フラナリー家の姉妹と
すっかり日は落ちた。
朝から学園で講義を受けて放課後はカルディアに参加、さらに姉ドルシアの婚約者であるスティファノスとの約束でカリス公爵邸宅へ赴いた。ただの付き添いだと思って気楽に誘いに乗ったら、なんと〝氷柱の白百合〟まで同席することになった。結果的には楽しめたから良かったものの、想定していた疲労は容易く上回った。スタシアは両手を組んで前に伸ばした。
「ねえ、本当はどれくらい話したの?」
ちょうどあくびをしているときに、ドルシアは意を決して訝しい視線を向けてきている。スタシアは目尻を軽く湿らせながら「ん?」と首をかしげてみせた。
「ヒストリア伯に、どれくらい?」
「微笑ましいって、それだけよ。一緒に勉強すると理由をつけてイチャイチャしてるって」
「し、してないわ! ちゃんと定期試験に向けて」
「はいはい、そうね。おふたりとも優秀で嬉しく思いますわー」
「ターシャ……!」
顔を赤くする理由が羞恥か憤怒か、スタシアにはどちらでも構わなかった。姉の反応を面白がって意地悪く微笑を見せる。
「さっきも言ったでしょう? ネストルたちの話のほうが食いつき良かったのよ。彼女なりに、不和をもたらした原因が自身にあると思われていらしたから」
「伯爵さまが……? けれど」
「知識や好奇心は圧巻ね。論理に頼ろうとするのは、国内では彼女に限ったことではないけれど、どうしても文字と実践では違うわ。もし、学園に通っていたらきっと素直で愛らしい後輩よ?」
「……」
「公爵夫人がおっしゃっていたとおり、話せばわかったわ」
言葉にしなくとも引きつった笑みが雄弁だった。スタシアは自慢するようにドルシアに言った。事実、清廉で苛烈だと名高い白百合の知られざる本性を垣間見てしまった背徳的な優越感がある。この姉はいつ知れるのか――少しくらい思わせぶりなことを言っても許されるだろうと打算があった。いつも婚約者の惚気を聞いているのは誰なのか、論を俟たないのだから。
「どうなるのかしら」
「結婚前の適応障害?」
「わ、私のことではなくて! ヒストリア伯とカリス卿のことよ」
「あら。良いご身分ですこと」
「心からの、純粋な心配よ」
スタシアは揶揄うのを控えて腕を組んだ。言葉を続けてもらうため何も言わずに待っていると
「目指すべきは、良妻賢母――王妃殿下のような女性になるべく研鑽を積むのが令嬢の正しい姿だとすれば、長く妃殿下の御付をしていた伯爵はなぜその道を進まなかったのかしら。なぜ妃殿下は黙認していらっしゃるのかしら」
「……リーシャ、学問の道を進みたいの?」
「それほどの才覚がないことくらい自覚しているわ。カリス家に輿入れするのが嫌なわけでも無いし、幸いスティファノス様は相応の自由を許してくださると思う。この身に過ぎた幸福だと、わかってしまっているの」
「不満が無いなら、良いじゃないの」
「そういうつもりじゃ」
「わかっているから。謝らないで」
(今日は失言ばかりだわ……)
明らかにドルシアが消沈して肩身を狭くする。一方、スタシアも今のは悪烈だったと自覚してすかさず言葉を続ける。
「女は輿入れして夫を支えて子を育むものだと、自分のこととして考えられているか怪しいけれど、嫌だとは思ってないわ。黄道のものとしての最低限の義務と権利だということも、理解してる。だいたい、私だって恵まれているわ。市井では〝畜生腹〟だと多胎児に対する迫害があると聞くもの。デビュタント前に婚約者を決めてしまったのは父の英断だし、その際にはカリス家かスパティエ家か私たちに選択をゆだねてくださったのはきっと優しさよ」
「そうね。ただの政略道具だと思われていたら……お父様に限ってありえないけれど」
妻を亡くしてから後添いを不要と断じた上で、1日も欠かさず陽が落ちればプリムラ・ダクティーリを自らの手で飾り続けて彼女の居室を生前のままに保っているのが当代フラナリー伯爵である。政略婚とはいえ、希代の恋愛婚の代名詞であるメロディの両親に負けず劣らず鴛鴦夫婦だったのは決して古い話ではない。
また、自分たち双子が母の生き写しであるのは家族写真や肖像画を見なくとも自覚している。カリス家やスパティエ家への送迎において決してフラナリー家の車両以外使わせないのも、娘を嫁に出したくない父の隠れた抵抗が透けて見える。
不意にドルシアが思い出したように声を上げた。
「フィロメナ様の話に食いついたのも当然よ、ソフォクレス公爵閣下はヒストリア伯爵様の伯父にあたる方だもの」
呆けたような声を上げながら、スタシアは納得した。従姉妹の恋愛事情は恋バナ初心者に適した話題だったらしい。意識していなかったが、自らの采配に拍手したい気分になった。
