綱渡りと勝算
扉と廊下の狭間から、端的な伝達を済ませるなり走り去っていく少女の背を眺める。姿勢良く駆けていく彼女は、瞬く間に小さくなっていく。
諦めの境地を経て穏やかに上司を送り出したローガニスは室内の憲兵たちから何とも言えない視線が集中していることに気づいていた。
「聞かないでください、俺だってよくわからないんで。まあ、無意味ではないんじゃあないですか? あの人の中では」
それぞれ職務に戻る憲兵たちを横目に、扉の枠に背中を預けた。まもなく廊下の先を左折した少女の背が見えなくなった。
途端、カラマンリス少佐は身を翻した。ローガニスは書類束を差し出す。
「閣下が戻り次第、扉を叩きます」
「助かります」
少佐は礼とともに紙束を受け取り、近くの部屋に身体を滑り込ませた。
最近は、誰も彼もが綱渡りをしている。露見に注意を払いつつ、秘匿したまま目的のために邁進しているのだ。当然、彼らが他へ向ける意識は過疎となる。
おかげで目論見が成功率を上げる――時機を見計らったように、呼び出していた目当ての人物が到着する――彼を一旦、使用する取調室の隣の部屋へ誘う。
それを目撃していた目を丸くする憲兵たちへ向けて、口元に人差し指を当てて静かにしているよう促した。
まもなく、情報官が戻ってくる。息はあまり上がっていないものの、軽く頬を上気させて汗ばんでいるようにも見える。
「閣下、教導局長より言伝があります。剣術指南の時間を早められないか、と」
数日前に受け取っていた情報を、あたかもつい数秒前に知ったように彼女へ伝えた。
「そう。お断りしておいて」
「よろしいんです?」
「待たせても問題ない。いつでも時間が空いているわけではないとわかっていただかないといけないから」
「お珍しい」
「局長殿の人遣いは改善の必要があるもの。1時間遅らせても許されるだろう」
「でしたら、そうします?」
何度か目を瞬かせると微笑み「そうね。連絡しておいて」と言う。
メロディは笑みを消すと、扉に向き合うように立つ。
「……お一人で、よろしいのですね?」
「ええ。任せて欲しい」
ローガニスは軽く肩をすくめると、隣室へ入って扉を閉めた。
メロディは扉の前で深呼吸する。体温の高さも鼓動の速さも、自覚する。
緊張とともに扉を開けると、ひとり放置されていた男の姿を確認した。
「ごめんなさい、お待たせしてしまって……!」
メロディは表情を綻ばせて入室し、後ろ手に扉を閉めた。
男性――容疑者ゼノン・ポルフィロは微笑むと、
「急いで来てくれたんだ?」
「え?」
「髪の毛が乱れてるから」
指摘され、壁に設置された大きな鏡と向き直る。メロディは恥ずかしそうに頬を紅潮させ、鏡を見ながら髪を整えようと手を伸ばす。
「大丈夫、かわいいよ」
「……本当ですか?」
「大陸1だ」
メロディは椅子を引いて腰掛けながら「それは〝傾城傾国〟のことでしょう?」不満そうに言う反面、満更でもなさそうな表情を浮かべる。片頬を膨らませて拗ねているのだと主張する少女に「俺にとって君はスティフィアナ皇妃に匹敵するからね。間違っちゃあいない」と返答した。
ふと、ポルフィロは室内を見渡した。それに気がついたメロディは拗ねていることを忘れて「どうされたのですか?」首を傾げた。
「なんだか部屋の雰囲気が変わったと思ってね」
「机と椅子を移動させましたの。ふたりきりの空間には不要でしょう?」
「思い切りが良いね」
メロディは嬉しそうな笑みを浮かべる。はたから見れば、すっかり信頼を寄せているように見える。
「これより第10回聴取を開始する」
「誰に言ってるの?」
「決まりですもの」
「誰も記録しないのに」
「良いのよ、これで。ようやくこうしてお話できるようにしたのですもの。記念すべき日だわ!」
メロディは前回の取り調べのときから放置されていた盤面に手を伸ばして白の騎士を移動させた。ポルフィロは少女に倣うように黒のポーンを移動させながら「今日は、ふたりで良いの?」と尋ねる。
メロディは「ふたりきりが良かったの」嬉しそうに白の僧侶を移動させる。
「どうして?」
ポルフィロは何の気なしに尋ねながらコマを移動させて白の騎士を取り、盤のそばに放った。返答が無く、気になって少女を視界に捉える。
視線を彷徨わせていたメロディは言いづらそうにしながらも自嘲の笑みを浮かべた。
「孤軍奮闘といえば、まだ聞こえは良いかもしれない。けれど……実際は侮蔑や憐憫をまとった視線を向けられながら、自身をどうにか叱咤して行動しているに過ぎないのよ。誰かの視線が怖い日もあるのーー勝算有り」
