〝上司の体調管理〟
監査室を後にしたメロディとカラマンリス班長は、そろって法務省情報調査室の職務室へ足を運んだ。さっそくツァフィリオ卿は班長に気がつくと「少佐殿……!」と駆け寄ってきた。
「すみません、お力になれず」
「いえ。こちらこそ力及ばず」
「それは……本日は一体いかがされたのですか」
「監査面談を済ませてきました」
「えっ、あの、え? 大丈夫でしたか?」
「はい。情報官殿のおかげです」
話が振られ、メロディは「少佐の後ろ盾であれば、いつでも構いません」と微笑みを返した。
ツァフィリオ卿を含めた、〝氷柱の白百合〟の笑みを見たことがない新任三人衆の手が一瞬止まる――が、気を利かせたシリル卿が書類の端を机に叩く音を数回立てた。
カラマンリス班長は意図に気がつき、咳払いをした。
「書面は後日でよろしいですか?」
「事件解決後でも構いません」
「では、数日以内に」
進展のない捜査に不安を抱えていたカラマンリス班長だったが、昨日メロディが介入してから光の筋が見えてきたのか、言葉には職務に関する矜持と自信が滲んだ。捜査方針について「ツァフィリオ卿、お時間よろしいですかな」と穏やかに尋ねる。ツァフィリオ卿が焦りながらも同意を示したのを見て、メロディは自らの執務室へ引っ込もうとした――が。
「休憩のお時間ですよー!」
扉が閉まる直前、ローガニス卿が顔をのぞかせた。後ろ手に器用に扉を閉めてみせる補佐官に対して「お前が休みたいだけではないか?」ため息交じりの文句が零れた。
「嫌だなぁ。私は言われているんですよ、いろんな方々から。当代ヒストリア伯爵閣下の職務中における健康管理は本官の仕事のひとつだと。何かありましたら責められてしまいます」
「休憩なら勝手に余所でとれ」
「あんたの健康管理だっつってんだろ、クソガキ」
乱暴な言葉で遮られた。しかし、その表情はあまりにもかみ合わないほど穏やかだった。城下で人気だという焼菓子をテーブルに広げて、居住まいを正す。
「不気味です」
明確に、はっきりとそれだけを告げた。目を逸らしたら負けだと、メロディはまっすぐ言葉を受け取った。
「上司にかける言葉ではないな」
「事実じゃないっすか。改めて申し上げますけれど、迷惑をかけることと頼ることはまったくの別物なんですよ」
「はっきり言え。くどい」
「婚約を解消されたそうですね」
「お前にまで傷口を見られなければならないのか」
「貴女が不気味なことしてらっしゃるんですから、仕方ないでしょう?」
「公私を分けないと休めないのだ、了解しろ」
「普段の二重人格未遂のことではありません。なぜ平気なフリして仕事しているんですか!」
なるほど、卿が扉を閉めた意図をようやく理解した。メロディは補佐官の手の博の上に乗ることにした。でなければこの問答は終わらない。応接用のソファーに体を沈めた。
「特別に大切にしたい人がいて、なおかつ、それはわたくしではなかった。だから、嫌われたわけではないなら、苦手なくせに精一杯のイジワルをされたら――受け入れたほうが楽だと思ったのよ」
問題ないと、確かに思ったのだ。しかし、いまだ実感に欠け、離れがたさのような不快感にさいなまれている。表に出さないように努めてはいるが甘かったのだろうと自覚している。
「誤謬も泥縄式も、お珍しいですね」
「そうね。だから、もう良いのよ。わたくしは、道理に正しくありたい。それが第35代ヒストリア伯爵であるということだから。そのうち受け入れられるでしょう」
「貴族様は大変っすね、本当」
「お前はローガニス男爵家の人間だろう?」
「先の戦争のどさくさに紛れて父が叙爵されたにすぎません。御覧のとおり俺の性根はそこらへんに転がっているようなド平民ですよ。隠れてひとり泣きに行かれるお嬢様とは性質が根本的に異なります」
「……揣摩憶測だ」
「そうですかぁ?」
これが人生の年季か。長引かせないためには、彼の掌の上で踊らねばならないらしい。
考えたことはある。仮に――貴族では、ヒストリア伯爵家の人間ではなかったら――と。学園に通っていたのか、恋愛がどういうものかわかったのか、両親は今も幸せに生きているのか……さまざまなことを考えてしまう。しかし、職務においてはいずれも不要な思考だった。だから、いままで深く考えようとしてこなかった。
その結果が現在を成しているなら、受け入れるほかない。
「前を向きたいの」
「本当いじらしくていらっしゃる。で、向けていない原因はなんです?」
「わからない」
「マジですか? 俺なんかが目標捕捉できているんですよ?」
「あなたができることすべてをわたくしができるのなら、あなたは失職しているのだけれど?」
「おっと、それは恐ろしくありますね」
