恋慕と歯切れの悪さ
ぱちりと蒼穹の瞳が覚める。いままで眠っていたのか、目を閉じていたのか、自分でも判断がつかなかった。いくつかの話し声が聞こえて、適当に声を出しておいた。
春麗祭を経て、社交に参加するようになった第二王子エミリオスは生徒会役員室で微睡む回数が増えた。
そのたびにアカキーア嬢が律儀にストールを差しだしてセルギオス少年は寝覚めにと温かい飲み物を用意するようになった。若干の申し訳なさはあったが、背は腹に変えられないし、こうでもしなければ午後の講義に影響が出かねない自覚があった。
実家が城下町で飲食店を営んでいるのだとセルギオス自ら話してくれたのは「王族の味覚を研究して将来の営業に生かしたい」という野望を明らかにすることでこちらにも利点があると知らせる目的があったらしい。身分は大きく違うが、ひとりの人間として関わろうとしてくれる。
この数年間で生徒会役員を務め続けてきたアレクシオス・イードルレーテーが作り上げた雰囲気は性に合っていた。王族として生きてきたエミリオスだが、なるべく今の空気間を崩したくなかった。以前、与えられてばかりいるのが心地悪いと伝えたところ、相互に利点があれば問題ないだろうと、セルギオスなりに考えてくれたのだ。
アカキーア嬢が「味覚を知ることができれば毒殺にも生かせますわね」と笑顔で言ってみせたときにはさすがにエミリオスは目を丸くしたし、セルギオスは顔を蒼くして表情を強張らせた。彼女があえて可能性を暴露したのは、自分の知る人間には決して誰かに危害を加えさせるような事態にはさせないという決意にも思えて、エミリオスは「未来の医学科〝九瑞星〟に期待する」とセルギオスが淹れたお茶に手を伸ばしてティーカップを傾けた。
他方、今はお茶の香りがしない。軽く目頭を押してから体を伸ばす。
「殿下……?」
今月中旬に6年への進級を控えた姉が席を外している今、その尊称が使われるのは室内では自分ひとりだけだと自覚したエミリオスは、早急に意識を覚醒させようと両手で熱を持った耳朶を包んで冷やす。
ソファーから離れた本棚の前にいた人影へ視線を向ける……ザハリアス・スパティエ伯爵令息が遠慮がちに呼びかけてきたのだとわかった。
意識を向けていなかったために何か聞き逃したか――エミリオスは体勢を変えずに「すまない。もう一度言ってくれないか?」とだけ言った。「いえ、何も申し上げてはおりません」返答を不思議に思ったエミリオスが視線だけ上げると、ザハリアスは何でもないことのように続ける。
「ご気分が優れないようでしたので。よろしければ話し相手になろうかと思いましたが……出過ぎた真似でしたか?」
イードルレーテー公子の不義には気づかないくせに……――意地悪な言葉が浮かんできたが、ザハリアスからすれば理不尽だと自覚していた。心情を見透かしたような口調は気に入らなかったが、そうされても仕方ない言動だったのだろう。
「あのふたりは?」
「アカキーア嬢とセルギオスですか? 今しがた、それぞれカルディアに向かうと出ていきました」
「彼女にストールを返しそびれた」
腹部に乗ったままの薄紫色を半分に折るとソファーの背に乗せた。ザハリアスは気の抜けた声を漏らしてから「明後日ならいますよ、彼女。渡しておきましょうか?」と言った。
「ならば自分で返すよ」
エミリオスもザハリアスも、所属は武術院伝統剣術学科である。応用学年なので自由選択の講義実技もあるが、ほとんど予定が重なる。放課後のカルディアは、分野は異なるが活動日は同じだった。アカキーア嬢にストールを返す機会がザハリアスにあるのなら、エミリオスにもあるのだ。
エミリオスの側近候補の少年は、ときおり表情ひとつ変えずに冗談のような何かを言うものだからどのような反応を返せば良いのか困ることもある。手を差し伸べていてくれていると思ったら急に身をひるがえして姿を消してしまうような当代スパティエ伯爵とはまた異なる難しさだ。
「妹は元気か?」
「はい。1年以上先の入学式に向けて今から張り切っています」
言葉は淡々としているが、わずかに緩む表情は隠せていない。「そうか」と相槌をうつと「何かお気にかかることでもありますか?」ザハリアスは手を止めずに質問を重ねる。
「春麗祭で見ただろう? 兄上はともかく、姉上は突飛なことを為す人ではないと思っていた」
