気遣いと認識
陽がすっかり落ちる前に、スティファノスとドルシアは並んで四阿へ戻って来た。ドルシアはメロディのそばまで歩み寄った。
「伯爵様、先ほどは」
「ドルシア様っ!」
メロディはたまらず立ち上がって、謝罪のために握りしめていた手を取った。キラキラと輝く期待の視線を前にドルシアは何度も目を瞬かせるばかりだ。
「安心して、リーシャ。メロディ様の御心は大海よりも広いわ」
「ミリィ、今度にしたらどうかな? 君も今日は疲れているだろう?」
「今度ですか? 今度はいつなのですか?」
「ご安心くださいませ。すぐに私からお茶会にお誘いいたしますわ」
「本当ですか!」
「ええ、もちろんですわ」
戸惑いながら双子の妹にどういうことかと視線で意見と説明を求めた。苦笑を浮かべて「恋バナ初体験でいらっしゃるみたい」曖昧に答えた。しかし、双子ゆえか、それだけで十分だった。
「もしかして」
「貴女のことは少しだけ。ほとんどネストルとフィロメナ嬢のことよ」
「ああ、そうなの。ならば、なぜ卿はあのような表情なのかしら」
「君らの弟が、心なしか哀れに映ってね」
スタシアの代わりにコニーが答える……許可なく自身の恋愛事を詳らかにされて――言葉無くして伝わった。ドルシアは笑みとともに首を軽く傾ける。
「しかたありませんわ、自身が関わる恋バナは惚気と同義でしょう?」
メロディは感心して目を瞬かせた。職場でローガニスがシリルを「惚気野郎」などとよく揶揄していることについて、夫が家族の様子を他者に伝えることだと認識していたが、相違があるらしい。なるほど、愛妻家と名高いシリルが妻のことを話せばそれは恋愛に関わる内容に該当するのだろう……恋と愛の違いはまだ判然としないが、さらに気になることがある。
「恋バナと惚気の相違点は、主観客観のほかにありますか?」
「単純に好奇心や興味が発端となるのが恋バナです。惚気は……自慢の意図とでも表現しましょうか、最終的に自分の相手はこんなにも素敵な人だと得意げに喧伝する要素があると思います」
スタシアが自分の言葉に納得しながら答えると「たしかに、不得意な相手についての惚気は聞いたことありませんね」コニーは同調した。
「不得意といいますと?」
「好きとは言い切れない――なら、わかりますかね」
困ったように笑みを浮かべるコニーの意図はわかりやすく、合点がいったように首肯しながらうなずいた。性が合わない、苦手、嫌い……いずれの強い表現を意識的に避けたのだ。
他方。
軍人生活が長いと、角が取れた表現とは縁遠くなりやすい。事実、メロディが軍務省に所属していたころよく粗暴な言葉を耳にしていた。耳敏いことを抜きにしても、遠巻きにされていてさえ届いたのだからそうでない環境下であれば言葉もない。
にもかかわらず、思い出してみると、コニーの対応は知るかぎり多少の強硬は見られたが柔らかで丁寧だ。
犯罪捜査に長く関わる中で人品骨柄を見分ける能力には相応の自負があるメロディには、心なしかこの美丈夫が違和感のような不思議に映る。
最近、不満そうに睨まれることのほうが多くなった紫水晶に観察の色が滲んでいると気がつき目を細めて首をかしげてみせる。あまりにも優しいその眼差しは、傍らの双子に辟易とした苦笑を浮かべさせる。
「どうされましたか?」メロディが尋ねると「こちらの疑問ですよ」コニーは困ったように肩をすくめた。
不意に、コニーは弟に視線をやった。ドルシアと戻ってきたが、会話に入ろうとせず努めて気配を消している。兄に気がつくと、逸らすように視線を落とした。あまり沈んだ表情を見せないが、ドルシアと話して何か思うところがあったのだろうと予想がついた。
「さあ。もう陽が落ちる時分だ」
誰に伝えるでもなく言葉にすると、控えていた使用人がひとりだけ前に出る。フラナリー伯爵家、ヒストリア伯爵家より迎えの車両が待機していると静かに告げる。
スタシアが慣れたように歩き出し、その後ろにドルシア、スティファノスが続く。メロディの視界に手が現れる――コニーは「行きましょうか」と微笑んだ。
歩調を合わせると、意図的に遅くしているらしく、邸宅へ入るころにはコニーとメロディは前を歩く集団と大きく距離が開いていた。
「お優しい弟君ですね」
婚約者と席を外した前後で、スティファノスの対応は大きく変わった。また、メロディはドルシアの目が若干充血していることや彼女の化粧――特に、目尻が鮮明に見えることに気がついていた。内容まで類推できないが、ドルシアの心情を積極的に慮ろうとした結果だと察することはできた。
