春麗祭前の休暇
翌朝、目が覚めてからもう一度眠りにつこうとしたがうまくいかなかった。メロディは諦めて体を起こした。
今日は4の月15日――春麗祭は2日後の夜に開幕である。加えて、女性の社交準備は非常に時間を要するのは周知の事実だ。最終衣装合わせすらまともに済ませていないメロディには当日まで休暇が与えられている。4日前の提案の衝撃のためにすっかり頭から抜けていた。
寝台から体を降ろすと、鏡台に置いていた本に指を触れさせた。【創星神話】の写本である。その隣には、昨日、オルトが見つけてくれた論文とその要約が重ねられていた。
メロディは写本の内容を最初から最後まで目を通すと立ち上がり、ひとり屋敷の隠し通路を進んだ。
目次では【天ノ御前乃章】、【木ノ御成乃章】、【土ノ御実乃章】、【海ノ御道乃章】だ――他方、本来の物語の順番は【ディア】、【クローヌ】、【ウラヌー】、【ポシドーナ】だという。
読んでみると理由は理解できた。英雄ペルセウスが【ウラヌー】で〝星の乙女〟と呼ばれる少女に出会うまでに、彼の身は旅の途中にあると記述されている。加えて【ポシドーナ】ではふたりはともに行動しながら危険をかいくぐりやがて国を――ダクティーリオス王国を建国する。ならば〝星の乙女〟と出会ったのちにたったひとりで【ディア】、【クローヌ】の冒険に身を置く英雄の動機が薄い。
ならば――――【ディア】で妖精のイタズラによって運命の相手に焦がれてた英雄が幾星霜の知識を宿すと言われる〝世界の大樹〟の枝を使って天楽をこしらえ想いを馳せる。その音楽に導かれた風の精霊が、星鏡と呼ばれる湖の難題を与え、見事応えた彼に宝盾を授けた。【クローヌ】では星典の予言による地の精霊の怒りを鎮めようと大迷宮〝白亜の殿堂〟へ乗り込む。手に入れた赤い糸とともに迷宮を進み、天秤の問いに答え宝珠を手にすると悲惨な過去の出来事を知ることができた。赤い糸を手繰って迷宮を出ると、地元民には地の精霊が再生のためにしていることだろうと伝えた。赤い糸はなぜか英雄の道筋を示すように先へ先へと延びていた。【ウラヌー】では赤い糸に導かれた英雄が星の乙女と出会う。星の乙女は英雄に赤い糸に繋がった星鎧を託し、共に戦うことを求める。火の精霊が科した〝試練の灯火〟を乗り越えたふたりは天舟でさらに旅を進める。英雄は天杖を探すため、星の乙女は星杯を探すため、一度だけ二手に分かれる。【ポシドーナ】になると、水の精霊の〝流水の記憶〟によって英雄と星の乙女は天舟の上で再び巡り逢う。このとき、天杖、星杯を獲得していた。宝剣を探しながらふたりはお互いに空白の時間を埋める。天杖の力で海を割り、宝剣のもとまでたどり着くと星杯の水をかけて剣を獲得した。ふたりは陸地へ帰還して国を建てた――――このほうが物語として良質だと評価する者たちが多数らしい。
この物語が、ヴィヴリオ座におはすソフォクレス公爵家の有する〝星典〟に記されている建国神話である。ただ、家宝なので実物を拝見したことがあるのは公爵家の人間でもごく一部だ。現当主の姪であるメロディですら、残念ながら拝謁には預かれない。原本を確認すれば物語の順番に関連する問題は容易に解決すると思われるが、それまでの準備や確認が非常に困難なのだ。
たどり着いた部屋……扉を押し開ける。窓のない部屋だが、ぼんやりとした日光がどうにかたどり着いて室内を灰色に染め上げていた。部屋の中央では、透明な素材の上皿天秤が静置されていた。その背後にあるつづれ織りの家門――調和を意味する八角形、短刀を背後に携えて両側に腕を下げる天秤――気が引き締まる。
家門当主であれば多少移動は面倒だが、容易に家宝を拝める。〝星典〟に関する要請を受けないのは伯父の意図なのだろう。
メロディが自室へ戻るとヘレンやフィリーが姿を現した。まもなく客人が訪れるため用意を急ぎたいという。普段の休日のようにシンプルなドレスに身を包んで銀髪を編まれて、ちょうど到着したと知らせを受けたので応接室へと赴いた。入室するなり挨拶すると、客人はソファーから腰を上げた。
黒髪、深い海のような瞳の紳士――コンスタンティノス・カリス卿は、上品な光沢のある上下に身を包んでいた。
私服に合わせた髪型らしい。職務の合間に面談したときとはまったく異なる印象だ。一瞬だけ、どなたかしら、と記憶をさかのぼろうとしかけた。
「清水を用いて天恵をもたらさん――カリス公爵家コンスタンティノスでございます。おはようございます、ヒストリア閣下」
「おはようございます、カリス卿。どのようなご用件でしょう?」
「おや。手紙に記し忘れていましたか」
記してあるのだろう……確認していないとは言えずメロディは穏やかに笑みを浮かべる。カリス卿はそれ以上言わずに、奇術のように拍手するといつのまにか封筒を手にしていた。差し出されたそれをうけとったメロディは内容を確認する――婚約打診の書状である。カリス公爵、カリス卿の署名はすでにあった。
