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星と波とエレアの子守唄  作者: 視葭よみ
白百合のメタノイア
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前進への衝動

 濡れた布で顔を拭く。頬に手の甲を滑らせるとすっきりしたのがわかった。礼を告げれば使用人はその布を回収して辞した。

 ほんのり瞼が重い気がしたが、職務に支障をきたすほどではない。メロディは執務室へ足を進めた。


 花曇りの空のもと庭園の風に吹かれながらしばらく考えたが、わからなかった。

 貴族は基本的に政略的な婚姻を繋ぐものだ。しかし、言葉で説明できないような、人間が認識できる範囲を超えた意思によって人生を決められるのはどうも理解できない。


 ――彼女をお守りしたいんだ。必ず、幸せになってほしい


 誰かの幸福を守るために〝真実の愛〟を貫きたいと願ったアレクシオスの言葉に嘘や悪意は見えなかった。考慮に必要な情報が足りないのだろうかと思い、いったん考えるのをやめた。



 どうやら王妃殿下付き行儀見習いは〝理詰め令嬢〟らしい。



 やはり法務省情報官は〝氷柱の白百合〟でいらっしゃる。



 幼いころから王城に勤めているメロディの耳は良かった。このような周囲からの評判は、いずれもアレクシオスが望む守りたい存在像から外れているのは考えるまでもない。

 それでも、彼はメロディに優しかった。あの優しさは、あの言葉は、あの笑顔は……思い出が脳裏を駆け巡ろうとするのを抑えつけた。


「忘れないと。海が見えない土地で船を用意しようとするのは愚かだもの」


 声に出して自分自身を納得させようとした。効果はまずまずだった。

 なんとなく思いついて、歩みを止める。両手で角をつまんで目の前いっぱいにハンカチを広げて想像する。きっとハンカチの向こう側には、今は見えなくても何かが見えるかもしれない…………アレクシオスが見ている世界は、いつもメロディの視線のもっと先に存在して、新しいなにかを教えてくれた。理解できないことだからこそ知りたいと願うメロディをすぐそばで見守って支えてくれていた。

 だからこそ信じられる。きっと〝真実の愛〟は素敵なものであり、アレクシオスにとってはメロディとの婚約よりも大切な優先すべきものなのだろう、と。

 ならば、なおさら受け入れるしかない。メロディは人の意思をどうこう言えるほど感情に敏くないし婚約に関する努力が不足していた自覚もある。

 そう。おかげで、新しい何かが見えるかもしれないのだ。


いない(クルフォ)いない(クルフォ)……ばぁ(ヤァ)!」


 こんなふうに――メロディは、ハンカチをつまんだまま左腕を勢いよく上へ引いた。

 現在、目の前に広がるのは長い長い廊下だ。広い王城ではよく見る光景のひとつにすぎない。繊細な装飾が施された、美しい廊下。両腕を下げながら、行きの視界の狭さに自嘲の笑みが零れた。

 嫌いにはなっていないとアレクシオスは言った。


 ならば、もっと好きな人ができたのだ。婚約者にも惚れた相手にも誠実であるには破談が最善だと結論づけたならば。アレクシオスの言葉に悪意がなく優しいままだった可能性に納得できる気がした。

 ブーツ越しに揺るがない地面を感じながらたたんだハンカチをポケットに押しこむ。ひとつ深呼吸をして高い高い天井を見上げた。


「問題ないわ……置かれた場所で枯れたふりして根を強く伸ばせば、別の場所できっと咲けるもの」


 出口が見つからない思考から抜け出せないとき自分に言い聞かせると上を向くきっかけになってくれる、魔法の言葉だ。

 同時に、それを教えてくれた少女の無邪気な笑顔が思い浮かんだ。泣き虫だったころのメロディも古狸や醜悪な私益を相手に戦うメロディも変わらず支えてくれている、大切な言葉をくれた友人の、太陽のような笑顔だ。

 彼女の言葉も笑顔も、メロディの思考を一区切りさせてくれた。




 職務室にはすでに室員が揃っていた。メロディに気がつくと、そのうちのひとりである補佐官のローガニス卿は安堵を表して立ち上がった。


「情報官殿。探しに行くところでした」


「すまない、気を遣わせた」


「いえ。ところで、そのようなご恰好でどちらへ?」


「風にあたっていた」


「春麗祭が近くなってきたとはいえまだ冷える日頃でしょう。上着くらいお召ください」


「色が赤では落ち着かないし、詰襟で首が苦しいから」


「薄着を問題にしているのであって着用時の乱れまでは指摘する意図はありません。私は閣下の補佐官として任務のひとつに〝上司の体調管理〟というものがあるのです。どうぞお聞き届けください」


