【白亜のサルコファガス】
彼女は、その部屋に少女を閉じ込めた。泣きじゃくる――開けて、ここから出して――悲痛な叫びが響く。それでも鍵をかけたまま扉の前でその声を聞き続けた。
諦めたのか、疲れたのか、やがて響きはすっかり小さくなった。
彼女はようやく扉に手を触れさせた。
「ごめん。でもね、泣いているだけの貴女には価値を見出せない」
優しい声は、扉の奥に冷たく告げた。
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男は少女の顔を掴んであげさせる。顔にかかった長く美しい金髪が顔の横に流れた。現れた顔は、人工物ごとく完璧と呼ぶべきほどの造形――もはや芸術の域にあった。
なめらかな肌を指先で撫でながら男は満足そうに口角を上げた。「猫よ」呼びかけながら冷たい瞳を検めるように顔の角度を変えさせ、ふたたび正面を向けさせた。
「お前は余のものだ。どこへ行くつもりだった?」
「陛下がお気になさることではございません」
「答えろ。何がそう気に食わない?」
少女は視線を下げずに鋭い烱眼を崩さなかった。やがて言葉を見つけたのか、つぶやくように請う。
「わたしの剣を、お返しください」
「何……悪い扱いはしていない。あれのはただの気まぐれだ。まあ、お前が気に入ったと言うなら戯れも一興なればこそ」
「後悔することになりましょう」
蒼い晴眼はただ男を射抜いていた。鉄鎖に繋がれた両手を握りしめるとわずかに金属がこすれ合う音が静寂に溶けた。男は面白がるように「ほう? 余を脅すのか?」と尋ねた。
「警告しているのですよ」
「ふん、得意の予言か?」
「あいにくではございますけれど、予測でございます」
男は笑い出す。石の壁に囲まれた空間ではよく響いた。他方、少女は「3年です」ひるまず告げる。
「3年以内に、この国とともに貴方様が極めし栄華は終焉を迎えます」
「お前が終わらせる、と?」
「いいえ。3年以内に〝慈愛の魔王〟が大陸の今を変える日が訪れます。魔王の血涙が地に染みわたり、間もなくたわわに成った希望の実を手にするとき……陛下は終焉に至るのです」
「はっ……あんな小国に何ができるというのだ? たかが緩衝国のひとつ、時を選ばず潰せる」
「ゆえに貴様は破滅すると告げてやっているのだ。聞く耳を持たぬというなら」
「いい加減、口を慎め」
「親切ゆえですのに……残念でなりません」
静謐の中での睨み合い――男は背を向けると牢を出た。
少女は深く細く息を吐ききった。
目を閉じると、知っている景色に切り替わることを理解している――――何処というには大変不便な土地。足元すら危うい暗闇は、世界を包みこむ夜空にまるで引けを取らない。白亜の殿堂が柔らかく浮かび上がろうとする。壮大な大樹に取り込まれそうな建物は、切ないほどに純白である。
そこに佳人はひとり佇んでいた。
歩き出すと、黄金の長髪はゆるりと重力に従う。装飾のない純白の衣装に流麗な肢体を包まれたその姿は、もし天より舞い降りた存在であると……物語で目にするような主張であろうと、容易に可能性を見出せる。彼女のまなざしは、見つめられれば己の奥底まで見透かされそうなほど冷たく鋭く痛く、悲しく洗練された色を映そうとしていた。
裸足に伝わる石の無機質は心地良く熱を奪う。機嫌を麗しくしようとする意識とともに、いくつかの足音を聞いているつもりで佳人は足を進めた。
狭い狭い通路を進む。段差や曲がり角を進む。空気が籠りやすい構造だが、見捨てられた建物内を荒らすものなどいない。塵ひとつない空間を、壁に沿って器用に進む。直線かと思ったら曲線に変わり、突然、段差が現れる。もう何千何万も歩いた道だが、油断していると不快な思いをしやすい。せっかく意識していても、おちるときはおちるものだ。
重い扉を引いて広い空間へ体をすべりこませる。途端、壁際にあかりが灯る。
ようやく足元の輪郭が見えた。何も変わらない小さく華奢な足だ。そっと上げれば、体の重心が移動する。平衡を保つために上半身は後ろに傾く。やがて後頭部が扉に触れて。いくら広い空間でも限りがあると思い出した。体勢を戻して後ろ手に扉に触れた。ひんやりと冷たく、自らが持つ体温を思い出した。
部屋の中央、静置されている石棺がぼんやりと現れた。石棺には、高さが異なる水路が6つ設定されている。上ふたつからはもうしばらく水が流れた痕跡はない。下から数えて4つまでの水路から、水はこぼれるように待ち受ける石の溝を流れていく。
佳人は、流水にそっと触れた。
少女は、歌いはじめた。
初夏の夜は心地よく体の熱を和らげてくれる。思考が冷めるにつれて、心の内にある物語は一時の決意ではないのだと確信したらしい。自信が笑みに表れる。
