ムジーク家の4姉弟
鏡台の前に座り、侍女に髪を梳いてもらいながらヴァシレイアはさっそく教鞭を執る。
「わたしの読書遍歴をもとに考えますと……かわいいというのは愛らしい魅力のこと、美しいというのは強く惹かれる感情を伴う魅力のことです」
「どちらも魅力に関する表現なのね」
「はいっ、おそらく!」
「〝原初の存在〟が齎すカリスマのようなものという理解で問題無いかしら。統率力や影響力とは異なるでしょう?」
「そうですね、そうだと思います。ただ、申し訳ないのですが、わたしの理解を元にしているので必ずしも正しいとは限りません」
「それは構わないわ。いくつか小説を教えてくれた件も含めて、わたくしが持っていない視点や知識を示唆してくれることは、とても助かるの」
ヴァシレイアは鏡越しに笑みを浮かべると言葉を続けた。
「ちなみに対人であれば、かわいいというのは年少者を、美しいというのは年長者を形容する場合が多いように感じます」
「そう……そうね、感覚的なものだけれど理解できるわ。今まで年長者に対してかわいいと感じたことは無いけれど、あなたのことはかわいいと思っているもの」
「メロディ様……!」
「ふふっ、美しくなるのはこれからなのよね?」
「っ、兄様の言葉を真に受けないでくださいませ!」
ヴァシレイアは焦りながら困ったように赤面する。鏡越しにメロディが微笑んでいるのを見つけ、さらに片頬を膨らませてみせる。メロディはそのようなかわいい仕草をするヴァシレイアに対してさらに笑みを深めた。
***
一方。
弛み無く張られた弓矢の弦の任意の場所を左手で摘み、右指先で弾く――それが繰り返されることで儚くも安定した音楽が奏でられる。
手入れの一環なのか持て余された時間の遊戯なのか、プロソディアスは瞼を下ろして耳を澄ませていると
「はぁぁああああぁぁ……やはり実物の伯爵様は最高ですわ!!!!!!」
さきほどまで落ち着きなく室内を歩き回っていた婚約者クロエ・アカキーア子爵令嬢は、窓辺で立ち止まるなり窓を開け放ち、大きな声で熱量を発散した。
「ははは、良かったねぇ。ただ、声量は落としておこうか」
「は、はい、すみません、心が抑えられなくて、ええ、おっしゃるとおりですわ。ご本人に聞かれた天に召されてしまいますもの」
開け放たれた窓から夜風が緩やかに部屋へ混ざってくる。軽く揺れるカーテンの傍で、クロエは上気した頬を両手で包んだ。
「窓を開けて外に叫んだらむしろ聞こえやすいと思うけれど」
「し、しかし、窓を閉め切ったままでは窓が壊れてしまいますわよ?!」
「声の振動で割れるのはワイングラスくらいの薄さまでだと思うよ?」
正論を返しつつプロソディアスは、次代の名医として一身に期待を向けられる聡明で優秀な少女を愛おしく見つめる。希代の名医と謳われた祖母を持ち、そのために重圧を掛けられやすい道を自ら選んだ彼女に時期黄道夫人になる立場をも与えてしまう罪悪感はある。それでも――そのようなことにまで思い至るお優しい殿方の隣に在れることは、私の幸運です――優しく微笑んでくれた彼女の言葉まで嘘にしたくない。
プロソディアスは弓を仕舞い、窓辺へ歩み寄る。
「ねえ、クロエ。近いうちにヒストリア伯爵閣下の剣術指南を受ける運びになるのだけれど、君も来る?」
「いえ、結構です。かっこいい伯爵様なんて……これ以上の衝撃は私の心臓が持ちません」
「それは残念だな。私のかっこいいところも君に見てほしいのに」
「それは……でしたら、新緑祭で拝見します」
「おや? だからしっかり練習しておくようにってこと?」
「ええ。楽しみにしています」
手本のような笑顔を浮かべるクロエの頬に、そっと自らの指の背を滑らせて不満を表明した。
