ほんの少しの時間だけ
ぱちりと琥珀の瞳が覚める。ベッドから飛び起きて窓を大きく開け放つ――イリスの1日が始まった。
黄色のリボンで赤毛をまとめて身支度を完了させた。離れの奥の部屋では、すでにオルトが何かの研究を進めていた。
イリスは、差し出された皿の菓子をあっという間に平らげた。野菜入りだったのは不満だったが、仮にも食事なのだと自分を納得させる。
登校したのはそれからすぐだった。
早朝から向かうのは、ふたつ理由がある。何をするにも人目に付きにくいから、長時間ひとりで作業に臨めるから。
イリスは発想力、行動力、分析力に加えて手先の器用さを自覚している。
学園内にあまたのカメラを仕掛けて撮影した映像を分析すればある特定の生徒の行動パターンをほぼ完璧に推測できると確信できるていどには。だからこそ、2日間かけて映像を撮影することにしたのだ。
懐中時計型の〈ウル〉を起動しながらイヤーカフ型の〈分析〉を装着した。
すると、イリスの眼前に弧を描くスクリーンが出現する。いくつかの映像が同時に、1時間が5秒もかからず再生されていく。
映像収集を完了してから授業前のホームルームが始まるまで、すべての映像に目を通したうえで必要な情報からある人物の行動を考察する……その数十分に自らの能力すべてを懸けた。
イリスがメロディと出会ったのは、6年前――ただの孤児と名門貴族令嬢だった。
はじめはメロディが友人としてイリスを受け入れただけだったが、次第に相互に理解を深めていき、〝白百合の献身〟を経て完全な信頼関係を築いた。
ゆえにイリスはメロディの泣き虫なところも強がる性格も、よく知っている。
イリスがメロディと出会う前の2年間、以降の6年間。アレクシオスはメロディの婚約者として過ごしてきた。陰ながら支え続けてきた。ならば、彼が知らないはずないのだ。
だからこそ、一時の熱でアレクシオスがメロディを捨てるなど信じられなかった。いや――君が成した功績の裏にあるのは、あまりにも冒涜的で残酷な行為だったのだと、どうか覚えていて欲しい――信じたくなかった。
あの日、自力では見つけられず諦めるしかなかった関係性を代わりに探し出してくれた彼が浅慮など、あるはずがない。
そう信じたかった。
だからこそ、イリスは確かめずにはいられない――なぜアレクシオスはメロディを裏切ったのか。
講義をあるていど真面目に受け終えたイリスは教室を飛びだす。その足で図書館近くのある部屋へ向かう。大陸史の授業がなければ生徒は誰も出入りしない、資料だけが積み重ねられている部屋だ。
入り口からそっと覗く。少し離れた、窓辺あたりの本棚に背を預けるように青年がノートに何か書いている。イリスは気づかれないように背後から足音を殺して近づく。本棚越しに背後へ回りこみ、何を書いているのか拝見した。
授業で用いているだろう、ノートの端……穏やかに読書している少女の絵が描かれている。よく特徴をとらえた、黒ペン一色でえがかれたとは思えないほど美しく可憐な姿だ。
「その絵」
いじわるのつもりで、本の隙間から声をかけた。彼は焦って紙面を腕で隠した。イリスは構わず「王女殿下ですよね?」尋ねた。アレクシオスは本棚の、本と棚の隙間からイリスの琥珀の瞳を見つけた。天井を一瞬仰ぐと、手で顔を隠した。眉根を顰めてはいるが、耳まで赤い。イリスは本棚を回りこんで、姿を見せた。
「ほんの少しだけ、お時間よろしいでしょうか?」
「悪いけれどこれから生徒会の」
「ほんの少しだけです」
「……なぜ?」
「大切なとき、大好きな人に必要とされる自分でありたいのです」
本来、はるかに身分が高い人物に対してあまりにも無礼な態度だが、イリスに応じてアレクシオスは再び腰を下ろした。
「〝ヒーローごっこの件〟ではなさそうだね」
「今日は違いますよ。ところで、食事はとられていますか?」
「そんなことを聞きたいのかい?」
「気遣ったつもりでした。でしたら、お言葉に甘えます――王女殿下への思慕に偽りは無いのですか?」
「微塵も無い。ほかには?」
「王女殿下に婚約者殿はいらっしゃったのですか?」
「公にはされていないはずだけれど」
「聞かされていないのですか?」
「……カリス卿だ。先日、初めて聞かされた」
「――花の妖精と春の妖精に祝福された貴公子殿は、婚約者を真実の愛へ導くことができる……事実だったとは恐れ入ります」
「あくまでも噂、大衆が好む言葉選びだと思っていたけれど……もう否定する気にもなれない」
