真意と希望の推測
帰宅後の所用を済ませたメロディは自然と離れへ足を運んだ。やはり疑問を抱えた状態では落ち着かない。だから自分が解決できない疑問について羅針盤を持っているだろう友人らのもとへ赴きたくなるのだ。
ほとんど満月にもなると照らされた廊下はすっかり明るい。しかし、月光というもはの日光とは異なった妖しさを内包している。星明かりが心なしか穏やかだった。緩めた足取りにふと思い至り、明日も職務があるからと駆け足で目的地へと急いだ。
離れの奥の部屋を視界に収めると、その手前の部屋が気になる……小さな話し声が聞こえてくる。足音を抑えると、内容はわからないがイリスの声であることに間違いないらしい。小声である以上、あまり聞かれたくない事情があるかもしれない。しかし、ここまで来てしまった。ここで引き返せば疚しさの証明のような気がしたメロディは、悪いとは思ったが扉のすきまから室内をのぞきこんだ。
「怖っ……ううん、怖くない。かわいい」
あいにく、室内にはたっぷり月光が入ってきていた。赤髪の友人は、ただ感情が霧散している独り言とともに室内を歩き回っている。とにかく、話しかけてはいけないと本能が教えてくれた。明日でも構わない、と理由をつけて本邸へ逃げ帰ろうと体の向きを変えた――そのすぐ目の前に、影が――黒髪の友人が佇んでいた。
「ご、きげんよう。水を差してはいけないと思って」
「……イリス……歩いてる、だけ……」
「え、ええ、そうね。いいえ、今日はね、ある論文を探しているだけなの。2年以上前に発表されたもので、題名が15語だったと思うのだけれど、ほら、ここにはたくさん論文が保管されているから」
「87」
視線を逸らしていたが、そっとオルトを見上げた。何も気にしていないのか、何か思うところがあるのか、仮面の奥の瞳はよく見えず、わからない。
意味を図りかねたメロディはただ言葉に目を瞬かせた。
「…………1600年、1月か、ら……今年まで、15語の、題名……世界学術機関が名を新たにしてから、発表、さ……れた、論文………………87、あるか、ら……探してるの、どれ……わからない…………」
「あっ、ええっと、11世紀末の皇国の軍事政策を批判するものはあるかしら」
「……13……ある…………題名,15語……は、【第6次大戦期エゼラフェル地域における未成年者強制徴兵計略に関する旧ピサラ王国の対処】……読む…………?」
「え?」
「……向こうの,部屋……ある……」
発見までに数日かかるのを覚悟していたが、たったいくつかの問答で事足りるのは想定外だ。あらためて友人の底知れない能力値に心服するばかりだった。
メロディは,はっとして答えた。
「助かるけれど、わたくしがいたら休めないでしょう? もう夜遅くだわ」
「……別に…………」
「体は大切な資本なのよ?」
「…………じゃあ、これも……また明、日……?」
オルトが見せた用紙は、先日、メロディが研究のために4つに分類したものだった。まごつくメロディに「……君,が……こっち、の、作業……してる間…………こっち、僕、要約……できる…………」とつけ加える。ワガママになっていないかと遠慮するとやさしく銀髪を撫でながら「……良い子、だよ…………?」と小首をかしげた。子どもあつかいされているような気がしたが、それよりも期待が勝った。
メロディはオルトに連れられた奥の部屋へ。机を前に椅子に腰を下ろした。
「……先に,こっち…………。自分、が、気にな、るもの……に、印、つけて……今日の、作業……は、それで、終わ、り……」
「印はいくつかしら」
「…………好きな、だけ……」
インクとペンを渡されて取り掛かる。改めて先日の用紙に目を通してみると、自分の思考はよく覚えているものらしかった。
【Λόγια=言葉】
真実の愛を貫かせてほしい
→嫌いにはなっていない。大切に思っている。でも、アナは……別の意味で、特別
お体に障りますよ
【Πράγμα=行動】
いつもの会話にしようとした→できなかった
ハンカチを受けとった・・・知らない方、男性
押し花の栞(イーリオスティア、白い花弁の花)を机に残された
【Δόξα=考え】
愛を優先したいと望まれている、その相手はわたくしではない
置かれた場所で枯れたふりして強く根を伸ばせるように、心を切り替える必要がある
→真実の愛について、知りたい
→研究してみたい
【Συναισθήματα=気持ち】
彼を嫌になれそうにない
イーリオスティアは門出の意味
→意図が読めない、でも明言されていない
わからないからこそ知りたい
それぞれの分類から3、4ずつ選択して☆をつけた。顔を上げると、オルトはすでに論文の内容を要約し終えていた。ふたりは一枚の紙を交換した。選びかたはそれで良かったようで、オルトは傍らへと机の上を滑らせた。
「……それで……?」
「え?」
「……論文だけ、なら……使用人に、頼め、た……か、ら離れまで……来な、くて……良かった……でしょ……? だ、から……本当、は……どんな用事、だった……?」
「……考えてみても、わからないことがあったの」