ザハリアスは動きを止めると、改めてそれまでの作業を中断した。何も言わずに水差しを傾けてポットを満たし、白い直方体の機械の上に静置する。少し操作するとその場から離れて、棚からティーカップをふたつ用意する。〈セレマトロン〉シリーズのひとつである給湯機は、安全かつ迅速に湯を供給できる。慣れた手つきであればちょうど湯が沸いた頃に茶葉の用意が完了する。ザハリアスが茶葉を棚に戻した数秒後に機械から音楽が流れた。茶葉をいれたティーポットに湯を注いで蓋を閉じた。
何を指しているのか、わかった上での沈黙と無関心だろう。側近候補筆頭の彼がそれほど愚鈍だとは思っていない。話しやすい環境を進んで作ってくれる彼の意図を受けて、エミリオスは考えた末に言葉を続けた。
「少なくとも、幼少期の美しき思い出を自ら汚すようなことはしない。自らの欲のためにそうするとは思えない」
「でしたら、他に理由があるとお考えですか」
「……」
ぼんやりと銀髪の少女が脳裏に浮かんでくる。当時はまだ……太陽のような眩しい笑顔を浮かべる彼女は、まだ誰のものでもなかった――やめよう、考えても仕方ない――賢明でない思考を振り払おうと髪をかき混ぜてから勢いをつけて体を起こす。
ザハリアスが動きに気がついて一瞬だけ視線をやる。エミリオスは控えめに口角を上げて答えた。
「そう望んでしまっていることも否定できないな。だが、まあ、添い遂げることを考えれば物語のような、誰にも渡したくない相手を選びたいのも理解はできる」
「そうなのですね」
「君はどう思う?」
「そのような」
「ザハリアス」
公の場ではない、と視線で告げて逃がさない。
困ったように小さく肩をすくめると、遠慮がちに意見する。
「伝統や政略を蔑ろにするわけにもいかないでしょう?」
「不満があるのかい? 君の婚約者は才色兼備だとよく風に聞くぞ?」
「義務に感情が伴うとは限りませんよ」
「相変わらず悲観主義のきらいがある。ならば信頼を築けば良い」
当代国王夫妻が仲睦まじいのは有名だが、あくまでも政略結婚――彼らが幼少のみぎりに決められた、当時の情勢を安定させるための計略のひとつだった。
他方、息子としてエミリオスは、現在に至るまでふたりが上辺ではなく実際は深く繋がっていると感覚的に理解している。見せつけてくるようなことはしないため明言は難しいが、以前、誰かがそれを信頼と呼ぶのだと教えてくれた。
「相応の行動を取ってから不満を嘆くようにと言っているのさ。お前、初恋だって未だだろう?」
「……必要だとは思いませんから」
「若気の至りという言葉だってあるんだ。学生なら」
「殿下は何をお望みなのですか? 側近候補が『爛れた関係に溺れる?!』といった下賤な興味関心の標的になることを求めていらっしゃいます?」
ザハリアスは再び作業を進めつつ、エミリオスに視線を向けた。
正装のとき前髪が崩れないよう伸ばしているという鮮やかな赤が柔らかく双眸に掛かり、緑陰は涼やかを通り越して冷ややかだった。
エミリオスは両手を上げて「まさか、望んでいない」揶揄いすぎたと認めると、寂しそうに言葉を続ける。
「若いのは姉上だったらしい」
「……。それを論うのでしたら、イードルレーテー公子も無関係ではありませんよね」
「ははっ、そうか、確かにな! 〝九瑞星〟最有力候補殿だものなぁ、何を考えているのか……あるいは、引かれ合うのには根拠か相関でもあるのかな」
「明確な根拠を問われると困りますが……彼の、その異名がある意味では答えに導いてくれるかもしれませんね。〝神童〟〝希代の天才〟と謳われる由縁は、一般には到底辿り着けない思考の深淵に容易に手が届くとも取れますので」
ザハリアスが差しだしたティーカップを受けとるとエミリオスはぼんやりと湯気を眺めた。
与えられてばかりいるのが心地悪い――本当に手に入れたいものだけは得られずにいるから――理由には、とうに気づいていた。
事あるごとに設けられた、年少の王侯貴族が交流を深める場にて。
エミリオスは令息らとともにパズルや積み木で遊んでいた。他方、そのころから部屋の隅で一緒に書籍を読んでいる少年少女のほうを気にかけていた。もちろんシプリアナ王女は令嬢らと談笑とともに刺繍を楽しんでいながら、弟王子の様子には気づいていた。
また、気づいていたのは彼女一人ではなく「声掛けてきますか?」何の気なしに令息のひとりにも聞かれるほどだった。ただし、素直になれず余計だと言い放ってしまい続けた。