力なく虚空を眺める新緑の瞳に気力がない。イリスはそれを横目にしながら
「公子様は、聞きたいことはありませんか?」
「どうだろうね」
「妖精たちの祝福を受けられたというのに、浮かないご様子で」
「祝福……?」
アレクシオスは聞き返しながら顔を上げた。はじめて新緑と琥珀が交わる。改めて、いつもの飄々とした余裕はどこにもなかった。イリスの隣には自分を責める青年がいるだけだ。
「祝福だって? ああ、そうかもしれない。相手や婚約者が他にいない者たちにとっては! 僕にはっ……もっと最低な言葉で怒らせて泣かせてしまったほうが良かったかな」
「あたしの鉄拳が怖くないのでしょうか?」
「……いっそのこと、殴ってもらえたほうが楽だろうね」
「代わりに、なんでも聞いて差し上げますよ?」
すとんとしゃがみこんだイリスはアレクシオスを見上げる。膝を抱えた青年の声は曇っているが、聞きとれないほどではなかった。
「あの子は、純潔な愛についてある種の憧れを抱いている。両親は大恋愛のすえに真実の愛によって結ばれたのだと聞かされてきたのだから当然だ。だから……他の女性に心奪われてしまった僕は、もうあの子の期待には応えられない。清廉で無垢な伯爵の隣を歩んで、添い遂げることは許されなくなってしまった。ならば、あんな婚約など不要だろう? 僕がすべきだったのは、一刻も早く彼女を自由にすることだった」
言いたいことがあふれそうだったが、イリスは黙って聞き続けた。知ってか知らずか、アレクシオスは韜晦を続ける。
「思ったより切り出したときには罪悪感はなかった。むしろ、安堵すらあったし、手紙ではなく直接伝えられたことに満足している。しかし……悔やんでも悔やみきれないのは、彼女に最後まで大人な対応をさせてしまったことだ。僕は、嫌われるべきだった。嫌われなければならなかった。でも、だからとはいえ、そのために必要以上に傷つけることまでは……もしも王女殿下と出会わなければ? このまま彼女を傷つけずにさらに嫌われるには? 他にどうすればよかった? どのような表情で、声色で、言葉で……――いまさら考えても仕方のないことばかり思考を巡るんだ。どうしてもあの子への情はこの胸から消えてくれないんだ……!」
柔らかく波打つ金髪を乱し、ノートで顔を隠すように額を押しつけながら抑えるように叫んだ。しばらく黙っていたイリスは、思ったことをつぶやいた。
「ひとことでも謝罪があれば制裁を加えられましたが、残念です」
「本当に残念だよ、ごめんね」
イリスは半目で「それは悪手です」と睨む。ゆっくりと顔を上げたアレクシオスは「本当に残念だな」苦笑する。その笑顔が気に入らないイリスは本棚に背を預け、当てつけに何か尋ねたかった。
しかし、もう移動しなければ生徒会役員会議に間に合わないため、移動しながらもう少し時間を作った。イリスの意図を察したのか、アレクシオスが尋ねる。
「聞きたいことだけれど……メロディの様子はどうだろう?」
「普通と言いたいところですが、精力的にも見えます」
「真実の愛を証明するんだと意気込んでいるのかな」
いかなるときも神童と謳われた頭脳は健在らしい。イリスが口を閉ざすとアレクシオスは「もしかして正解?」自分の雑な推測に驚きを隠せなかった。
「我が友人ながら、恐ろしい子です」
「本当にね」
幼少期から神童と名高いアレクシオスだが、お天道様は演技の才だけは与えなかったらしい。おかげでイリスの思考の中で疑問が解消された。
「公子様が〝真実の愛〟とかなんとかおっしゃったのですね。メロディ様の辞書にあるはずないお言葉だとは思っておりましたが」
「両親が大好きなあの子にはウケが良いかと。……嘘ではないだろうし」
アレクシオスの心変わり。
メロディ様に対する侮辱行為は、悪意も意図も無いのかもしれない。話していて、誠実さは感じた。
彼のメロディへ抱いていた思いは婚約者に対するものであって恋情を寄せる相手へのものではなかった。それでも妹のように大切にしていたのはイリスの記憶にも新しい。
(所詮、人間だもの。ようは支持したいほうを選ぶ。だからこそ婚約解消に至ったんだ。)
遠くから廊下に駆け足の音が響く。アレクシオスには心当たりがあるらしい。「ごめん、もう行かないと」と告げる。
「楽になりましたか?」
「……。楽にはならないよ、きっと。いつか折り合いがつけられるようになるだけさ」
自嘲の言葉を残して歩いて行った。曲がり角で見えなくなるまでイリスはその背を見つめる。
長い長い道のりの途中に取り残されたような気分だった。