貴公子の憂鬱
人に命を下しなれた起伏の無い口調と感情の見えない声色とともに周囲を圧倒するカリスマ性を纏う、氷のように冷徹だと名高い少女――メロディ・ヒストリア伯爵に対するカリス卿が抱いていた印象はこの面会で変化を見せた。
いかなるときも礼節を守る恭しさ、冷徹に事実を見る聡明さ、乱れた感情を隠そうとする健気な冷静さも持ち合わせている少女を前にして、第一関門突破を実感すると「よかった」と言葉を零した。
首を傾げて言外に意図を問う少女には、答える代わりに微笑みかける。
「取引は成立ですね。心配でしたら、星に誓いを立てましょうか」
「いえ。わたくしはあなたの良心を信じます。この門出がきっと良いものであると」
制服の懐から栞をさしだしながら告げられ、注目した。国花の栞は、まるで生花のままの薄紅を再現し得ているようだった。
「押し花の栞ですか。よくできていますね」
「ええ、わたくしもそのように思います。素敵な花の栞でしょう?」
不意に、深海の瞳と紫水晶の視線がまじわり、カリス卿はメロディに微笑んだ。礼儀だと直感したのか、少女は社交辞令の笑顔を鏡のように返した。それを合図としてふたりは右手で栞に触れ、互いの左手を握った。
「花の栞へ誓いを捧がん」
ふたりで声を合わせて宣誓する。
「其は無限の中に在りて有限なる存在、ここに始まり在りて終わり有らん。日輪を仰ぎ、紡がれし記憶を忘るること勿れ。反故さるるならば御天道様の道理を侮るも同義なり。これをもって、この誓いを尊重する」
〝ある万物への誓い〟を完了させると、互いの意志を確認するように再び見つめ合った。カリス卿は先に立ち上がり、手を差し伸べる。逡巡したが、メロディはその手を取り立ち上がった。
「これでよろしくありますか?」
「ええ。まずは春麗祭へむけてよろしくお願いします。婚約については折を見てからにしましょう。性急に過ぎると邪推を生みますでしょう?」
「さあ、いかがでしょうか。思うに、興味です。タイミングではなく、人物なのです。経験から申し上げさせていただきますとね」
「そういうもの、なのですか?」
「はい。事実とは、事象と人物が織りなすのですよ。性急さが愛の証明ではありません」
少女が浮かべた寂し気な笑みが印象的だった。すぐに話題を変えるように「この後はどちらへ?」と尋ねた。
「はい、職務に戻ります。まだ終業時間までしばらくありますから」
「では、近くまでお送りいたします」
「よろしいのですか?」
目を丸くしてみせたので「ご迷惑ですか?」と尋ねると、若干の困惑の色はみえたが承諾された。他愛ない会話をしながら、やがていくつか廊下を曲がり練武場近くを通りかかった。そのとき、紫水晶の瞳は金髪の青年の姿を捉えてしまった。
「アレク様!」呼び止めてしまった自分の行動に驚いていたが、時間は戻せない。呼ばれた当人は躊躇したがゆっくり振り向いて辞宜をして、メロディはそれを受けとった。
「……あの、お時間ありますか?」
「いえ。すみません。これから用事がありますので」
「そう、でしたか。その後は?」
「伯爵閣下。申し訳ありませんが今日は見逃していただけますか?」
「……それなら、いつ?」
「……追ってご連絡いたします」
「はい、待っています」
金髪の彼はまともに返事をしないまま暇を告げて行ってしまった。紫水晶は感情を見せず、しばらく廊下のその先を見つめていた。
「大丈夫ですか?」
労わるように尋ねると「ええ、はい」と笑みが返された。続いて流麗な礼とともに
「大変貴重なお時間いただきました、ありがとうございます」
ここからはひとりで戻りたい――言外にそう告げられ、承った。
同年代の中でも若干小柄な少女の背を見送る。制服に身を包み背筋を伸ばし足音を響かせていった。
このまま佇んでいるわけにもいかない。カリス卿は自身も職務へ戻ることにした。
第一王子の職務室は、精緻な意匠の扉がある。普段から緊張を強いられるが、今はことさらだと思った。ふと室内の話し声が気にかかった――部屋の主がひとりで暴れまわっているわけではないらしい。不自然なまでの緊張感が、扉を通り抜けているのだ。
「そうは言ってもね、エミリオス……行く末を委ねるのは面白くないじゃあないか、そうだろう? 私は、望むように遊びたいだけさ。縋りたいと思わないし、崇めたくも無い」
「そのために、犠牲が生じるとしてもでしょうか?」
「今さら何を言っているんだい? 生きるとは犠牲を生むことだ。それが生物だ。生物の一種である人間として生きるということだよ。精か、家畜か、植物か、人間か――たったそれだけの違いに、目くじらを立てるなよ」