まもなく本日の主役の支度が整った旨を知らされて、ふたりは装飾が施された広間へ移動した。その頃にはムジーク伯爵も帰宅しており、ワインボトルを軽くしていた。その隣では、持て余すようにグラスを揺らしてワインの香りを楽しみながら対話しているメロディ・ヒストリア伯爵の姿もある。不意に目が合い、互いに簡易な辞儀を交わした。
すると、プロソディアスは何か意図してのことか、糸車のように両手を円を描くように動かしてみせた。その視線はメロディへ向けられている。他方、メロディは微笑みを浮かべたまま小さく首を傾げる。
クロエは思わず隣の婚約者へ訝しげな視線を向けた。それに気がついたプロソディアスは、きまり悪そうに言う。
「酔ったお祖父様の相手をさせるのは忍びないから交代する旨を伝えたかったのだけれどね、身振りじゃあ伝わらなかった」
「手旗は?」
「必修だけど、残念ながら武術院に居ないと伝わらないかなぁ」
「伯爵様は半年ほど前まで軍務省にいらしたでしょう?」
「じゃあやってみる?」
伝わらないと思いつつ、旗無しの手旗信号で「接近」を振った。
すると、メロディは傍らのムジーク伯に何か告げてグラス片手にその場を離れようと足を踏み出す。
どうやら手旗信号の内容が伝わったらしい。ふたりは顔を見合わせた。
「ほぅら、伯爵様は博識でいらっしゃるのよ」
プロソディアスは、まるで自慢するようなクロエの様子に苦笑する。新しい姿を見せてくれたのは嬉しいとはいえ、普段から自分のことに対してもそういった言動を取れば良いのに――少々複雑な心境になった。
そのとき。
広間の扉が開けられた。
先に休む祖母に挨拶を済ませる分、遅くなったのだろう。ようやく本日の主役が広間に姿を見せた。
昼間に同年代の令嬢令息を集めた会とは様相が異なる。軽やかな色を基調としているが大人びた意匠のドレスに身を包む少女は、金糸のような髪を結い上げている。そこに、ディアネイアも12歳の誕生日に身につけた髪飾りがシャンデリアの光を受けて輝いている。素材の質と意匠で魅せる髪飾りはこれから成人する少女の性質とよく調和していた。
時機が合わずなかなか顔を合わせられなかった3年間。背が伸びて輪郭がはっきりとしてきたうえに……否――笑顔は幼いころのまま変わらない……プロソディアスは、成長した妹の姿に安心や感慨を抱いた。
ヴァシレイアは祖父に挨拶を済ませると、続いて傍らのメロディに何か興奮と共に話しかける。メロディは目を丸くすると優しく眦を下げた。待機していた侍女から包装された小箱を微笑みとともに受け取ると包装のリボンを解いていく。
「ふふっ。誕生日なのは彼女ですのに」
「本当、ヴィヴィは自由だよね」
クロエも遠目からヴァシレイアの言動や思考を理解する。優しく妹たちを眺める婚約者に愛おしさをこめて目を細めた。
メロディは、小箱から――貴金属で華やかに装飾された掌より少し大きい壜を取り上げた。
透明な薄紫の壜に微笑むと、おそらく礼だろう、満面の笑みでヴァシレイアに何か告げた。
「香水か。オマセな選択だなぁ」
「もう。挨拶に来てくれたとき、揶揄わないで差し上げてくださいね?」
「考えておく」返答すると、諌めるように「アース」愛称を呼ばれた。
直後。
微かながらも――柔らかい音が快く響いた。
香水の蓋を開けたメロディは目を瞬かせ、驚きとともにヴァシレイアを見つめた。
ヴァシレイアはメロディの反応に表情を綻ばせると、少し離れた位置で椅子に座る姉ディアネイアへ視線を送った。ディアネイアは、年相応な愛らしい笑顔を見せた妹に微笑み返した。
姉妹のやりとりから、プロソディアスは姉が一役噛んでいたのだと察した。
