誤解と嫉妬の解消
メロディによる賢明とはいえない言葉を丁寧にかみ砕いたらしいスタシアは「そうですわね、本当。ずるいほどに……」独り言のようにつぶやくとティーカップを傾けた。静謐の中、「さて――」カップをソーサーに戻した少女は一転、世俗的な笑みを見せる。組んだ両手に顔を乗せながら
「おふたりこそ、最近いかがなのですか?」
侍女たちは四阿から離れた場所で控えており、また、考えるまでもなくスタシアが指しているのは同じ席を囲むふたりのことである。コニーはいつものかと呆れ混じりに微笑む反面、メロディは何がいかがなのかすら掴めなかった。彼女なりに考察した結果は
「扱われている時事問題には、緊急性が高いものはありません。近隣諸国との同盟に関しても更新は」
しっかり的外れである。「ミリィ、スタシア嬢は恋バナがしたいのであって政や議論をしたいのではないよ」とコニーに修正されたが、試しに「こいばな」聞こえた言葉をそのまま繰り返してみても、心当たりが無いとわかるだけだった。
「恋に関する話のことですよ。されたことありますか?」
湖面のような瞳を細めて軽く首をかしげてみせるスタシアに見つめられながら、(恋……)心の中でそっと唱える。
研究を進めるうえで用語をまとめた際、愛情と恋情は分けて記されていた。一般的に、似て非なるものだと認識するに至ったのだが、その先にはまだたどり着いていない。「愛とは別の概念だとはわかるのですが……」調査不足を謝罪するように続ける。
「愛が、ある対象に関して価値を認めて強く惹きつけられることだと辞書にありました。しかし、類語として恋愛だけでなく、恋も挙げられていました。違うとはわかるのに、同じようなものだとされていてどれが狭義としての恋に該当しているのか、耳にしていたとしても…………すみません、議論では無いのですよね。そう、ですね。経験と呼べるかわかりませんが、両親が恋のために苦労を乗り越えたことは知っています」
「私も母からよく聞きました」
フラナリー伯爵夫人は数年前に星の御許に還った。メロディは令嬢の平穏な声色に合わせて「そうなのですか?」努めてゆっくり首をかしげて見せる。
「ええ。世紀の大恋愛ですもの。親世代は皆がご存知でしょう。ならば子は聞かされますから、私どもの間にも浸透しています。加えて、妖精に祝福された貴公子殿がこんなにも身近にいらっしゃるのですからドルシアもネストルも、そのような恋に憧れていますわ」
「ネストル様というのは……?」
「私たち双子の、弟の名です」
「ならば、ご年齢は」
「1669年2月生まれですから、先日15になりました。メロディ様のひとつ下ですね」
言葉の先を引き継いでもらって、(ということは、イリスより1歳、ヴァシレイアより3歳上なのね)と考えた。さらに、
「スティファノス小公子の、1学年下かつ2歳下ということですか」
「そうですね、そうなります」
なるべく自分が持っている情報と繋げて記憶を補強する。各家門の当主夫妻であれば正確に詳細情報まで把握しているメロディだが、同年代となるとやはりからっきしである。いままでは元婚約者に任せていたが。これからは自ら進んで知っていこうと前向きに考えている。熱心に情報を整理しているメロディに対して「閣下はよく考えていらっしゃいますね。恋バナのために辞書を開く者をほかに知りませんわ」感心と困惑が合わさった声色でスタシアは居住まいを正した。「わたくしはまだ何も知りませんから。研究は、目的を設定した上で調べるところから始めませんんと!」意気込んで見せると「研究ですか?」スタシアは何度か目を瞬かせた。続いて、この男は知っているのかと、コニーを見つめる。
「〝妖精のイタズラ〟の話かな? それとも、真実の愛の証明のこと?」