「承知した。善処する」


 メロディは手をひらひらさせて注意を往なした。ローガニス卿はいくらか書類を抱えて後に続いた。執務室の扉が少しだけ開いているのを見て、メロディは背後の補佐官に尋ねた。


「客人か?」


「いえ。閣下の婚約者殿はもうお帰りになられました。ただ、彼のご依頼により蒸気暖房の管理をしておりましたもので」


「……。そうか、助かる」


 入室すると、確かにほんのり温かかった。応対用のテーブルには、最近ようやく脚光を浴びるようになった希代の天才〝アーニィ〟による発明〈セレマトロン〉シリーズの蒸気暖房が乗せられていた。出力は低く設定され、室内の温度も湿度も快適だった。

 きれいにたたまれてソファーに静置された制服の上着をひっつかんで腕を通す。数十分前に執務室を出たときは熱を逃がしたかったはずが、補佐官のいうとおり体をすっかり冷やしてしまったのだと理解した。

 同時に、制服の陰に隠れていたものに視線が縫いつけられた。


「お飲み物は?」


「いや、不要だ」


「暖房はどうされます?」


「あとで消す」


「承知いたしました。それでは、追加分の書類につきましてもご確認お願いしまーす」


 ローガニス卿は書類を机に乗せて退室すると、きっちりと扉を閉めた。

 風が窓を軽くノックする。それでもメロディは応対用のテーブルの一点……静置された押花のしおりから視線を外せなかった。

 そっと手に取る。

 イーリオスティアの薄紅の花弁が繊細に表現されているだけでなく、名もなき白い小さな花も密かに配置されている。


「花言葉、門出だったかしら」


 ダクティーリオス王国初代王妃セレーナ妃が愛した国花のひとつ――イーリオスティアを嫌う人間は、この国にはいないだろう。

 幾重にも重なる花弁が、別れ際に振られるハンカチに見える、蝶々が気の向くまま舞い去ってしまう姿のよう……由来については諸説ある。

 母の葬儀でもあまた飾られた美しいかの花の佇まいは、忘れがたかった。

 置いていった相手は用意に思い至る。しかし、メロディに対するものか、自らの宣言のためか、判断しかねた。

 ふたりの婚約が結ばれたのは1675年、秋芸の暮れ。戦争勃発の危険を危険の段階で踏みとどまったダクティーリオス王国内の緊張がほどけ始めたころ。アレクシオスは10歳、メロディは8歳だった。

 黄道12議席に家名を連ねるイードルレーテー公爵家、ヒストリア伯爵家の両家における同盟関係は古くから存在していたが、力ある貴族同士の政略的婚姻は周囲の不服を表面化させた。

 そのため婚約が成立したのは、激動の中に祖父母と両親が隠れて、幼い少女がひとりぼっちになった後だった。

 母と学友だった現王妃の心遣いを与えられ強く生きようと決意したメロディは順調に実績を積み上げてきた。情報官に着任してからはやるべきことに必死過ぎて、やりたいことを考えることすら疎かにしていた。

 否、婚約者の心をとどめておけない時点でやるべきことも疎かな点があったらしい。


 わざわざ「門出」という言葉を残した意図は読めなかったが、明言されていない。ならば、良いように解釈してしまおう。


(やりたいことを……新しい何かを始めましょう!)


 何か、については深く考える前に思いついた。

 貫きたいと聞かされたが、メロディはその正体を知らない。考えようにも、持ちうる知識にも軽く聞いた事情にも、その片鱗すら見えなかった。明確に、これだ、と確信めいた期待に心が震える。

 気になる。そうだ。知りたいなら、探せばいい。考えればいい。


「〝真実の愛〟とは、一体、何かしら」


 休憩時間の終わりを時報の鐘が告げる。

 余暇に、それがなければどうにか時間を作って挑もう。

 職務に集中しようと意気込む。おかげで、終業のころには、机に積み上げられていた書類の山はすっかり均された。

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