麗らかな春と乱れる心
ダクティーリオス王国の国家事業は3つ――再構築、技術向上、そして教育である。
国内にある12の学園は貴賤問わず12万人の子女が6年間かけて知識・技能の習得に精を出している。そのうちの10パーセントを、王都パラミーティナのはずれにおかれる学園本校舎が収容する。
広大な敷地とはいえ1万人以上の生徒たちが活動していれば死角は生まれにくい。密度が集中しやすいのは講義で使用する施設周辺であってほとんど人目が届かない場所もいくつかある……スティファノスはそのうちのひとつの近場で息をひそめていた。基礎学年、応用学年が講義中であれば目撃される可能性は限りなく低い。カリス家の後継者として、同期にエミリオス第二王子やザハリアス・スパティエ伯爵令息の姿があり目立つ行動を控えていた。しかし、基礎学年を経て応用学年の春麗にもなれば――第4学年の終わりにもなれば良くも悪くも慣れてくるものだ。
学術院発展学年は卒業論文の執筆に費やされるため2年間の講義は圧倒的に少ない。多忙であることに変わりないが、他学年に比べて時間の融通はききやすい。他方、人の目をかいくぐれる時機は限られているのだからおおよその予想を立てれば目的の光景を見つけることは難しくない。
実際。その日は、当たりだった。曇天のもと、視界の端には男女の逢瀬……シプリアナ・ハロ・セーラス王女、アレクシオス・イードルレーテー公子である。
すかさず懐中時計で日時を確認する――星暦1683年4の月15日9時57分――ふたりの様子を再確認した。この距離では何を話しているかまでは聞こえない。だからこそ、写真に証拠を収めることに意味がある。ふたりの姿と日時が記録されていれば、あの白百合も婚約者の不義を信じざるを得ない。カメラのレンズが捉える……アレクシオスが手を伸ばし、シプリアナの頬に触れた。
(今だ……!)
興奮を抑えてスティファノスが撮影しようとした瞬間、カメラの前に誰かが陣取った。おかげで視野はほとんど真っ黒である。眉根を顰めて顔を上げると
「っ――」
エミリオスは声を上げそうになったスティファノスを右手で制した。その空色の瞳は、ふたりの逢瀬を捉え続けている。
(なぜ殿下がこちらに? この時間はカツェログルー教授による伝統剣術演習なのだから途中退席は難しいはずなのに)
刹那。
一塵の風が、背を撫でた。
スティファノスの視線がエミリオスから外れ、風が吹き抜けた先を見つめなおす。
強い風が少女の金髪を巻き上げた。オリーブの葉をモチーフとしたもので、伝統の味がでている白金色のバレッタはよく映えている。
シプリアナはアレクシオスの体を押し返した。密着するほど接近していたふたりは、少女の腕の分、距離を開けた。しばらく居心地悪そうに立ち尽くしていたが、やがて少女が走り去る。残された少年が不意に振り返ったので、スティファノスはさらに物陰の奥へ身を隠した。しかし、エミリオスはむしろ姿を見せるように堂々と佇んでいた。
アレクシオスは礼節に則った距離で歩みを止めると丁寧に辞儀をする。この距離であれば一言一句が正確に聞き取れた。
「義憤を抑えて公正をもたらさん――カプトロン座イードルレーテー」
あまりの冷静さにスティファノスは気を悪くしたが。しかし、エミリオスの感情を支配しているのはそれだけでなかった。耐え切れずアレクシオスの胸倉に掴みかかる。
「……イードルレーテー公爵が次男アレクシオスにございます」
律儀に、途切れた口上を最後まで明瞭に言い切った。
この男は気に食わないが、この男の言動には強烈な羨望を抱かされることが少なくない。明晰な頭脳や綿密な策謀だけでなく、決して物怖じしない胆力……なぜひとりの人間にここまで才覚が集中するのか……奥歯を噛み締めた。
「正気か?」
「生憎ではございますけれど、意味を図りかねます」
「其方が何も知らないとは思っていない。ただ、理解できない。なぜそこまで……」
「人の性は変わりません。一度惚れた相手には指一本すら触れられずとも尽くさずにはいられませんから」
「それを、なぜ俺に言うんだっ?」
静かながら抑えられた声は震えていた。同時に、エミリオスは相手の胸ぐらをさらに引き上げる。スティファノスは思わずふたりから視線を逸らした。見てはならないものを目の前にした気まずさが心を支配した。
ふたりの背格好は近いため、アレクシオスは両足を地につけたまま襟元に顎が押し上げられる。しかし、新緑の瞳は平然と見つめ返す。見下ろすような目線がさらにエミリオスの沸点を低くさせる。
「お前が婚約者へ何を伝えているか知らない。だが、お前が姉上まで蔑ろにするのは決して認めない!」
吠えると、うつむき荒い呼吸を整えようとする。やがて「兄君からは何も知らされておられませんか」静かな声だった。少し話しにくそうだったのは実際に若干体を反らす不安定な体勢だからだろう。
「……正面からでは無駄なことくらいわかっている。だが、ほかの手段を知らない」
弱音とも聞こえる言葉は、寂しかった。
普段、生徒会でも講義でも、エミリオスは平静を具現化した声色と口調を崩さない。同い年で幼少から交流があったのに――スティファノスが知らない姿だった。
「彼は、誰よりも理想家でいらっしゃいます。時が来れば何もかもを打ち明けてくださるでしょう」
回顧するような口調でアレクシオスは断言した。言葉に苦しさはなかった。すでにエミリオスは握りしめた両手を体の横に降ろしていた。「いつになる?」吐き捨てるように尋ねる。
「戯れに3年と申し上げてみましょうか」
「ふっ……〝慈愛の魔王〟にでもなったつもりか?」