「そうだね。婚約者ともうまくやっているよ」
曖昧な表現に補足が欲しくて見つめると、コニーはそっと指先で自分の襟元を叩いて見せた……スティファノスはそこにドルシアから贈られたオパールのブローチをつけていた。加えて、兄にブローチについて言及されると彼は嬉しそうに惚気ていたと思いだす。
同時に、ふと浮かんできたシリルの主張を脳裏に並べて嬉しそうにコニーを見上げた。
「でしたら、おそらく溺愛までもうすぐですね」
「ん……?」
「溺愛は、ベタ惚れの上位互換のような概念です」
コニーの困惑に気づいてメロディは補足した。ただ、彼が困惑したのは、およそ〝氷柱の白百合〟と呼ばれる少女から聞ける単語だと思っていなかったのが要因として大きい。わざわざ論わずに笑みを浮かべるのは、メロディを送迎車に乗せるまでに自身の弁論によって認識の差異を解消できるとは思えなかったからだ。
「ミリィは、憧れているのかい?」
「何に対してですか?」
「溺愛」
「わかりません。自分の持ちうる知識の範囲内でしか思考はできませんから、言葉で知っているのと体験して心を動かすのとでは違いますでしょう? 憧れるには、それが理想だと認識する必要がありますから」
「理想だと思える存在は、いる?」
祖父母、伯父夫妻、国王夫妻、そして両親……朧げなものも鮮明なものも、すべての大切な記憶としてメロディの中に存在している。温かなものを自覚しながら「はい」と明確に同意を示した。
自然と浮かべられた笑みは、社交のものでも政のためのものでもない。近づき難いほどの神秘的な美しさが和らぎ、年相応の愛らしさが顔をのぞかせる。
いい加減コニーも悟っていた。どのような地位にあれど、メロディ・ヒストリア伯爵はまだ乙女の年頃なのだと――愛情や恋愛に興味関心はあるし、関連する理想もある。
「笑顔に勝る化粧は無い、とはまさにそのとおりですね」
知れば知るほど、完璧な冷徹伯爵の相合を崩したり赤面させたりするのも楽しくなってくる。
「笑っているほうが、話しやすいと感じます」
メロディは口ごもるように「そうですか」つぶやきながらなんとなく顔を逸らした。しかし、春麗祭の控室でのことを思い出してすぐコニーを視界に収めた。
「そうだ、5の月の初日に〝すずらんの会〟があるのだけれど、予定は空いているかな?」
視線がかち合うと思っていなかったのか、わずかに深海の瞳が驚きを見せた。メロディは「〝すずらんの会〟ですか?」初めて聞く名前に補足を求める。
「ええ。招待状は私が持っています。同伴いただけたらと思うのですが、いかがでしょうか」
「どのような会議なのですか?」
「会議ではなく会合ですね。卒業7年以内であれば招待される、学園主催の行事です。まあ、若年者の社交ですね」
「わたくしは在学も卒業もしておりませんけれど」
「参加者と年は離れていませんから、その……よろしければ私の同伴者になりませんか、とお誘いしているのです」
「よろしいのですか?」
「閣下が宜しければ。若者しかいませんから気を張らずとも大丈夫ですよ」
「わたくしのことではありません。あなたの隣にわたくしがいることで、ご迷惑をおかけしないかと」
「とんでもない。貴女がとなりにいてどうして不便を……ああ、なるほど。視線を独り占めすることを憂いているのですか?」
「い、いえ、ちがいます。真剣に気遣っているのです。それに、その場に知り合いがいるかどうかすら」
「ご所望であれば紹介しますよ。私の知り合いは気の良い奴らばかりなので」
提案に食いついたのがわかったらしい。コニーは満足そうに目を細めた。事実、同年代との交流が希少なメロディには非常に魅力的な提案である。ただ、ここであからさまに喜んでみせるのは掌の上で転がされているような感覚で気に障る。
「円卓議会次第で参加可能です」つんと澄まして言ってみせた。しかし、コニーは「わかりました」と物分かりの良い返事と甘い微笑みを返すだけで、考えをどこまで見通しているのかさえ悟らせてくれなかった。
表情はまったく異なるが、カリス公爵も鉄仮面と寡黙によって自身の思考における重要な部分は決して見せない。コニーはカリス公爵家の長男であることに思い至り、メロディは送迎車に乗りこんだ。車が走り出してもなおコニーはその場にとどまり見送ってくれた。
その視界の端では……スティファノスの言葉に赤面するドルシアと、先に車両に乗車するスタシアがいた。