできないの。ほんの小さな灯りで良いのに、手の届く距離にあるはずのものが見えなくて。暗闇に手を彷徨わせるのを私はまだ恐れてしまうの」
「終わらない夜の、その先にはきっと暁が待っている。夜明けが待っているんだ。やがて美しい太陽が昇り、森羅万象を照らす。その光景は素晴らしいものに違いない……その時分であれば、小さな灯すら不要だろう」
懐かしい、兄の理知的な口調だった。穏やかで、低いけれど怖くない澄んだ音――詩のような言葉選びが助長して、まるで原初の存在や精霊たちに捧げるような祈祷句にも聞こえる。
今なら、聞ける気がした。
「祈り続けるのは、人の弱さでしょうか」
「自他のため行動できる強さは持ち合わせている証左だろうね」
「……ええ、自他のためなら」
「メロディ・ヒストリアの薫陶やらを受けるのも悪くないよー? ボクのやつはあまり良い感じじゃあないでしょーぉ?」
壁の向こう、調子のズレた笑い声が離れていく。シプリアナはひとつ深呼吸すると歩き出した。窓を小さく開けるとちょうど狭間では、室内外の心なしか温かい空気と冷えた空気が緩やかに混ざりあう。
置かれた場所で枯れたふりして根を強く伸ばせば、別の場所できっと咲ける――殿下の御言葉があるからこそ、今のわたくしが在るのです…………再会した彼女は、幼いころの無邪気な言葉を心の支えにしてしまうほど純真無垢だった。ボタンを掛け違えれば、呪いになっていたかもしれない。苦悩を隠し意地を張って演技しているのか確かめたが、空振りだった。彼女らしさを思い出すとともに、なけなしの誠実さを見せるにはこれしかないと言ったアレクシオスの推測の正しさを理解した。
メロディには呪いになっていなかったことに安心した――無邪気さがときに誰かを苦しめると、シプリアナは知っている。新緑祭が近くなると、母の望みと父の心情が対立する。その原因は、幼いシプリアナに太陽よりも明るい星のことを教えてくれた人だ。高い塔の上で優しく微笑んでいた人は、いつの間にかいなくなっていた。慰霊の可否が俎上に挙げられるということは、つまり、星の御許へ還ったということ――……さいごに交わした言葉は、ずっと呪いをかけ続けてしまっていたのだと自覚させた。少しずつ蓄積されて、やがて耐えきれなくなったのだと……――それを思うと、シプリアナは母の望みをかなえられるように動きたい。他方、そのためにそれぞれの派閥に影響を与えて政争の契機を作りたくはない。ひとりの公人として最良の選択はわかるが、自他の感情を排して決断するのは別の能力なのだ。
(私があの人を殺したなら、せめて公式に〝諡名〟で慰める機会が欲しい……それだけを望めたら良いのに)
次の瞬間、風が吹いて冷気が首筋を撫でる。とっさに右手を風に差し出すと白い花弁が流された。4分の1ほど闇に解けた月の下、〝第二の月〟として夜を守護するプリムラ・ダクティーリにひとり懺悔する。
「どうか〝安寧の楽園〟におはす御方に、平穏とともにあらんことを」
言葉にしてみると、実感が欠けていた。平穏を願うのは、自身が安らかだからこそできる。
いつから、何が、どのように違ってしまったのだろう――何も知らなければ、気づかずにいられたのだろうか――初めての春麗祭を控えた兄へ、リボンを贈った。白い良生地に、銀糸で花を刺繍した。教養としての練習ではなく、大切な人へ送るための刺繍をした。拙い手つきで髪を纏めるのを許してくれた。鏡の中で、少し照れたような優しい笑みを見せてくれた。
「あの日と、何が違うの……?」
つぶやきとともに力が抜けて俯き膝を曲げた。
憧憬が褪せてしまいそうで、隠されているだろう意図を信じきれない悔しさが胸を突き刺す。わからないことの多さを認められず、見せられないあらゆるものは胸中に抑えこんで笑顔で隠してきた。だからこそ、〝王国の宝花〟としての役割は務められている自負がある。ゆえに、ひとりきりになると不安や重圧に負けそうになる。
今日も侍女や護衛の目を搔い潜ってでも〝清らかな涙〟に触れたくなった。あの花の前であれば素直になることを許される気がした。自分の代わりに涙となってくれる気がした。
そっと。
シプリアナに手が差し伸べられた。紺色の袖口からさかのぼるように見上げて「カリス卿……」つぶやいた。彼は「お風邪を召されてしまいます」静かに告げた。
「このような時間に、なぜ?」
「同じ言葉をお返しいたします。貴女は寝室でお休みになっていらっしゃる時分でしょう?」
わずかに咎める香りがあったのは年下を相手にしているのが手伝っていたからか、手を取られる気配が無いと察して騎士は姫君の両手を取って引き上げるように立たせた。
「言葉が……それが願いなら、未来へ残せるでしょう?」
「ええ、そうですね」
「お前は、どのように考えている?」
「何をですか?」
「わからないの?」
「そのような問答は兄君のほうが向いていますよ」
苦笑とともに返しながら――あの涙を、見なかったことにはできないんだよ――内心を隠して、シプリアナを部屋へ送った。