ローガニス卿は、自分で広げた菓子をひとつ摘まみ上げると口の中へ投げいれた。飲み込んでから、労わるような口調に変わる。
「婚約解消、嫌でしたか?」
「嫌とかそういう問題では」
「たった今この場ではそーゆー問題なんです。で、どっちですか?」
「……しかたなかったのよ」
「何がです?」
「彼の望みをかなえられるのは他にいなかったわ」
「かなえなければならない道理はないでしょう?」
「狭い人間関係しか持たないから、嫌な関係にはなりたくなかったの」
「嫌な関係にならないために、閣下はあいつの望みをかなえられたんですか?」
「彼は公爵令息よ?」
「俺が忠誠を誓ったのは、国王陛下とヒストリア伯爵閣下ですから。不敬とかどーでもいいっす、どうせ聞こえてませんし。いやぁ、それにしても泣かせる話ですね。さすが自己犠牲の精神をお持ちでいらっしゃる! 本当、真に尊くありますね、位高ければ徳高きを要す!」
「もう良いでしょう。この菓子はありがたくもらうから出ていって」
「閣下。くりかえしますが、迷惑をかけること、頼ることはまったくの異質です。このまま放置していては傷が膿み、やがて全身を蝕むことになりますよ」
「それこそどのような道理があるのかしら」
「閣下の健康管理、俺にも責任の一端があるもので」
「……法務省、見習い過程にそんな訓練があるの?」
「いやぁ、そんなわけないでしょう、優秀な私のための特殊任務であります!」
敬意のこもらない形ばかりの敬礼。そのしつこさに敬意を表したメロディは笑みを返した。文句を言われる道理はなく、自身のしつこさを後悔させたかった。
「どうせなら、力のかぎり突き放して欲しかった。嫌いになったわけじゃないなんて、あんな言いかた卑怯よ……!」
「なのに我慢されたんですかぁ?」
「あまりにも張り詰めた表情をするものだから……。だけれど、わたくしだって誰かを大切に思う心はあるわ。急に切り出されても、どうするべきかわからないわよ、わかるわけないでしょう、そんなの」
「そうですねー。ははっ、ちゃんと怒れていらっしゃる」
「お前がそのように仕向けたのよ!?」
「そうですよ、おっしゃるとおりです。遠慮なさらず、すべて吐き出してください。さあさあ、お次の不満は?」
「一体、お相手は誰なの? ご関係はいつからだったのっ!?」
扉は閉じられているが、窓を介して外部に漏れてしまいそうなほど大きな声で叫んだ。ソファーのクッションで口元を押さえるべきだっただろうか、遅れてクッションに顔を埋めていると「上位貴族様の嗜みってやつですかねぇ」とローガニス卿は愉快そうに笑った。気にしないどころか、皮肉のキレが素晴らしいほど研ぎ澄まされている男を前に、メロディはクッションを抱きしめなおして、改めて不満を続けた。
「わたくしに非があるのはわかっているのよ。だけれど、彼、誕生日のプレゼントを受け取ってくれたのよ? たった半年前! 手紙では嬉しいと喜んでくださっていたのに!」
「いやぁ、罪な男ですねーぇ」
「本当! 人の心は難解だもの、選ばれなかったことはもう仕方ないわ。だからこそ、卒業前にけじめをつけるおつもりだとしても、今期の社交シーズンが終わってからでもよろしかったのよ」
「もう春麗祭ですもんね、今からパートナー探しはきついっすね。サボります?」
「……無理よ。第二王子殿下が初めて御参加なさるそうだから。ドレスも、王妃殿下が御用意してくださっているわ」
「うわ、めんどくせーですね」
「流石に不敬よ?」
「事実じゃないっすか」
「お前がよくサボろうとする理由が判明したわね」
「おっと」
図ったようにおどけられては、責める気が失せる。メロディは机に広げられた菓子をひとつ、頬張った。しっとりとした食感の中に、歯が当たると柔らかく解ける砂糖の球体がある。
「おいしい。気に入ったわ」
「これくらいでありましたらいくらでも貢ぎますよ」
「言いかた」
「賄賂みたいなもんでしょう?」
良く回る口だ。改めて頭の回転も相応なのだろうと思った。
メロディは、肩をすくめて立ち去ろうとする補佐官を呼び止める。扉を開けたところ、半身で言葉を待つ彼にメロディは告げた。
「ありがとう」
「閣下の体調管理は、俺の職務のひとつですから」
ローガニス卿は得意そうに言う。
彼のおかげで、本当に自らの立場に、これからの行く末に向き合える気がした。
「――ってことで」
指さされたのは広げられた菓子の隣――いつの間にかテーブルに置かれていた手紙――洗練された白封筒は、一目で差出人を理解させた。抗議のため顔を上げると、
「急を要する事案はほかにございません。〝φ〟の準備を進めておきますので、どうぞ心置きなく」
軍服姿のふたりを背に、職務口調に切り替えたローガニス卿は改めて得意げに笑ってみせた。