「現状わたくしの認識では、真実の愛を証明する上で〝イタズラ〟を解明する必要性があると考えています。ですから、まずは外部要因か、内部要因か――どちらなのか確かめる方法を探しているところです」
「へぇ。本当に考えているのだね」
「はい、これからも着々と考察を進めていきます!」
意気込んで見せる少女にコニーは慈しみを込めた微笑を浮かべた。その隣でスタシアは困惑していた。
「論理的に、その証明をするのは……可能なのですか」
「わかりません」
「それでも、続けるのですか?」
「経験上、できないとわかったら、どうすればできるのか気になってしまいます。わたくしが列挙したすべての方法の中に可能なものがあると保証されませんから、いつ〝真実の愛〟が証明できるのかすらわかりませんけれどね」
メロディは自分で話しながら自らの無謀さを自覚して苦笑したが.スタシアは何か合点がいったらしく唇の隙間から息を漏らした。
深窓の令嬢ごとく容姿でありながら〝理詰め令嬢〟〝氷柱の白百合〟といった苛烈な印象を与えるメロディ・ヒストリアの名声は、職務上では優位に働くが社交も同様だとは限らない。以前、父であるフラナリー伯爵が「暴走人形」と口を滑らせたことすらあり、傍若無人な少女だと先入観を持っていた。先日の春麗祭では会話を楽しむどころではなかった。
他方、たった今まで話していてどうだっただろう。風に聞いていたような人を寄せつけない氷の心を持った伯爵か、鈍感で甘味に目が無い純真な少女か――仮に後者が演技だとして、スタシアはもう騙されて構わないとさえ思った。そう思ってしまった自分の感覚がおかしくて笑った。
「話せて良かったと思いましたの。ふふっ、光栄を受け取りました」
「わたくしもお話しできて嬉しく思います」
きっと相手の心の内を正確には推察できていないだろうに言葉をそのまま受けとり返答するメロディの様子に、コニーとスタシアは顔を見合わせて苦笑を浮かべた。
一方。
四阿からしばらく庭園を進むと生垣が円形に開ける。春の柔らかな日の色は温かみを帯びた花々とともに、中央に座する噴水を彩る。
スティファノスは噴水の淵にドルシアを座らせた。「どうしたの?」と顔を覗き込もうとするが、俯いたままでは顔色すら見えない。
咎める口調にならないよう気をつけたが、むしろそれが委縮させる原因になったかもしれない……どうすれば良いのかわからず、スティファノスは怒られそうな幼い子どものような気持ちで視線を彷徨わせる。すると、見事な彫刻が目に留まった。
噴水の中心に佇むその彫刻こそ〝白亜の少女〟の模造である。
隣国の由緒ある石都遺跡プロセルピナ神殿に鎮座する〝本人〟は、激動の11世紀を終わらせたとされる傾城傾国の姿を象ったとされ、ひとり蒼穹の果てを願い、空を見つめ続けている。著名な歴史学者をしてその容姿を「あまりもの美しさ」とだけ言わせ、翠玉の瞳で人々を惹きつけて後世でもなお数多の芸術家たちに”姉妹”を作らせ続けている。
ダクティーリオス王国内でも例外ではなく、リトラ子爵家が管理するザラスシュトル・オヴィ記念博物館に保存されている、かの英雄が失踪直前に完成させた〝双子〟が最高傑作である。
また、数代前のカリス公爵が作らせた噴水の〝姉妹〟は、その瞳は翠玉ではなく蒼玉であり、若干ドレスの意匠や体格そのものが異なるのは、〝本人〟のように、夏至の正午になると彼女の影が消えるように計算されているため傑作として名高い。(ただし、〝本人〟が影を失うのは朱夏の終わりと潔冬の終わりの年2回である。)
このまま黙っているわけにはいかない……スティファノスは、身を乗り出してドルシアの手に触れた。
「僕に至らないところが」
「ち、違います。そうではありません」
「それなら、聞かせてくれる?」
やがてドルシアは覚悟を決めてまっすぐ婚約者の青い瞳を見つめながら尋ねた。
