疑惑と決意
数日後――アンゼルム・イフェスティオが正式に逮捕された日。
ストラトスは周囲を気にしながら落ち着かない心地で総務省法務局管轄の第6資料保管庫に足を踏み入れた。第6は情報調査室専用の保管庫として使用されており、普段はここで担当官に纏め終えた書類を預けるだけ。入室するのは配属されて間もなく案内されたとき以来だった。
自らの行動そのものが後ろめたいものでは無いと認識しているが、それでも他の室員には知られたくなかった。
(何も無ければこれまでどおりで良いんだから……違うことを確かめるだけ。本気で疑ってるわけじゃない。)
すでに王城の法務省保管庫を任されている担当官に徽章を見せて同意書に署名して入室許可を得ていた。今更ながら自分を納得させるようにひとつ頷いた。
足を止めて、わずかに緊張しながら周囲を見渡す。
面白みのない室内に、木製棚が並び、最近数か月分の国内各地で発生した事件の証拠品や捜査資料によって80パーセントほど満たされていた。これらのいくつかを自分が纏めた書類だと思うと心なしか気恥ずかしく、もうすぐ〝白亜の殿堂〟へ搬送されて収められるのは感慨深ささえ感じた。
改めて歩みを進める。
定期的に埃まで一掃するごとく資料が吐き出される保管庫だが、例外がある……――〝ハラジーアス家事件〟〝ハラジーアスの残滓〟などと総称される、国内で発生した多岐に渡る大犯罪のうちハラジーアス一家が関わっていたとされる事件群だ。噂話や浮説を含めると数百にも上るが、現在、公式では18件が認められている。
保養院や研究施設の運営に関する功績が認められ叙爵間近だったハラジーアス家の実態が、他人の寄せ集めによって構成された犯罪組織だと世に知られた契機は、数年前の〝城下の吸血鬼事件〟である。当該事件に伴う強制捜査によって終止符が打たれたとされているが、洗練された手法は以降の犯罪行為の手本にされて今もなお捜査機関は酷く頭を痛めている。
加えて、意識不明の状態で保護された当時のハラジーアス家当主と思われる男性は、捜査の結果、赤の他人の寄せ集めを一流の犯罪組織にまで育て上げた人物とは別人だと結論された。
洗練された手法の考案とそれを適える人材と資金の調達が可能である人物が野放しならば、大犯罪の再来は容易である。捜査機関は太刀打ちする術を持たなければ話にならない。そのため、類似事件が発生した際に迅速な対応を適える参考として関連資料の写しが王城に保管されている――……案内されたとき聞いた曖昧な記憶をもとに、ストラトスは部屋の最奥の棚の前に立った。
何が違うか聞かれたら何も言えないが、その棚に並べられた資料からは室内の雰囲気とは異質であるじっとりした緊張を感じ取った。
探している資料が見つかってほしい気持ち。在ってほしくない期待。
ストラトスは両手で何度か宙を掴んだり離したりして、最後にもう一度強く握りしめた。
休憩時間内にすべてに目を通しておくためにも迷っている余裕はほぼ無い。棚から目の前の資料を手に取って広げた。
酒場に誘われたときは嬉しかったし当日が待ち遠しくなった。
北西部の山育ちの健康体として、耐寒だけでなく酒豪の自負がある。出張帰りの疲れた体とはいえ潰れる心配はしていなかった。
案の定、ツァフィリオが最初に音を上げてまもなくティルクーリがやらかした。
無理やり酒瓶の蓋を開けようとして、中身を噴出させたのだ。身をかがめて勢いよく飛んできた蓋を避けたローガニスだったが、そのまま瓶内にあったはずの半量ていどを頭から被った。
「いやぁ、俺ほどにもなると水や雨じゃ物足りないね」
濡れた髪を片手でかき上げながら気障に振舞う彼に、ストラトスは「酒も滴る良い男ですか」ハンカチを差し出しながら続けてみた。すると「正解」だと相好を崩したもらえた。一方、ティルクーリは恐慌状態に陥っていた。瓶を抱えて真っ赤だったはずの顔を蒼くすると、謝罪しながら走り去った。
ローガニスに続いて立ち上がったストラトスだったが、酔いつぶれているツァフィリオを理由にたしなめられて待機する。おとなしく腰を下ろして先輩の背を見送り、テーブルに突っ伏せて寝息をたてるツァフィリオを眺めた。
それほど口数は多くないが頭の回転が早い気丈夫に見える一方、つい先日もその正義感に伴い感情を暴走させることもあるらしい。カハヴィに何も混ぜずに飲めるのに酒はあまり得意では無いらしいと意外さを感じつつ、ストラトスはグラスの中身を呷った。空になり、テーブルに置こうとしたそのとき――