一方。クロエは元主従関係のふたりの少女たちを視界に収めたまま、片頬に手を当ててうっとり息をつく。
「柔らかく波打つ絹糸のように艶やかな髪、宝石のような双眸、華奢に見えるも端正に鍛えられた身体……私が持たざるものばかり、まるで美しさの具現――本当いつまでも眺め続けられますわ」
すかさずプロソディアスは「おい、ちょっと待て」制止しながらクロエの腰に手を回して引き寄せる。
「憧憬を悪くは思わないが、俺の婚約者をそう卑下しないでもらえるかい?」
「仕方ないわ、比較するのはあまりにも酷ですもの」
「比べる必要などないさ。前提として見続けられるという点では、俺にとって君は十分に条件を満たしているよ、クロエ」
頬に当てたままのクロエの手の上から、自らの手を重ねる。ゆっくり体温が混ざり合う。
「あ、アース……」
「なあに?」
そっと額が触れ合った。
甘い眼差しが、ハシバミの実ごとく瞳を捉えた。手を振り払えず目を逸らせないまま、次第に頭部へ熱が集まっていくーーが、
「妹の前でいちゃつかないでくださいます?」
すぐ側には、不満そうに目を細めるヴァシレイアの姿があった。
「おやおや、これは主役殿。母上たちへの挨拶はよろしいのですか?」
「もう済ませてしまいましたわ。つまらないお時間を過ごさせてしまいましたのね、ごめん遊ばせ」
「そのようなご発言をなさるとは。晴れやかな日に、よもやご機嫌斜めでいらっしゃいます?」
「おわかりでしたら、もっと主役を祝ってください!」
プロソディアスはクロエを自分の腕の中から解放すると舞台がかった口調で答えた。頬を膨らませるヴァシレイアは、ドレスを両手で掴んで皺を作りながら愛らしい不満をぶつけた。
「はいはい、おめでとう」
「兄様っ?」
「今日だけでも祝われ過ぎて飽きているだろう?」
クロエは、大人気ない婚約者を押しのけるようにしてヴァシレイアに正対し、令嬢の辞儀をとる。胸に手を当てて制服の白いスカートを軽く引き上げながら、滑らかに祝いの言葉を述べていく。
「お誕生日おめでとうございます、ヴァシレイア様。春麗から朱夏へ移ろわん日頃に、ともにお過ごしする幸運をいただきました感謝をこめて心ばかりの贈りものを用意させていただきました。お喜びいただけますと幸いでございます」
「……あ、ありがとうございます」目を丸くするヴァシレイアに対して「ほら、正式なものに近いと言われ慣れてないから戸惑っているじゃあないか」プロソディアスが揶揄う口調で茶々を入れる。が、
「ヒストリア伯爵にお渡ししていたものは、ヴァシレイア様がお選びになったのですか?」
クロエは声量を上げて、彼の声がヴァシレイアに聞き取れないように自分の声を重ねた。
「はいっ! 姉さまに教えていただいて、わたしが意匠を選んだのです!」
「遠目からでしたが、素敵なものをお選びになりましたね」
「メロディ様に合うものを探したのですもの! あの香水、容器はもちろん、香りも素敵ですの!」
「まあっ、伯爵様に?」
「そうなのです! 可憐さとかっこよさを兼ね合わせていらして、繊細さの奥には力強い優しさがあるんです。それに」
嬉しそうに解説するヴァシレイアと熱心に相槌を打つクロエを横目に――共鳴されたら厄介だなぁ――プロソディアスは「ヴィヴィ。母様は何か言伝をしていないの?」わざと遮るように尋ねた。
ヴァシレイアは、兄を一瞥して息を飲むとクロエを見上げ直した。
「クロエ様、母上がお呼びです」
「は、はい! ありがとうございます、すぐに参りますわ」
慌ただしく離れていくクロエの背から視線を外し、改めて「3年間か……」妹がムジーク邸を離れていた時間に感慨を抱いた。