「ドルシア嬢は、もう大丈夫なのかい?」
コニーは、フラナリー家の車両を見送ったばかりの弟に尋ねた。「でなければ困りますね。明日も学校なのに、合わせる顔がありません」スティファノスは苦笑する。それもそうか――コニーは納得して、兄弟並んで邸宅へ戻った。
「それで?」
「はい?」
「あまりにも無邪気だったね?」
「彼女は気づいてませんよ」
「想定の上だったら対応も容易だったのかな?」
「黄道においてもフラナリー伯爵は研究者気質のお強い方ですから。令嬢も相応にそれを受け継いでいらっしゃるのでしょう」
コニーは不快感を視線に滲ませた。ヘクトールの、周囲の人間の感情をもてあそぶような言動にはうんざりしているのだ。弟まで似たようなことをしだしては堪らない。
「多少の遊びくらい許容していただきたいですね」
「賢明とは言い難いと思うのだけれど?」
不快を見せたのは、スティファノスの番だった。足を止めて、婚約者には見せられないほどの冷たい瞳で兄をまっすぐ見つめる。
「次期公爵位を捨てたのは貴方でしょう?」
一方、コニーはもはやこの視線に慣れてきていた。そもそも軽蔑や反発を覚悟した上での決断だったのだから。両手を後ろに組んで器用に肩をすくめた。苦笑は自然と浮かぶ。
「私なりに気遣ったのだけれどね」
すると、途端にスティファノスの頬は紅を帯びる。しかし、直後には自制してひとつ深呼吸をした。
「何度も申し上げますが、あいつに対抗意識などありません。不要なおせっかいです」
語気は強いが、軽蔑の色は無い。真っ赤な憤怒だ。コニーは「そうだね」とだけ返した。
改めて、ドルシア・フラナリー伯爵令嬢のセンスには脱帽する――意識か無自覚かはともかく、これほど婚約者に合った贈りものができる令嬢はなかなかいない。使用人に選択を放り投げる者もいるが、彼女からのものは的確なことが多い。とくに、襟元のオパールのブローチは、じっと内に熱を貯めこむスティファノスの性格をよくくみ取っているだろう……遊びと言っているけれど、どうなのだろうな……熱くなった耳を両手で冷やしながら立ち去る弟の背を眺める。やがて小さくため息をついてコニーは自室へ歩みを進めた。
一方。
スティファノスは自室のベッドに体を倒し、月明りにブローチを翳していた。
声を荒げることはなかったな――不意に幼さをみせたことに自嘲する。そのいびつな笑みを収めると、肺腑から完全に気体を排出できるほど深く長く吐き出す。精神が成熟してきた自覚はあるからこそ、大筋が制御できるようになってきたからこそ細かい部分の詰めの甘さが気に入らない。
数年前から、否、それよりも以前からスティファノスは兄が何を望んでいるのかわからない。
世襲貴族として爵位継承権は、当代の直系子孫あるいは三等親以内における家門の長子に与えられる。次男の身として、3年前まで、王位も爵位も順当に継げる可能性はないと思っていた。2年生への進級を間近に控えていたころ、王城へ招集されて突然聞かされたのだ。
当時から神童と謳われていたアレクシオスすら、出生のために持ち得なかった権利である。王妹の母を持つ自分だからこそ、兄が継承権譲位を決断したからこそ――そのような優越感はすぐ消えた。降ってきた偶然の幸運がなければ、彼とはまともに戦えないと言われている気がしてしまったのだ。おかげで、同年9の月に譲位が認められたが、スティファノスは不満だった。それを兄にぶつけても「そうだね」「すまないと思っているよ」などと零すだけ。不満はさらに募った。
当時、コニーの女遊びが大きく取りざたされる代わりに継承権について世間の関心は薄かった……遊びたいがゆえに継承権を手放したかったのか、継承権を手放すために外聞を悪くしているのか……5つも年が離れていれば兄弟とはいえ感覚が異なるだろう。だからこそ理解したかったし、しかしながら不鮮明だった。
いまでは軍務省国防局参謀本部戦術参謀第5席として中佐の座にいる。ヘクトール第一王子の気まぐれな指名で補佐の真似事もしているが、同年代でも実力は上位だろう。継承権があれば、身を固めれば、これからの出世が有利になり確固たる地位につけるのだ。すべてを投げ出して、〝妖精のイタズラ〟などという意味不明なものの陰に隠れている兄の気が知れない。
スティファノスは体を起こした。
指先でブローチをもてあそびながら、ゆらめく緋の遊色を見つめる――ほとんどの宝飾品は使用人に任せているが、このブローチだけは自分の手元に置いておきたかった理由が、これだ。
自分の容姿と能力があれば、初心な婚約者をだまし続けられる自信がある。ただひとつ……このままアレクシオスに負け続けるのは我慢ならないのだ。