「……アネッサ…………」
――手を滑らせてグラスが手から離れてしまった。
幸い、グラスは割れなかったが乱暴に置こうとしたときのように衝撃音が店内に響いた。周囲からの視線を感じて軽く辞儀をして誤魔化しておいた。
両手で包みこむグラスの生温さから、飲酒後の冷えとは異なる寒気を自覚する。
「どうした? 気分悪いか?」
「え?」
顔を上げる。
いつの間にかローガニスは胴体に泣きじゃくるティルクーリを引っ付けて連れ帰ってきていた。
「ごめんなさいぃぃぃ……本官は人様に迷惑しか掛けられない愚図ですぅ、生命体の風上にも置けない死んだ細胞……爪先ぃの、ササクレにも及ばない、矮小な……所詮は、しょせ、ん、人間様のお役に立てない哀れな存在、どうぞ削り去ってくださいぃぃいいいぃ……」
「はいはい、わかったから。謝れて偉い偉い」
「爪弾きに、さ、れても、ちゃんと……ちゃんと受け入れますぅぅ、でも、放置したりとか、床にじゃなく、屑箱に入れてください、お願いします、屑箱、入るので、屑箱ぉ……清掃する人が、清掃する方のお手間を」
「うんうん、大丈夫だよー。誰もそんなことしないよー」
「せ、先輩ぃぃぃ……!」
酔い泣きするティルクーリのおかげで、ストラトスの気分はだいぶ落ち着いた。水を満たしたグラスをふたつ差し出しながら、ローガニスに「アエネアスにはあまり飲ませないほうが良いかもしれないですね」苦笑交じりに意見を告げた。
「酒が入るとさ、いつもこんな感じなの? 拭いたばかりなのにもうベショベショなんだけど」
「初めて見ました、というか、一緒に飲みに来たの初めてです」
「えー、そうなん? 食堂で3人揃ってるとこ見たことあるよ?」
「ああ、たいてい昼は一緒です。良いやつらだってのは疑ってないんですけど、やっぱり、みんな経歴が違いますからねー。共通の話題がなかなか見つけられ無いんですよー」
やがてティルクーリも舟を漕いで静かになり、ローガニスとストラトスだけで盛り上がっていた。
一区切りついて4人が退店すると
「やだーっ! 一緒に帰ろうよー!」
「家の方向が違うんだって。俺とネロは正反対なの」
「なんでーぇ?? こっちでも帰れるよぉ!」
ついには足に引っ付いて歩行を妨害する。困惑の眼差しを向けられたストラトスだったが「……6人兄弟の末っ子なので許してやってくださいませんか?」良い善後策が思いつかず、よくわからないしわ寄せの了承を頼んだ。
「アエネアスくんは3歳か?」
「19歳だったような気がします」
「ははっ。酔いが醒めたら覚えてんのかな」
「さすがに、あー、どう、んー……」
法律を順守していれば外出時の飲酒可能年齢に達してから5年目だ。だいぶ羽目を外すくせにこれまで一切やらかしていないとは思えなかった。職務中の様子を考慮しようと思い返していると、不意に、視線を感じる……管を巻くティルクーリの頭に手を乗せているローガニスから優しいまなざしを向けられていた。
「2件目ですか? まだいけます!」
「あー、悪いね。こいつらもこんなんだし、また今度ハシゴしよう? それよりもさ、吐きそうなの我慢してるのかなって思ったけど、気のせいだったみたいだね。良かったー」
「あ……飲みなれない種類だっただけです、美味しかったですよ」
「ありゃ、山派だった?」
「生まれ育ちが山岳地帯なだけなので。どこで作られたとしても酒なら好きです」
やがて一向に改善されないティルクーリの態度にしびれを切らしたふたりは戦略的妥協を選択した。幼児をローガニスに任せて、退店のために起こしてからずっと道の隅でしゃがんでいるツァフィリオに「どうした?」と声を掛けると、
「お星さまぁ」
「……。歩ける? ほら。行くよ」
舗装路から星型のタイルを見つけて指さす同期の腕を引きながら、ようやく帰路につく。もしまた一緒に外出するなら酒よりも食事が中心になるようにしようと心に決めた。
「じゃあな、レヴァン! 気をつけて帰れよー」
「はいっ、今日はありがとうございました!」
「ははは、また行こうなー」
ティルクーリを実家へ、ツァフィリオを寮へ送って任を完了すると、ストラトスとローガニスは大通りの交差路で分かれた。
ストラトスは、振り返る素振りすら見せずにローガニスが夜に溶けたことに安心して来た道を戻る。