オルトの推測の正確さに観念してメロディは正直に告げた。「相談相手ならいる」彼の言葉に笑みをこぼした。
「事件の分析、本当にありがとう。助かったわ」
「……どう、なった…………?」
「捜査方針が正しいほうへ向いたと思う。5月の黄道議席前には良い知らせを聞けるのではないかしら」
「……そっか」
「気になったのはね、生存者はなぜ短刀を持ち歩いていたのかしら」
「……どこ、が、変……?」
「その……夫とは別の男性に会うための外出だったから……短刀は夫から婚姻時に贈られたもので、貴金属製で、重量もあったの」
「……邪魔?」
「端的に言葉を選ばなければ――。贈られたものを持ち歩くのは、相手への信頼があるからだと思う。でも、彼女の行動は夫への裏切り……自覚していなかったとは思わない。それでも、彼女は持ち歩いていたのよ」
メロディはそっと机の上に、押し花の栞と繊細な飾りの短刀を置いた。
「彼女の言動の意図がわかれば、少しはわたくしも自分の言動がわかると思うの」
「……どちらも、公子…………から……?」
「短刀は祖母からのものよ。ずっとわたくしには無関心な方だったけれど、西方へ征く当日にくださったそうなの。夫人のほうはまったく反対だわ。彼女が持ち歩いていた短刀は、夫が夫人の隣にいるために贈ったものだから。事情はまったく異なるのに、夫人もわたくしも手放せず持ち歩いてしまっている。同じことをしているけれど理由はきっと違うわ。そうでしょう?」
「……夫人は、婚姻時の短、刀……夫が、妻の安全、を、願う伝統…………祖母が、孫娘、に……短刀、贈るの、は……珍しい…………」
「祖母に意図なんてないかもしれない。〝天弓の魔女〟と呼ばれるような苛烈な方だったそうだから、幼子でも扱えるだろう小型のものを選ばれて、短刀になった可能性もある」
「……だいぶ、精巧、な……細工…………」
「ヒストリア家は黄道貴族だもの。依頼されれば職人だって下手なものは作れない……もちろん、これもひとつの可能性に過ぎないわ。わたくしが勝手に自分を憐んでいるだけかもしれない」
「……君の、祖母が……君へ、短刀、贈った理由――それを、考える……ために…………夫人が短刀、持ち歩い、て……いた、理由……判明すれ、ば……良い…………?」
「そうっ! わたくしは自覚なく手放せずにいるけれど、夫人は違うかもしれないでしょう? 不要な恐怖を煽りかねないから直接は聞けないけれど、考察することはわたくしにもできるわ」
「……できた…………?」
「いいえ、手伝ってもらいたくてここへ来たの。あなたならわかる?」
「……わか、ら……ない…………。人の心は……推測する、には…………複雑す、ぎる……。まずは、心……どこにあ、ると……思う…………?」
メロディは口の中でそっと「心」と繰り返してから、考えを述べた。
「この国には、〝ある万物への誓い〟〝星への誓い〟、ふたつの誓いがある――どちらも心に決めたことを言葉に、声に出すことで口約が成立する。〝ある万物への誓い〟は、汎神論に基づいて共通するものにともに手を当てて誓約を述べるわ。このとき、もう一方の手は誓う相手の手に触れている。この誓いは良心を信じることだから。両親が痛むときって、胸のあたりに違和感があるのよ。上司も部下も、良心が痛むと胸のあたりを手で押さえて苦い顔をしているから。だから、〝ある万物への誓い〟における心は心臓や鼓動のこと生を証明することに関係していると思う。〝星への誓い〟は、こちらはより拘束力というか誓約としての価値が高いわ。そして〝ある万物への誓い〟との相違点としては捧げる側の手を誓う側が自らの額に押し当てることにあるわ。額、つまり頭、考えること思考に関係していることが誓約の価値になっているのよ。だから、〝星への誓い〟における心は、頭部に近いのだと思う」
メロディはそこまで考えながらゆっくり述べると「長くなってしまったし、なんだか要領を得ないわね」と苦笑した。
「……わからない、こと…………知りた、い、なら……まず、わかること……整理して、分類する……必要、ある…………。君が、や、りたい……研究…………ま、ず……そこ、から……。今みた、い……に…………言葉に、し、て……いくの……大切。…………焦らないで、大丈夫…………」
「オルトがそう言ってくれると安心する。ありがとう」
時計の針が諸手を上げようとしている――さすがにもう休んだほうが良い。メロディは腰を上げた。
「……過去は、現在に……影響する…………。未来、も……現在、に影響、する…………」
「前者はわかるけれど、後者はなぜ?」
「……未来のた、め……に現在、で邁進でき、る……なら、きっと……未来、は……理想に近、づく……から…………。理想の未、来……のためになら、君は…………きっと現在の、努力……積み重ね、られるから………………」
「……」
「きっと……楽に、ならなくて……も…………折り合い、つけられる……」
「そうね。そうだと嬉しい」
こんどこそメロディは暇を告げて本邸へ戻った。
満ち切っていない月は天上へ――夜を明るくしていた。