「滅相もございません。自らを希代の賢王に重ねるなど、あまりにも恐れ多くございます」
本心か建前か、曖昧な口調だった。数秒すると芝生を踏みしめる音が遠のいていく。
立ち去るべきか、とともに校舎へ戻るか――スティファノスは逡巡した。不意に視界に影がかかる。目の前には、手が差し出されていた。見上げると困ったように苦笑を浮かべたエミリオスだった。
「そのような顔をすること無いだろう? 清廉潔白であれる者は、年を重ねるごとに数を減らす」
無視するのは無礼にあたると思い、スティファノスは差し出された手を掴んだ。ほとんど重力を掛けないように、ほぼ自力で立ち上がった。それとなく制服の内ポケットにカメラを滑りこませる。先に引っ掛けていたペンに擦れた金属音が気になったが、最低限レンズの向きには気をつけたから問題ない。おとなしく先に歩き出した王子の背についていく。
「春麗は間近だが、その服装では曇りの中庭は肌寒かっただろう? 体調などには気をつけなさい」
前触れなく告げられた言葉だった。スティファノスはすぐに何を指しているのか悟った。この一連の逢瀬を、言外に他言無用だと命じているのだ。
講義を抜け出して、ある光景にカメラを構えた――何をしようとしていたのかわからないほど愚鈍ではない。王族として素行に気を使っている以上、エミリオスがいずれのことも流布するとは思えない。だからこそ、スティファノスも余計なことはできない。
(僕は、何をしようとしていたのだろう)
制服越しにカメラに触れる。
先日ドルシアとふたりで――護衛や侍女はいた――城下町を散策した際、ある商店で見つけた品だった。その店の長は、ふたりが名乗らずとも身分を看破したのだろう。繊細華麗に設えられた部屋に通したうえで、うら若い令嬢が好むようなアクセサリーや国内外の書籍をいくつか見せて、続いてこのカメラを見せた。
楽しそうに目移りしているドルシアの隣で笑みを浮かべ続けていたスティファノスは、不意にそれを手に取った……白銀の身体に指先を滑らせる。息を呑んで隣を向くと、ドルシアは「カメラですよね?」と言った。植物学とくに薬用植物学に関心がある彼女でも、既知の機械らしい。
昨年〝九瑞星〟のひとりに選ばれた理論学科の卒業生による卒業論文では、かつて亡国を生きた天才技術師エルンスト・シィ、ここ数年で彗星のごとく国内で名を馳せたマッティ・メイカライネンの比較について彼らの発明品を例示しつつ述べられていた。従来の論文と一線を画すのは、理論学科の視点から設計図や技術理論の分析をかなり重視した上で類似が生じた思案の背景についての考察を論文の80パーセント以上の紙面を割いたことにある。その甲斐があって昨年度の全卒業生における上位9名に選ばれたのだ。
例年、卒業生の論文をすべてを読む人間は少ないが、読んだ者から概要は流布される。加えて、その卒業生による戯れとして……希望に近い妄想ともいえるが……「間もなくマッティ・メイカライネン氏が製品開発に乗り出すのは撮影機器だ」と言い当てたことで再び脚光を浴びた。2度も騒がれれば、ドルシアも興味関心から離れているとはいえ、知っていてもおかしくない。
事実、万華鏡が市井に公表されたのは3の月半ば――論文執筆は佳境を経て審査段階にあり、前述の予想がされた新年祭の〝天弓の儀〟はさらに2カ月前、いずれにしろ最有力傍証を持たない状態だった。予想的中を成した彼がどれほどふたりの天才について綿密な調査や分析を重ねたのか、想像に余りある。
(天才を殺すのは凡才である――……だったかな)
昨年も生徒会役員として〝九瑞星〟選定に携わったおかげか、今でもふと引用できるくらいには当該論文をよく読みこんだ。同じく理論学科のアレクシオスも同様の論点で考察を進めるのだろうか、と考えてすぐにその考えを否定したのを思い出す。天才がたどり着ける思考の深淵を、外野が計り知れるわけがない。結局、どれだけ予想しようと、思わぬ視点からの想像だにし得ない論述で人々を魅了するに決まっている。
ダクティーリオス王国における建国物語〝星創神話〟は、神のいない神話である。にもかかわらずアレクシオスが神童と謳われるのは、他国の概念……世界学術機関の言葉を国内の新聞記者が流用したからだ。それだけの――入学直後から才覚を発揮して国内外で認められるだけの能力があるのは認めるが、アレクシオス・イードルレーテーは〝名もなき天才〟ではないし、神のいない国においてかの超常存在からの寵を受けられる道理はない。その記事を前にして、スティファノスの年齢はまだ1桁だったが、記者の語彙力に鼻白んだのをよく覚えている。
今では亡国の天才技術師、名無しを指す名前を筆頭とした〝名もなき天才〟に対しても同様の印象である。いくら異国の昔の言葉で〝名無し〟を名乗ろうと、功績を公表すれば個人が浮かび上がる。しかし、この矛盾がダクティーリオス王国で論われることは無い。この国で重要なのは、論理であり知識であり技術なのだ。現在の築き上げられた大陸における中立を考慮すれば無理もないが、あまりにも顕著だ。筋道が立てられてそれを支え切れるだけの信頼できる証拠があれば、それが事実として受け入れられる。従来の思い込みや信じていた思想が容易に崩れ去ってしまう。その苛烈な清廉さに耐えられる者はどれほどいるだろうか。
壊そうと思えば容易に壊せるものは多い。天才が常識を壊すなら、凡才は天才を殺さねば自らの心の安寧を保てないこともある……はたして、この王子はそれを知っているのか。その上で、凡才なりの歪んだ自衛を妨害したのか……スティファノスはエミリオスの背を見つめたが、答えは得られなかった。