出張中。ある資料群を確認しているとき、10歳くらいの少女とネロ・ツァフィリオによく似た少年が映る写真を見つけた。裏面には、アネーシャ、シェッティルとふたりの名前らしいものがふたり分の子どもの字でそれぞれ綴られていた。
その場では補佐官相手に発見をごまかして他人の空似だと自分を納得させようとした。
しかし、今、寮に備えつけられた郵便ポストの署名を前にして改めて思う。
ネロ・ツァフィリオ
シェッティル
似ても似つかない名前である一方、その筆跡の特徴はよく似ていた。同じアルファベットに至ってはペン先の運びかたまで重なるのではないかと思うほどだ。
職務中に手伝ってくれることも少なくない。そのとき、よく紙に書いて問題や考えを整理してくれる。こうして確認せずともツァフィリオの書く文字をよく知っていた。
だからこそ、求めた資料を見つけてしまった途端、ストラトスは保管庫内で膝をついた。あいにく額を預けた棚の柱は木製だ。できればうんと冷えていてほしかったのに、生温い。
死亡者一覧の中に、アネーシャ・クロロスの名前を見つけてしまった。
ネロ・ツァフィリオの名前はないが、代わりに、数ページ前の幹部一覧には末席にペネロープ・ツァフィリオの名前が目についてしまう。
もしも……写真の少年と同期の青年が同一人物だとしたら?……この問いから生じた、保管庫に来る前に悶々と抱えていたものが思考の中で勝手に言葉に成っていく。昼に雑談として聞いた話までも、容赦なく疑惑に絡みつく。
ひとまず当該資料を棚に戻し、その場を離れた。
すべて覚えたわけでは無いが、写本作成のためには公的記録が残る。あいにく疑惑の濃度を証明する居心地の悪さを抱えられるほどの余裕はない。
廊下を足早に進みながら考える。しかし、どうすればいいか、答えが一向に見えない。目を強く閉じると鼻腔の奥に熱を感じる。
不意に。
思い出したのは、バルトロマイの保養院で楽しそうに話す青年のことだった。
文学には昏く、貴重な書籍の価値はわからなかった。しかし、盲目の彼がどれほどの時間と努力を費やして古書修復を続けているのか……その覚悟は計り知れない。
探偵という概念の始まりは、11世紀に生きた小説家ラスムス・オヴィが生んだ名探偵マルクス・Δ・リョンロートである。新聞記者として生計を立てながら執筆したシリーズ長編の第一作『熾天使が至る場所』は大陸中で空前の大ヒットを遂げた。やがて小説家として大成した彼は教鞭を取り熱心に教育に尽くした。その過程で、リョンロートシリーズに限らず、美術商や学生などを自らが作り上げた〝探偵〟として活躍させた。
捜査機関とはまったく異なる立場でありながら、彼らはいつも徹底した調査を実施する――たとえ、それが本来の職責に含まれていなくても〝探偵〟は尽力するのだ。
ならば、解明が職務に含まれている自分は何をして良いのか。
(疑おう、徹底的に。違うことを確かめられるなら、軽蔑されたって構わない)
いつ読んだかすら曖昧だが、『熾天使が至る場所』では最後、すべてが終わってから主人公は渚に佇み、水の波紋を静かに眺める。
この場面が印象的で、他の難しいところは覚えていない。
もし同期が何か偽っていたとしても、無闇に環境を荒らしたいわけではない。何かできることがあるなら力を貸したい。難しい話になったら協力できる自信は無いが、余計なことを忘れることはできる。また、隠しておきたいのだろうから余計なことをして周囲に暴露するようなことはできないと気を引き締めると、ストラトスはいつの間にか立ち止まっていたことに気がついて、改めて廊下を急いだ。
職務室へ戻ったとき、時計を確認すると休憩時間終了間近だった。
ひと息つこうとした次の瞬間、執務室から情報官が姿を見せる。
「軍務棟と学芸局。30分以内に戻る」
端的に補佐官に告げて、ストラトスと入れ替わるように退室した。扉を閉めて自席に着くと「どこ行ってた?」隣の席のツァフィリオから尋ねられ、過剰に肩を震わせてしまった。
「あ、いや。遅かった気がしただけ。大丈夫?」
「なんか……疲れてるのかな」
「何か手伝う?」
「きつかったら頼むかもしれない。でも、今はまだ平気」
「そうか。無理するなよ?」
当人に心配される居心地の悪さを感じながら礼を返して、椅子を引く。
ほとんど調査時間が確保できないことにストラトスが気づいたのは数時間後、職務の最中だった。