そのくせやはり同じ空間に居合わせると落ち着かない。
王城の図書館で偶然にも同席する形になったときも変わらない。少女が迎えに来た両親とともに退室してまもなく、
「エミリオス殿下」
それまでずっと少女の隣にいた少年が書籍を抱えてエミリオスのもとへ足を運び、一冊の書籍を差し出しながら
「こちらをお求めでしたか? でしたら、ずっと使っていてすみません」
「え?」
「お気に入りの1冊でして……つい、独占してしまいました」
「……構わない。其方の良いように」
困惑のまま答えると、勘違いさせてしまったらしい。少年は表情を引きつらせながら
「も、もうしわけございませんでした……騒がしくしてしまいまして」
「いや、違う。ふたりはほかの令息たちと比べればおとなしかったから」
「……そうでしたか。でしたら、その……何用でしたでしょうか?」
「何用でもない。気にしないでくれ」
少年を嫌っているわけでは無かったが、困惑したままでも構わなかった。当然、八つ当たりの意地悪である自覚はあった。
きっと勇気を出せば、隣へ行けるかもしれない期待はあった。
姿を見せた父親に駆け寄る途中で少女が転んだとき、エミリオスは思わず息を飲んで立ち上がろうとした。それとほぼ同時に「ミリィ……!」少年は叫ぶように呼びかけて少女へ駆け寄った。
エミリオスは彼をその光景を見つめたままそっと腰を下ろしてしまった。
少年が少女に手を貸して身体を起こさせると、少女の父親が娘を立たせて不慣れな手つきでドレスを整える。ドレスがきれいにならないうちに父親に抱きついて少女は顔を埋めた。その間に少女の父親と少年はいくつか言葉を交わすと、まもなく扉の前で分かれた。
エミリオスはようやく座りなおして書籍に向き直る。が、一連の行動を姉姫に見られていた。
「ねえ、リオ」
「違います……!」
どうにか歯を食いしばって我慢したものの、何かを否定せざるを得ない惨めさに涙が出そうだった。
事実として、手に入れる方法はいくつか存在する。
彼女を召し上げて王子妃にすることは不可ではないし、王族の地位を捨てて婿に入ることもエミリオスにとっては吝かではない。根回しや説得も困難は伴うだろうが目的の前にはいずれも些事に過ぎない。家同士の結びつきを強めるための政略結婚。黄道貴族の結束が強くなることに否を唱えるときは、自らの利が害される者たちだけだが、それくらいなら抑え込める自信ならある。
幸いにも、そのような手法や機転は近くに良い手本がいた。手本は、険しい道を進めるようにあらゆる手段や能力を駆使して手筈を整えていた。もちろん手本の手腕の素晴らしさは言うまでもないが、前例があるなら挑戦できないことではないように思った。
当の手本を相手取るのは、はなから無理だと諦めていたが、そうでないのならば……――だからこそ、エミリオスは自らが主役になる春麗祭におけるファーストダンスで、望んだ女性の手を取った。
卒業までの残り2年間で成就させるか諦めるか、決断しなければならないと自らに課すために。
仮に諦める結果になるとしても、初めて出席した公の場で踊ったファーストダンスの相手というのは公式記録にも人々の記憶にも残る……そのような計算を働かせていないといえば嘘になる。既成事実を作ろうとすれば他にも作りようはあるうえに、そうしたほうが望みを適えやすくなるが、今のエミリオスにはダンスの誘いが上限だった。
自ら寵愛し、剰え代母を務めた王妃が彼女を冷遇するわけがないし、周囲にそう見せるわけがないのは承知の上だった。
〝神童〟の代役を務め得る人材に選択肢は決して少なくないが、その中でもコンスタンティノス・カリス公爵令息は、これまでの傾向を考慮するとエミリオスが考える中では最も好機を与えてくれると信じられる人選だった。
もちろん自分がその座を得られなかった悔しさも彼女を蔑ろにした〝神童〟への憤りもあったが、本当に手に入れたいものを得るためには与えられるのを待っているだけではならないのだと気づいていた。
改めて、思考の深淵なるものが自分からは手を伸ばすのも愚かしいほど遠い存在であると痛感した。
「思考の深淵か……」
深淵に辿り着くにはどうすればいいのか。誰なら知っているのだろうか……エミリオスは考えようとして、強く頭を左右に振って、考えないようにする。
誤魔化すようにティーカップを傾けると軽く噎せて咳きこんだ。