凛と鳴く月影をその身に受けながらゆっくりとまっすぐ歩みを進めていく。
深く深く息を吸い込んで、大切な歌詞をひとつずつはっきりと空気を震わせる。次第に鼓動も落ちつき、静寂にのびやかな歌声を響かせる。
ひとつ深呼吸をしながら脇に抱えた皮革の書籍を額に押しつけた。
古書を下ろして振り向くと、柔らかく微笑んだ。
星々の瞬きを見つめる。しばらく何かを探すように視線を彷徨わせると、いくつか言葉を紡ぎ、さらに笑みを和らげた。
少女の髪が小夜風を含んで膨らむ。ふたたび唄を諳んじるようにつぶやく。
ふわりと。
言葉と同時に、飛んだ。
さいごの詩を音階に乗せて。
涙を称えた、宝石ごとく瞳をわずかに細める。透明に変えられた石碑に映されるその淡い映像へ、寂しげに、誇らしげに、愛おしそうに手を伸ばす。
残酷な遊びだ。趣味が悪いのは承知している。しかし、やめることができない。
あのとき、思わず声に出してしまった言葉――飲みこんでいたならば、違う未来があったのではないだろうか……今もなお考えてしまう――提案に、否を突きつけた。文字など書いたことないと。しかし向こうは、あるでしょう、ぽかんとして言った。文章という意味だと訂正すると、笑った。
この大空とともに笑って生き抜いてみせる。
この誇りを守り抜くために、今を生きる。
復讐を完成させると、ともに約束したのだ。
未来のために過去がある
過去があるから未来がある
だから、過去をつくるために未来があると信じられる
事実だ。そこには一片の曇りすらない事実だけだ。
あの日――確かに、誇りを懸けると誓ったのだ。構想はまだ終わってなどいない。どれだけ待とうと姿を見られてはならない。それが、この世界の法則――ならば、違えるわけにはいかない。
佳人は無音を待った。
何度も繰り返される言動、問答――必要なことだと理解しているからこそ、立ちはだかる青年と無感情にいくつか言葉を交わす。
(本当は謝りたい……本当に思っている。後悔はないけれどね)
心のままに声を荒げると青年に抱き寄せられる。胸の鼓動が生の証、温もりはゆりかごのようだった。いつまでもこうしていたい……繰り返すたびに願わずにはいられない。だから、いつも体を引き離すのに苦労する。
からかってみれば面倒なうんちくを述べてみせる――ああ、これが合図――佳人は、青年に口づけた。
「やっぱり上手ね、私の心を切り裂くの」
視界も思考も、憎いほど澄んでいた。青年の表情がよく見える。直後よろけて膝をつく姿も、聞いていたとおりの薬能だった。たった一度だけ聞いた疑問、繰り返し何度も聞いても彼らしくない。彼らしくなさが、まさに素の彼らしかった。きっと恋敵が唯一知らない彼の本質――苦しかった。悲しかった、辛かった。わかってもらえない事実が、その原因を理解している自分の思考が憎かった。
ただひとつ、いつ終わるかも知れない苦しみが続いたとしても、ただひとつ珠のような慰めを手に入れた少女はもう何も恐ろしくなかった。
「大好きだよ、エイル」
月夜が煌めく雫と艶やかな笑みを照らす中、佳人は青年を残して廊下を急いだ。
(ちゃんと言えた……やっと言えた……!)
繰り返しても心の高揚は消えない。誰にも消せない。
石棺の隙間から夜空が入りこむ。月は儚くも誇らしく陽の光を跳ね返す。その光は瞳から零れ落ちる流水に煌めきを齎す。
どれほど時が経とうと、変わらぬ輝きにはもはや怒りなど抱けない。やりたいことも言いたいことも、この身体である限り、尽きた。
「のこす言葉はありません」
だから、この世界に遺せる最後の言葉はこれしかないのだ――佳人は確信していた。
この心に綻ぶ花には名前などない。学名すらいらない。幻なんて前置詞も、月花や薄明なんて異名もいらない。映りたかった瞳にはさいごまで見向きもされなかった哀れな女で構わない。
思い出ひとつさえあれば、愛のゆりかごに揺られ幼い夢を見ていられる。
誰だろうと同じこと。夢からは覚めたくない。理想か現実か、霧散したほうを嘘にしなければならない。こんな残酷な二者択一を己が無意識に合理的に実行しているのだ。とはいえ、見たくない夢を何度も見せられるのは気に食わない。
俺を突き放した美しき彼女は、そのときだけは、ただ醜かった……――後世に綴られた、その一節に心は震える。
まだひとりで眠るのは怖い。ふたたび目覚められる保証など何ひとつないのだから。
音が聞こえて来なければ生きていると確信できない弱さを認めなければならないのは気に障る。しかし、幼い子どもが静かすぎる環境ではむしろ泣き出してしまうというなら――――――言語や意味を知らずとも、あの日、大切な恋敵がくれた言葉は未来の安らぎを信じさせてくれた。