「花は不要でしたね」
「ええ、閣下の手を取ることが許されるのでしたら」
カリス卿はメロディのかたわらへと歩みより膝をつくと、手を取り、その功を額へ押し当てる――敬愛の礼をしてみせた。アレクシオスと手をつないだことはある、しかし、カリス卿の手とは全く違う気がした。何も言えずにいると、ノックが聞こえてきた。姿を見せたのは、執事ミハエルだった。
「用意が整いました」
メロディが意味を図りかねて「用意?」と問い返すとカリス卿は「周囲の計らいですよ」と答えた。そのままカリス卿に手を取られてメロディは隣室へ移動する。
その部屋の中央――薄紅を基調とした春麗祭のドレスだ。かわいらしいデザインだが幼く見えないのは、真紅や金の繊細な秘めるような刺繍のためだろうか。緩やかに波打つ薄紅のドレープに貫かれる強い色彩の糸は、メロディに亡き母を思わせた。母に守られているような感覚が心地よい。同時に、イリスが作ってくれた花をモチーフにしたアクセサリーはきっとこのドレスとよく合うだろうと思った。
「気がかりなことでも?」
「城下で連続事件が、少し」
「ああ。3月からの事件ですね。何か問題が?」
「いいえ。新聞を確認したら事件の重要参考人を連行したようですから、春麗祭の前には解決するでしょう」
「さすが〝氷柱の白百合〟の言葉には説得力がありますね」
カリス卿は笑みを浮かべると舞台俳優ごとく芝居がかった様子で「さて」とつぶやいた。「私がいては針の進みが良くないでしょう。それでは、当日、お迎えに上がります」片目を瞑ってみせ、暇を告げた。
翌日、翌々日はすべて春麗祭のために充てられた。女性の準備とは得てして時間がかかるものである。17日に至っては、日が高く昇るころから、満月が高く昇るころのために準備に取り掛かる。
慣れない日程に負担はあるが、この日、メロディは今朝から上機嫌だった。朝刊でも班長からの書状でも、犯人逮捕――事件解決の速報がもたらされたのだ。〝星への誓い〟を行ったその日、男爵夫人の事件がボトルネックとなって見逃していた職人崩れの商人の男が再び捜査線上に浮上したらしい。エレウシス領は職人を奨励していることもあり、犯人は地区を跨いで商売を行うための個別許可証は獲得に易しく、加えて、犯人は若く魅力的な容姿と性格だ。同年代の女性を標的にするのは難なかっただろう。彼の失敗と言えば、男爵夫人の変装を見破れなかったこと、彼女が武器を用いて抵抗してきたこと……逮捕を覚悟したが、新聞を見れば事件自体が発覚しない。その後、犯行を再開したが逮捕される気配すらない。ならば……そして、犯行を再開したこと――4件目以降の事件では遺留品が多く発見されたことからもわかるように、突然逮捕されたことに理解が及んでいないらしい。監査に要請して〝疾風に聞く〟をはじめとした新聞社に対して情報統制した甲斐があったらしい。
不意に、侍女たちの感嘆が聞こえてきた。顔を上げると、用意が整ったのだとわかった。薄紅のドレスは丁寧にメロディの身体に寄り添い、銀髪はどの角度から見ても美しく整えられてレースや宝石の装飾が成された真紅のリボンでまとめられていた。
「本当、手先が器用ね」
「お嬢様の美しさあってこそですわ」
「ありがとう。ところで、本当に大丈夫かしら。幼く見えない?」
「屋敷の者たちを呼び出して意見を集めましょうか?」
「そ、そこまではしなくていいわ」
直後、ミハエルが姿を現した。侍女のひとりが、ミハエルに尋ねる――このお姿、どう思われますか?
「お可愛らしく思います、閣下」
諫めるかと思ったが、彼は表情を変えず言ってのけた。メロディは執事に立ち上がって抗議する。
「要するに、幼く見えるということかしら?」
「いいえ、閣下…………初めて閣下が爵位継承権を主張されたその日よりも前から、僭越ながら貴女を見守って参りました。しかし私には成長して洗礼されていく貴女の魅力を正確に言い表せる言葉を見つけられず……故に、幼き日の貴女が喜んでくださった言葉を今もこうして大切に用いております――本日の閣下は、大変お可愛らしいです」
言葉を探しながらゆっくり答える。細められたヘーゼルの瞳は、あまりにも暖かく柔らかだった。恥じらうように視線を逸らしたメロディに、ミハエルはカリス卿の到着を告げた。メロディは足早に応接室へ向かった。
「カリス卿。お待たせいたしました」
「…………」
何かおかしなところがあるのだろうか……メロディは不安になって髪型が崩れない程度に首をかしげてみた。
すると、はっとしたカリス卿は
「ああ、失礼しました。麗しい妖精が現れたのかと……思わず見惚れてしまいました」
平然と礼を返したメロディだったが、内心では(言葉選びだけではなくて、このような技法もあるのね?)すっかり感心していた。おかしなところはないとわかり一息ついた。
「それでは、よろしいですか?」
差しだされた手に、自らの手を重ねた。
いざ、春麗祭である。