「……兄上。あなたは間違っている」
はっきりと拒絶と怒りが表現された声だった。抑えても、そのつもりさえないような声色だった。
「生物は、多種多様であり、はるか長い時を経て共に生きるすべを模索し続けてきた。進化の為に戦い続けてきた。今日、あなたは退屈を悲しんでいるだけだ。だからこそ、進化を辞めた人間相手では物足りないのでしょう。
自覚はあります。私は、単独ではあなたに敵わない。必ず否定してみせます。3文芝居にも劣るあなたの遊びを。あなたが唱える面白さとやら。私の信念で上書きしてみせましょう」
自嘲するように告げると、打って変わって、決意するように宣言する。発言者の内心の起伏がよくあらわされている気がした。
「いやぁ、とても楽しみだ。期待しているよ、わが弟よ」
あまりにも健気でいたいけな努力を、なぜこの兄君は蔑ろにできるのか。到底理解できなかった。簡易的に暇を告げて、エミリオスは兄王子の執務室から出て行った。カリス卿は今しがた到着したのを装って礼するにとどめた。エミリオスのほうも今はそれどころではないらしく、すぐに立ち去った。
気に障ることといえば、部屋の主は聞かれていたことを知っていたように緩やか肩をすくめてみせたのだった。
ヘクトールは舞台役者のように大袈裟に天上を仰ぐ。見張りや警邏の兵にこのような姿を見せるわけにはいかない。カリス卿は乱暴に扉を閉めた。
「ああっ、エミリオス! お前は絶対に折れないねーぇ……!! だけど、俺はそんなお前を粉砕したくてたまらないんだよー!! シプリアナや護衛にひんやりとした視線を向けられようと構わない! 俺は、ずーっとお前がボロボロな姿が見ていたいんだ!!!!!!」
(まったく……この第一王子につける薬はないものか。)
無視して公務の補佐を始めると「何も言わないのかーい?」王子はのけぞった体勢のまま尋ねてきた。正直なところ王子の話に興味など微塵もなかった。「言葉が見つかりません」と答えて書類を確認する手を休めずいると
「そっかー。残念だなーぁ……聞きたいことがあるように見えるのだけれど?」
書類を取り上げられ、目の前には王子の顔があった。にやけ顔は収められていた。軽薄さはすっかり消えていた。長い前髪から垣間見える銀の左眼がさらに悪寒を増幅させる。
「不要な争いを望まれるのですか」
「エミリオスが望んでいるよ。それにつきあうだけさ。畢竟、盤上の戦略はすべて計算できる。王さえも駒のひとつに過ぎないのだからね」
「……」
「いずれにしろ、この物語の幕引きは私の役割ではないんだ。気長に待つのもつまらない」
「正気ですか?」
「ああ。必要ならば国くらい傾けるさ」
「……くれぐれも他の方の前では」
神妙に上申すると「それくらいの分別はあるよーぉ」笑いながら書類を返した。
満足したらしいと思ったのもつかの間、自席に腰を下ろすと上質な執務机に肘を乗せて両手を組み、護衛を見据える。
「それで、どんな調子だい?」
「どの点に関してです?」
「ヒストリアだよ」
職務に戻る道中、交わした言葉を思い出しながら考察した。その情報を得るために何度かいたいけな少女を揺さぶったのだ。
結果は……言葉を交わしてみるとなおさら潔白の意味がわかりやすかった。
――はい。両陛下にはお心遣いを賜りました
その感情が読み取れない美しい笑みは〝理詰め令嬢〟と呼ばれていたころに身につけたのか、どこかウラニア現王妃を思わせるものだった。
「物分かりの良い、話せるお嬢さんです」
「ははは、そうだろうねぇ。それで?」
カリス卿は、王子の疑問の意図を正確に読み取ったが、答えたくなかった。「……わかりかねます」とつぶやくように告げた。しかし、疑問を呈した側はそれでは満足できなかった。立ち上がり回答者を壁際へ追い詰める。抵抗を遮り、頬を掴んだ。まっすぐ目を見つめる。
「コニー。お前だから任せられるんだ」
どうやっても目を逸らせない。ようやく言えたのは「お戯れを」それだけだった。
わずかばかりでもやりすぎたと自覚したのか、王子は手を離すと再び執務机の前へ戻った。
「悪かったよ。ただ、性急さがその愛を本物と決めるわけではないだろう?」
言い訳のような言葉の真意は図りかねたが、こちらが問いかけてもはぐらかされるだけ――ヘクトール・ハロ・セーラスとは、そういう男だ。今までの交友から知っていたカリス卿はひとこと「最善は尽くします」とだけ返した。相手は「かさねがさね悪いね。頼んだよ」気にする様子もなく告げると公務に戻った。