「……ファンは、本日いらっしゃったヒストリア閣下をどのように思いますか?」
「メロディのこと? そうだなぁ……アレクと一緒にいるときは暗めの色ばかりだったけれど、やっぱり明るい色が似あうと思う、あのドレスも、すごくかわいかった。ほら、シプリアナ様との色違いの。あの子が暖色系統を着ているイメージはあまりなかったけれど、よく似合っていたよね」
「ならばよく覚えておいでですよね……? イードルレーテー公爵令息とご一緒のとき、彼女の美しさに並ぶものはありませんでした」
不思議と心は凪いでいた。ただ事実を事実として受け入れているだけ、口調も静かだ。
まるで舞台の上から射抜く視線を向けられた観客になったように、スティファノスは固く口を閉じた。噴水に反射した光が、〝双子〟の瞳の青を掬ってふたりの髪に色を見せた。ドルシアは自分が贈ったブローチの遊色らしいものを金髪の中に見つけて、目を細めた。
「滅多に社交には姿をお見せにならない方ですから気になってしまうのは無理もないでしょう。私も、同じパーティに居合わせたら嬉しかったもの。憧れの舞台女優がお忍びされている様子を偶然見つけた気持ちに似ているわ。なんだか、私と彼女は違うと見せつけられても……当然のことだと納得できるの。自分を卑下しているのではないわ、そう、ただ――」
ドルシアは天に手を伸ばす〝双子〟を見つめる。まっすぐ伸ばされる指先の健気さが、素直さが羨ましかった。同時に、上を向いていれば緩い春風がまつ毛を乾かすのを手伝ってくれるらしいと気がついた。
「公子様のお隣で時折見せる彼女の笑顔に、いくつの視線がひきつけられていたか――同性として悔しくないと言えば嘘になります。しかし、進んで対立しようと思わなかったのは家門の関係性もありますけれど、彼女の瞳には……あの青い果実のような、無垢な瞳は、いつも公子様しか映っていらっしゃいませんでした。ですから――っ……」
ここで涙を見せるのは卑怯だわ――ドルシアは鼻の奥の痛みを奥歯で噛み殺して若干潤んだ瞳を瞬きで無理やり誤魔化した。
「ファンの婚約者は私だけれど、彼女に奪われてしまうかもしれないと思ったら怖くて……あなたの運命の人では無いのよって伝えておきたかったの。あんなに泣きそうな顔をするとは思い至らなかったのです。いいえ、そうだとしても、意地悪しようと思って実行したのですわ」
ドルシアは立ち上がって頭を下げた。涙を出し切ってしまうなら今しかない――緊張を解いた瞬間、芝生が地に零れた水滴を隠してくれる。安心して言葉を紡ぐ。
「いつまでも幼い子どものような嫉妬ばかりでごめんなさい。年下の少女にまで意地悪をするなんて――」
次の瞬間、ドルシアの視線は黒で埋められた。否、よく見ると濃紺――スティファノスの服の色だった。
「僕、そこまで考えていなかったよ。思わず懐かしくなってしまって……不安にさせて、嫌なこともさせてごめん」
思わぬ謝罪に、ドルシアは何を返せば良いのか、混乱してただ腕の中で鼓動の速さと体の熱さを自覚していた。不意に体が離れて心惜しくなるがあまりにもまっすぐで真摯な瞳に射抜かれた。婚約が結ばれてから数年、すっかり自分の背を追い越した婚約者を見上げる。優しく涙をぬぐわれながら、目が逸らせない。
「ドール。僕は、君が隣に立って恥ずかしくないようになりたいと思っている。考えが至らないことも、今日みたいに不安にさせたりすることも……申し訳ないけれど、きっとあると思う。それでも、君は僕の隣にいてくれる?」
「っ……はい、こんな私でよろしければ」
「君が良いんだよ。たとえ何を言われようと、君は僕の光――僕の心は君だけのものだから」
スティファノスは婚約者の髪を一束掬うと、口付けを落とした。ドルシアはその光景を前にさらに全身が熱くなるのがわかった。