「なあ、どうだった?」
「何ですの、そのような質問は」
「一応、伯爵付きだったんだろ?」
「正真正銘、伯爵付き行儀見習いでしたわ!」
「そのくせ――メロディさまへの贈りものに最適なものがわかりませんの、それとなく聞いてくださいませんか? お願い、お祖父様――って。そう頼んでいたじゃあないか」
「結局は、わからんと言われてしまいましたもの。結局は姉様に協力していただけましたし、メロディ様が喜んでくださったのですから、それで良いのよ」
内容の反面どこか浮かない口調のヴァシレイアに対して、プロソディアスは労るような眼差しとともに軽く首を傾げて見せた。
「……わたし、不安なの」
「何かが怖いの?」
プロソディアスの問いにおずおずと首肯し、ヴァシレイアはゆっくり言葉を続ける。
「学術院の制服がクローゼットに加わって、ついに入学するのだという喜びや期待はありますわ。けれど……勉強も研究も、できる気がしないの……メロディ様のように思考できないし、イリスさんのように夢中になれるものがないわ。クロエ様のように実力を周囲に示せるわけでも無いし、姉様のように〝九瑞星〟を狙えるほどの才覚も無い。兄様のような器用さすら持っていない……わたしには何も無いのです」
言葉を重ねていくうちに声が上擦り震える。
化粧をしていなければ両頬を包んで妹の顔を上げさせるところだが、これだけ準備に時間が必要だったならば多少は化粧しているはずだと判断して、控えた。代わりに、プロソディアスは膝を曲げて曇り模様の表情を覗き込みながらドレスを掴んだ両手を優しく取った。
「上ばかり見過ぎて、疲れたのだろうね」
拗ねた眼差しを受けとり、姿勢を正すと大股で数歩だけ後退った。手を繋いだままだったため、プロソディアスの後ろへの数歩はヴァシレイアの前への7歩になる。
プロソディアスの鼻歌による旋律から、 夜想曲≪暁の声≫第5楽章月明かり であると理解したヴァシレイアは慣れた足捌きを、陽気ながらもどこか憂いを帯びる曲調に乗せる。
不意に
「人間は、どのようなものさえも歌にしてきたのさ。今は、ただ、恐れも不安も音楽に乗せれば良い」
ヴァシレイアは踊りを続けたまま兄を見上げる。
「それに、6年もあれば手放せなくなるくらい大切なものに出会えるよ」
プロソディアスはどうしようもなく強い親愛が込められた眼差しを妹へ向けていた。
普段は意地悪なところが目立つものの、やはり優しくて頼りになる自慢の兄である。根拠は無いが、胸を渦巻く不安は随分と和らいだ。
「さあ、かわいい主役殿。兄の言葉を、疑うのかな?」
「……少しだけ」
「んだよ、『信じますわ、兄様♡』くらい言ってくれよ」
「夢の中でしたら言えますのに」
「一度くらいは現実で聞きたいものだね」
プロソディアスが文句を言ったそのとき。
「ずるいです、兄様!」
勢いよくプロソディアスの腰部に衝突したカルテットは「僕がヴィヴィ姉様と踊るんです!」不満を爆発させるように地団駄を踏んだ。
「おっ? ヴァシレイア争奪戦か?」
プロソディアスはヴァシレイアの体を抱き上げて背に庇う位置にそっと下ろし、カルテットと正対すると「受けてたとう!」悪戯っ子のような笑みを浮かべた。
すかさず兄を避けて姉の元へ行こうとしたカルテットだったが、やはり兄が立ちはだかる。取っ組み合いとまではいかないが、兄弟は互いの両手を掴み合ってそれぞれ力を掛け始めた。
ヴァシレイアは思わず溢れた笑みから、素直もとい単純さを自覚しながら
「いけないわ、わたしのために争わないでー!」
晴天の笑顔とともに兄弟の遊びに加わって、3人は気まぐれな妖精たちのように、軽快な音楽とともに戯れ踊りだした。




