快い1日のはじまり
湯船に浮かんだ花弁にそっと触れて穏やかな笑みを浮かべる少女に、ヘレンは尋ねた。
「お嬢様。僭越ながら、お目を赤く腫らされていらっしゃいましたのは、そういうことなのでしょうか?」
「……他に好きな方が現れたのですって。だけれど、婚約解消はきっと、お相手だけではなく、わたくしも気遣ってくださったのよ」
「しかしながら、公子様の前では我慢されたのでしょう?」
「純粋で健気な思いではなかったと自覚しているわ」
「たとえそうだろうと、長い時間が紡いだ信頼関係はありましたでしょう」
「けれど……それは、おそらく真実の愛とはいえないものだったのよ。彼が望まれたものではなかったの。それだけよ」
メロディは傍らに控えるヘレンの穏やかな笑みを見つけた。その理由を推し量るには、メロディはあまりに感情に疎かった。
幼いころから仕える侍女の優しい表情をメロディは追い風と受けとった。やりたいことを伝えれば、支援してくれるだろうと。
「ねえ、ヘレン。だからこそ、期待しているのよ。神童と名高い公子様には、いつもわたくしがまだ見えていないものが見えていたから」
少女は両手で水面にただよう花をすくい取った。持ち上げると湯が手から零れていく。すべての湯がなくなる前に水面に花を戻した。
「真実の愛について証明できれば、わたくしにも素敵な何かの片鱗を掴める可能性だってある。そのための労力を惜しむつもりは無いわ!」
「はい、お嬢様。仰せのとおりに」
湯あみを済ませたメロディはあっという間に眠りについた。
あどけない寝顔に礼をしたヘレンは、木箱とアクセサリーを回収して主人の部屋を出た。
その足で彼女は、邸宅の奥の奥、生活感がないながらも清潔に保たれている部屋に入った。
部屋の明かりは灯さない。月明りだけがぼんやりと室内の調度を映しだす。ヘレンはもう随分つかわれていない鏡台にアクセサリーの木箱を置いた。隣には伏せられた写真立て、銀製の繊細な意匠が刻まれている宝石箱が静置されている。
「血は争えないのですね、奥様」
ふり返り、肖像画を懐古とともに見つめる。
緩く波打つ薄紅の髪と煌めく金色の瞳をもつ〝星の乙女〟と謳われた当時が切り取られた見事な作品だった。絵画の中で微笑む乙女の腕に抱かれる幼女は、今では母の姿を見るほど美しく成長した。
その事実に対して喜びきれない感情から目を逸らすと、ヘレンは部屋を後にした。
その日、メロディは珍しく寝起きが良かった。ぱちりと瞼が軽く上がり、低血圧が嘘のようにすんなりと体を起こせた。あくびは不要だと主張する脳に同意を示すしかないような、驚くほど快適な目覚めだった。
朝の勤めにきた年若い侍女たちの目をぱちくりとさせながら、メロディは快適さの要因を考えていた。
夢も見ずにすっかり眠れたから、偶然そういう日だったから、あまりの衝撃に感情がふりきれたから、昨日のオリジナルティーの効能が良かったから……いくつか思いついたが答えにしては曖昧な様相をしていた。普段であれば眉根がよってしまう状況だが、はっきりしないのもときには心地良いらしい。メロディの気分は軽やかだった。
おかげで出勤前の儀式である屋敷や領地の管理は太陽が天上へ上りきる前に余裕をもって完了した。
通常よりもさらに良い手際に、執事もどこか奇妙な気分が伝染したらしく時間を持て余した。手持ち無沙汰な主人に提案する。
「閣下、これから昨日の件に関してお時間よろしいでしょうか?」
「ええ、どうぞ」
「はい、閣下。真実の愛に関する情報でございます」
「本当っ?」
メロディが膝を進めると、反対に執事は幾ばくかの冷静さを取り戻した。
「件について、古今東西あらゆる観点から膨大な知見に基づく考察や応用は文芸や詩歌に姿かたちを変えて存在する反面、学問としては不成立でした」
「定義や論文としては資料がないの?」
「心理学におけるある分野には関連していると思われます。しかし、体系化する以前に理論的ですらありません」
「そう」