宣言と同時に黒のポーンを白の女王で取った。
ポルフィロは、盤のそばに駒を静置する少女に「……あと何手?」端的に聞く。
「そうね、最長3手でしょうか?」
「じゃあ、終わりで良い? もう一回、最初から」
「ええ、わかったわ」
メロディは黒の駒を、ポルフィロは白の駒を、それぞれふたりで盤上に駒を並べなおしていく。
不意にポルフィロは「楽しめてる?」疑問を呈する。
メロディは顔を上げて「あなたと一緒ですもの」相手に微笑みかけながら答えた。
「本当?」
「あら。疑っていらっしゃるの?」
「嫌でも自覚するよ、これだけ負け続きだとね」
「けれど、いつも異なる手を使ってくださるでしょう?」
「同じことを繰り返したって無駄だろうからね」
「わたくしの世界は、同じ日々の繰り返し。あなたの言葉でいうと、無駄な日々の繰り返しということなのかしら」
「そういうつもりで言ったんじゃない」
「わかっているわ。だから期待してしまう」
メロディは黒の王を両手で弄ぶ。
そっと視線をあげると、小さく首を傾げた。
「あなたは、この窮屈な世界から連れ出してくださるの?」
ポルフィロは不安そうに揺れる紫水晶を気が済むまで眺めると「何か嫌なことでもあったの?」並べ終わった盤面から離れるように身体を起こしながら尋ねた。
「嘘だったとは、思えないの。いいえ、思いたくないだけかしら……わたくしは、ただ……彼の優しさを、あの日の言葉を、今も未だ信じていたいだけなの。支えてくれた言葉を、大切にしていたいだけ――」
そのときだった。
取調室の扉が音を荒げ、乱暴に開け放たれた。
何事かと振り向くなりメロディは瞠目する。
「カリス卿……」
突然現れたコニーは力任せに椅子を引く。座っていた少女の身体が軽く跳ねる。腕を掴んで立ち上がらせると、男を睨みつけてメロディを連れ出してしまった。
部屋にひとり残されたポルフィロは、予期せぬ事態に呆然とする。
まもなく扉が動いた。書類束片手に姿を見せたカラマンリス少佐が入室すると、ポルフィロは品性に欠けた笑みを浮かべる。
「久しいな。上手くいかねぇから焦ってんじゃない?」
「詳細は長くなるから省こうか。犯罪者のお前とは違って、多忙なものだからな。正直こんな下品なこと言いたくはないんだが……結論として、お前はくたばれ」
「背伸びしたがるお嬢さんに振り回されて苦労は想像しきれないよ。聞こえていなかっただろうから教えてやろうか?――あなたは、この窮屈な世界から連れ出してくださるの?――お前ら、わかってんのか?気づいてねえんだろ、頼られてないって」
「……」
「さあ、どうする? 頼りのお嬢さんはあのとおり! 証拠は見つかんない! こりゃあ、裁判が楽しみでならないね!」
カラマンリス少佐は「奇遇だな」同意を示しながらチェス盤を端に動かして机の中央に書類を乗せる。そのうち、5枚の紙が抜き取られて並べられた。いずれにも異国趣味な置物の絵が大きく描かれていた。
「帝国に古くからある工芸品らしい。だが……珍しい品物とはいえ、さすがに男爵夫人に贈りものはできなかったんだな。男爵閣下に先を越されているとでも思ったか? それとも、受け取ってもらえなかったのか?」
舌を出す代わりに何も言わないポルフィロに構わず、話を続ける。
「せっかく用意したのに。悔しかったか?」
「知るかよ」
メロディが連れ出されてから途端に姿勢を崩した容疑者と正対するカラマンリス少佐は、相手をまっすぐ見据える。若く魅力的な容姿というのは、同じ性別として理解できる。一方、性格は言うまでもない。
あくびすら隠さない職人崩れの商人の男に告げる。
「目撃証言なら集まりつつある。また、犯行日時と関所交通記録の一致。記録内容について個別許可証との相違は見られない……何が言いたいか、わかるよな? 逮捕から半月が経過している」
「これで、勇み足でした、ってなればどうなるんだろうな? 解雇とか? 良かったな、相手が俺で。首吊って詫びろ、とは言わねえでおいてやるよ」
「その心配は不要だ。男爵夫人のお忍びを見抜けなかったのがお前の運の尽きだ」
「バーカ、そんなだから無理なんだよ」
少佐は居住まいを正して紙束から別の資料を抜き出す。
「手帳、腕時計、香水瓶、万年筆、髪飾り……どこに在ると思う?」
「まぁだ見つかってないんだー?」
「保管場所は何処だ?」
「死んだ女共のもんだろ? 〝天空城〟じゃねえの?」
「〝創星神話〟の話はしていない。お前が殺してお前が持ち去った物の所在を答えろと告げている」
