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星と波とエレアの子守唄  作者: 視葭よみ
綻ぶトリレンマ
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慣れ親しんだ体調不良

 春麗祭から翌日、メロディがベッドから下りたのはすっかり日が傾くころだった。夜半過ぎに帰宅してからベッドに体を休めたのは満月が南西の空に佇んでいたのだ。侍女たちは気を遣ってなのか、いつもの時間には起こしにこなかった。家の仕事を始める時間が近くなると、ヘレンとフィリーが解熱薬や軽食としてヨーグルトと乾燥果実を持って現れた。


 目は覚めていたものの自力で起き上がるのは難しく、メロディは侍女たちの手を借りた。ふわふわとした思考の中で額や腕を冷たい濡れ布巾で優しく拭われていく。何も言わない主人に「離れから彼をお呼びしましょうか?」フィリーが提案した。離れの彼とは、オルトのことだ。疲労によるものだから不要だとメロディは答えたが、フィリーの表情は晴れない。虚弱体質にもかかわらず無理を通そうとしてしまう主人の性質は幼いころから変わらないのだから、どうしても心配は先行する。メロディも自覚はしている。食事や服薬を済ませて、ゆっくり休むと口約してから皆を退室させた。蜂蜜酒で淹れた紅茶の尽力も空しく喉の奥に張りついた薬の苦みをむりやり食道の奥へ押しこもうと空気を飲んでみるが無意味だと悟りやめた。


 あらためて柔らかなベッドに体が沈む。体が熱を発散する代わりに布地がそれを吸収する。にもかかわらず、悪寒のために寝返りで鬱陶しい暑さをどうにかするしかなかった。ここまであからさまに体調を崩したのは、やはり、いつかの王家主催の祝祭翌日以来だと記憶している。当時も1日しっかり休めばある程度回復した。今回もきっと同じだと信じてメロディは意識を手放した。






 気がつくと、長い長い廊下を走っていた。

 すれ違う使用人は目を丸くしながらもほほえましく、しかし仕方なさそうに避ける。「焦られては危ないですよ、転んでしまわれます!」フィリーの声が窘めようとする。12歳くらいの彼女の前方を軽やかに走っているのは――まだ5歳くらいのメロディだ。


 その薄緑を基調としたドレスは名門貴族の令嬢が身を包むのにふさわしい上品さだった。令嬢のおてんばがなければ、絵画として後世に残されてしかるべき繊細さを有している。さて、平面から飛び出したような彼女らが朝から急いで向かっているのは庭園の端に位置する温室である。秋の暮にもなると、庭園の色はどうしても少なくなる。代わりに温室では環境が整えられている分、四季折々の草花が蒼生している。


 到着するころには、フィリーはすっかり肩で息をしていた。メロディも相応に疲れているはずだが、それよりも自らの興味を優先させる。


「見せて見せて」


 幼い少女は、庭師の青年を急かした。青年は微笑んで温室近くの建物へふたりを誘った。


「はい、お嬢様。持ってまいりますので、そちらにお座りください」


 楽しみが抑えられないメロディを一旦フィリーに侍女に任せると、彼は部屋の奥へ消えた。戻ってきたときには10冊近くの本を抱えていた。大きな音を立てないように、木を組んだだけの簡易テーブルに乗せる。下の2冊を残して、他のは別の山にした。


「さあ、お嬢様。この本の下にありますよ」


 メロディは青年に手伝ってもらって上の書籍を持ち上げて傍に置いた。


「わぁ……!」


 メロディもフィリーも感嘆の声を上げた。本の表紙の紙上では、純白花がその時間を止めていた。よく見ると、うっすらと脈が広がっている。かたわらで青年が「上手くいきましたね」と評価する。メロディは物珍しそうに観察を続けながら「これで完成なの?」と尋ねる。


「はい、押し花はこれで大丈夫です。続いては、こちらを栞にしましょう」


「する!」


 青年の提案に対して、ぱっと花が咲くようにメロディは元気よく手を挙げた。そう言いつつもその後の作業を担当したのはほとんど青年だった。メロディの目の前に平木片を置いて、下地となる薄紫紙と、さらに白い押し花が乗せられた。その隣で、メロディの指示に従って青年が押し花の位置を調整した。整え終えると、さらにその上から透けるほど薄い紙を重ねる行程になる。真剣な青年の横顔を、メロディとフィリーは固唾をのんで見守る。ふわりと、白雪が舞い降りた。青年はテーブルに背を向けて一息ついた。続いて、金属板に斑がないように糊を広げて再び花に向き合う。薄紙が移動しないよう、風を立てないように金属板を下ろしていく。完全に密着したのを確認すると金属版の上から数秒だけ体重をかけた。

 金属板を裏返し、下地から剥がし取る。白雪はすっかり溶けていた。脈は見えにくくなっていたが、花がきれいだったから気にならなかったのだろう。メロディはきらきらと瞳を輝かせていた。フィリーはその様子をほほえましそうに眺める。

 青年が「あとは乾くのを待つだけです」と言う。メロディは「いつ乾くの?」と尋ねて「半刻もしないうちですよ」と返された。なんともない会話を続けていると、時間は過ぎていった。完成した栞を手に、幼いメロディは青年に礼を告げると、行きと同じくフィリーを伴って駆けていく。その先には――