「こちらは用語の一覧でございます。随時追加および整理する必要はありますが、現状の最善でございます。不明点はございますか?」
礼とともに資料を受けとって内容を確認した。昨日の推測通り、年若い使用人たちはウサギの耳を持っているらしい。
「ねえ、黒塗りされているものがあるわ」
「不要だと判断いたしました」
「なぜ?」
「閣下が考慮するに値しないということです」
「見ないとわからないわ。何と書かれていたの?」
「列挙することが目的でしたので、総出で網羅したところ不手際がありました。それだけです」
隠されると気になるものだが、このまま隠し通すつもりらしい。あきらめて話題を変えた。
「真実とは虚構や装飾がない様子のこと、愛とはある対象に関して価値を認めて強く惹きつけられることよね? まずは、〝真実の愛〟そのものを仮定するためにも、用語類語を理解したいわ」
○類語
恋愛
運命 宿命 縁 運命の輪 出会う運命 永遠の愛
赤い糸 運命の糸
ベタ惚れ 純愛 敬愛 友愛 献身
惚れる 愛する お慕いする 添い遂げる 慈しむ
愛情 友情 思慕 恋情 片想い 両想い
三角関係
痴情のもつれ 嫉妬 憎悪 執着
○対象者となり得る人物像
愛する人 最愛の人 愛しい人 大切な人
忘れられない人 心で繋がれる人 家族のような人 ●●の関係
白馬の王子様 私のお姫様
恋人 待ち人 運命の人
○創星神話
風の精霊
春の妖精 花の妖精
すべての意味を整理して、必要であれば定義する必要がある。学問として成立していないため、先駆者として初めからひとつずつ。
用語一覧として渡された紙面には、メロディが知識としてわかるのもあれば聞いたことすらないものまであった。
「定義や仮説が立てにくいほどの情報不足は避けられるでしょうけれど……わたくしの場合、すべてを把握するところから骨が折れそう」
「くれぐれもどうかご自愛くださいませ」
「無理させないくせに」
「お身体は資本でございますので」
さらりと言って見せる執事に、効果無しとわかっているのに不満な視線が隠せなかった。
「痴情のもつれ、嫉妬、憎悪、執着――穏やかでない単語が載っている。犯罪の原因にもなり得るものまであるわ」
「痴情のもつれとは、つまり、双方の愛情の行き違いのようなものですから。嫉妬なども、相手に関心があるために生じ得るものですから創作物にもよく登場する……と使用人たちが申しておりました」
「そう、確かに関連してはいるのね。あとは……創星神話については王城の図書館を探すわ。風の精霊ということは、【木ノ御成乃章】を拝読するわ。春の妖精、花の妖精も同じ章に登場するの?」
執事から肯定を受けとる。創星神話、とくに【木ノ御成乃章】が深く関わっているらしい。建国を物語にしたもので本来は学生が教養として学ぶ内容だが、同年代が学園に通う中で王城勤務を優先させるメロディにはあずかり知らぬところだった。ひとまず早いうちに王城図書館から写本を入手しようと決めた。
その勢いのまま最後に思いつきを尋ねた。
「ここ、〝白馬の王子様〟〝私のお姫様〟と載せられているけれど、相手は王族でなければならないのかしら」
「そちらは比喩ですよ。特別な、ある特定の相手だと印象づけられます。微妙な相違ですから、文字通りの意味ではございません」
(特別な、ある特定の相手……)
――別の意味で、特別なんだ
端的な回答をもとに、このあたりが微妙な相違と深く関わっているのだろうと目途をつけた。
完全に白と黒で隔てるというよりも、連続的な環境で認識を整理していく必要性が見える。まるで色を、明暗、濃淡、強弱のわずかな変移で表現しうる感情や事実の階調が存在するのなら……
「階層化が楽しみだけれど、先が長くなりそう」
ともあれ、成果のためには苦労が伴うものだと割り切った。
問題ない。いつものように、情報を集めて、分析して、利するように使う。それだけ。職務で扱うものとはカテゴリが異なるけれど、行程は変わらないのだと。