「勝手に探せよ、絶対に見つかんねえから」
「……見つかる可能性は?」
「バーカ。0だよ、0! 絶対つってんだろ、耳聞こえねえのかよ。くたばれクソジジイ」
「そうか。ならば老婆心で伝えておいてやる。時間は掛かっているが、お前の自宅と倉庫の捜査は進んでいる。地下の隠し部屋も、壁の装置も、攻略を続けているんだ。特に、倉庫のほうはだいぶ守りを固めているよな? 外部の人間を拒み過ぎている。まるで何かを秘匿するために……規則を知らない人間を徹底的に拒絶する理由は限られている。ただ、我々は不得手でね。だが、幸いにも学務省の協力を得られた今、あらゆる解析機器を導入できた今ならば」
少佐は眼光を鋭くした。
さすがに圧に気がついたポルフィロは居心地が悪いのか明らかに視線を逸らす。
「こちらも生半可な覚悟で職務に向き合っているわけでは無い。国のためにこの命を賭す覚悟ならとうの昔に済ませた。今更揺らぐことはない」
お前はどうだ?――問いかけんばかりの眼差しで射抜く。
室内を沈黙が支配する。
まもなく扉が叩かれて
「身の振り方をよく考えておくことだな」
少佐は資料を集めて小脇に抱えると、それだけ告げて退室した。
代わりに、扉の影にメロディが姿を見せる。が、入室を躊躇う。
ポルフィロは入っておいで」甘い声で告げた。
メロディはそっと後ろ手に扉を閉めた。直後、鍵も閉める。
施錠の金属音が聞こえていたのか、廊下から握り手を回そうとしたり強く扉が叩かれたりする。しかし、メロディは応じない。ただ扉に額を預けるようにしながら動かない。
「仕込みかな?」
ポルフィロの問いに、メロディはそっとふり返る。が、何も言わずに視線を彷徨わせる。
「婚約者ってのは、乱入してきた奴だろう?」
「……。職務時間ですから、いらっしゃるとは思っていませんでした」
「嬉しかった?」
「非常に驚きました」
「それだけ?」
「何を答えれば満足かしら、精神科医さん……?」
「わかった、もうしない」
ポルフィロは立ち上がると少女に歩み寄る。
メロディは「少なくとも、わたくしの仕込みではない」言い訳するような口調で言う。
「何でも良いよ。それで、婚約者殿のお許しをもらえたんですか?」
「…………今日は帰りたくない」
「怒ると手がつけられないような男なんですか?」
「わからないから怖いの」
「イードルレーテー公爵令息のままが良かった?」
「可愛げの無い女は望まれていらっしゃいませんもの」
「誰が可愛くないって?」
ポルフィロはメロディの頬に手を伸ばしながら告げる。
直後、鏡が設置されている壁が揺れて、取調室内を揺らす。
「隣の取調室にも人がいるのよ。それだけ」
メロディは中途半端に伸ばされたポルフィロの手を両手で包むと、自らの頬に触れさせた。
「もう少しだけ、あなたと一緒にいたい……だめかしら?」
「少しだけでいいの?」
メロディは困ったように微笑むと「今日は他にも用事があるの」寂しそうに答えた。
しばらく逢瀬のように言葉を重ねてから「第10回聴取はここまでとする」と決められた宣言してメロディは退室した。
ローガニスは些事などを片付けるため、ツァフィリオとメロディを先に調査室へ帰した。
ひとり王城へ帰投すると、ちょうど部外者の出入りが自由な区域に見覚えのある人物を視界に捉えた。逃げてもどうせ追い詰められるだけ……諦めて足を止めた。
「何考えてんだ」
リュシュリュー記者は壁に背を預けたままローガニスに言葉をぶつける。ローガニスは気まずそうに肩をすくめた。
「あのおてんば姫が勝手に話を進めちゃうところ、想像つくでしょ?」
「おやおや、補佐官殿がそれをおっしゃいますかな?」
「貴方相手だから愚痴ってんですよ。うまくやるよう言われたんでしょう?」
「……本当、食えないやつだ」
「シリルよりはマシですって」
「どうだかな」
「悪いようにはしませんよ」
「すでに最悪だ」
「清濁併せ吞めると見込んでのことですって」
「はいはい、清水は好みではないんでね」
「はははっ、不健康ですねぇ」
深く溜息をつく記者の隣で、ローガニスも同じように壁に背を預けながら
「そうだ。御望みどおり風の起点にして差し上げますよ」
「すでに最悪なほど面白い」
「まあまあ、そう言わずに。ひとつの要素が加わるだけで、魅力が倍増すること間違い無しですから!」
ひとつの要素……何を指しているのか、おおよそ察したのだろうか。記者はニヤリと口角を上げて見せた。ローガニスは「楽しみにしててくださーい」ひらひらと手を振りながら逃げるようにその場から立ち去った。