 ぼんやりとベッドの天蓋が紫の瞳に映りこむ。満天の星空がモチーフにされた空間は、幼いころ一緒に母のフィーニックスと眠った夜が思い出される。よく父のレノスを含めて3人は天体観測をしていた。深い色の天球には、青や赤や白の、それぞれの好きな大きさで散らばっている。それらが何を意味して何を表しているのか、当時のメロディは知らなかった。一緒に見上げている両親も曖昧だった。いや、レノスは娘にきらきらと尊敬のまなざしを向けられて、学園で習うよ、とごまかしながら笑っていた。他方、知識も正しさも幼いメロディには関係なかった。ひとりで見上げるよりも煌めく星をつないで誰かと笑いあえる。それが重要で、好きだった。

 今はいろいろなものの名前を知っている。どうつながっているのか、どうつなげればいいのか、知っている。しかし、空を見上げることについての好悪はもう無く、癖だけが残った。閉じられたカーテンから日光が零れる。ほのかな暖色光から察するに、もう数刻もすれば東の空には欠けた月が昇るだろう。


 隣室へ移動すると執務机のいすに腰掛けた。円柱状の天蓋を持ち上げようとしたが、鍵が正しく抵抗する。

 鈴を鳴らして、駆けつけた従僕に執事を呼んでくるよう言った。が、直後のノックで入室を請う声はミハエルのものだった。許可するなり入室した彼に「湯あみは、月が東の空に見えてからにする」と告げた。


「本日はお休みになられるとばかり」


「明日には出勤するもの。これ以上寝ていたら体が鈍るわ」


「昼餉も召し上がられていないでしょう?」


「鍵を開けたら軽食を持ってきて」メロディは答えた。執事の瞳にわずかに咎める色が混ざるが気づかないふりを続ける。ミハエルは視線で従僕に命じながら「お飲み物は今朝と同じものでよろしいですね?」と問う。


「もう平熱と変わらないわ、薬はいらない」


「薬の作用によって解熱しているように思います」


「ならば軽食に混ぜて。今はリゼが飲みたい」


「かしこまりました、善処いたします」


 ミハエルは机の鍵を解錠すると天蓋を開けてから退室した。

 しばらく座って何もしなかったメロディだが、そっと抽斗を引いて、中に栞と短刀があることを確認するとすぐ閉じた。続いて別の抽斗からペンを取り出した。

 今から家の仕事に取り掛かるのは仕事として重すぎるので、春麗祭間際に受け取っていた書状の返答を書き進めようと決めた。円環をなす星々に飾られた封筒から、緊急ではないが、新緑祭の慰霊の儀における申請書を取りだした。新緑祭は夏至から9の月下旬まで行われ、期間に比例して式事が多い。その中でもこの時期から準備が必要なのは慰霊の儀で詠む諡名の選定である。新緑祭は、目に見えない存在を敬うダクティーリオスの国民性が手伝って、王家主催の祝祭の中でも人気が高い。メロディも夜空に灯籠を浮かべる過程や日の長さを理由に研究実験や制作に熱中するイリスやオルトが天体観測につき合ってくれるので、新緑祭は好きだ。

 慰霊の儀は、夏至に行われる風の供儀にて迎え入れた精霊や先祖の霊が有する諡名を詠む儀式のことであり、新緑祭の最終式事である精霊送りの舞台を整える式典だ。そのため、詠みあげられる御名であるか国が判断する。毎年申請しては選定されるため煩雑にも感じるが、それが伝統のもつ側面でもある。


 メロディが列挙する御名は昨年と変わらず、初代から先代の名前に加えて祖父と母の名である。初代カーリナ・アストライアー媼ノ命からはじまり先代クリセイデ・ヒストリア刀自ノ命、ソロン・ヒストリア大人ノ命、フィーニックス・ヒストリア郎女ノ命を含めて36の御名を列挙した昨年度の申請ではヒストリア家として申請した御名に黒塗りはひとつもなかったため、最低限の礼儀として、誤りがないか慎重に確認するのは怠らなかった。

 メロディは、最後に自らの署名をする。後をミハエルに任せて、軽食と紅茶に向きなおる。空腹に優しいエッグレモンスープは、若干の季節外れをものともせずメロディの心身を温めた。食後、蜂蜜入りのリゼに満足していると、ヘレンが愛らしいガラス容器とともに入室した。容器には、乾燥した花弁がブレンドされた茶葉だった。


「イードルレーテー夫人より送られてまいりました。お手紙もご一緒です」


 春麗祭においても公爵夫妻は気遣ってくれたので軽く挨拶だけを交わして婚約解消やそれに伴う話題は表情にも出さないでくれた。春麗祭間際に送った書状の対応も手早く的確だった。手紙でも慮る内容が大半を占めている。


「こちらの茶葉はオルトに渡して調べてもらって」


 メロディが返事の用意を進めながら告げると、ヘレンは一瞬だけ何か含んだ表情をしたが、言葉はなかった。目的を理解しているからこそ、何も言わない。

 メロディも人を疑わずに済むならそうしていたい。イードルレーテー公爵夫人の優しさを知っているため可能なら彼女を疑いたくない。そうするための方法が他にあれば良いのだが、現状、これが最善だった。

 何もなければ美味しく頂戴する――問題はないとメロディは心の中で自分に言い聞かせた。


(公子さまはわたくしの体調を慮って、これまであまり社交に誘われなかったのかしら)


 不意に、アレクシオス・イードルレーテー公爵令息のことが思考に浮かんだ。これまでの交流から婚約解消の提案を含めて、かの一族は非常に感情の機微に敏く、立ち回りが上手だとメロディは改めて思った。

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