最後の〝神隠し〟
5階へたどり着くと、ひとつだけある扉の先へ溶ける直前、ローガニスは拒絶の眼差しに睨まれた。
手を伸ばすが、寸前で鍵を閉められてしまう。壁1枚を隔てて足音が離れていく……件の鍵について使用可否を調べられれば他はどうだって構わない……扉を壊すことに躊躇は無かった。錠前を避けて3つ発砲し、密室をこじ開けた。
足元の仄明るさを思考から追い出し、室内を見渡す。床や机に積み上げられた書籍、棚、望遠鏡、模型、本棚――その脇に、ぽっかりと黒い長方形がある――近寄り覗きこむと、階下へ続く梯子があった。小気味良く音が響いてくる。
ポケットに押し込んだ紐の存在を思い出す。うまく使えばかなり早く降りれるだろう……が、証拠品ゆえに断念する。
拳銃を制服に収めて梯子を下っていく。身体にまとわりつく湿った冷気に包まれながら、万が一にも手足を滑らせないよう気を使いながら先方の音を頼りに急ぐ。
響いてきていた音が途切れる――聞いた音の総数と自分が下りてきた段数から残り段数を導き――0になったとき、足元より先を見下ろす。暗順応のおかげで、梯子はまだ数段あるが床まで2メートルも無いと分かった。
真下には、何かの輪郭がある。
梯子を水平方向に蹴って飛び越えるとともに最下層に着地した。輪郭の正体は気になったが――追いかけるだけで良い。ほかのことは任せて――最優先事項は変わらない。駆け足の音は依然として聞こえてくる。それほど距離は無かったが、開いてく。事を急いて失態を演じないよう最低限の慎重さとともに後を追う。
終わりがあるか不安になってきたころ、不意に段差に引っかかった。階段だと理解して高さと幅を確かめるように靴底を滑らせる。5階分といくらか下ったのだから、いくらか上がれば少なくとも地上に出られる。確信して駆け上がる。まもなく、その先から光が差した。
たどり着いたのは石の匣の中。
体を引き抜いて周囲を警戒するが、人の気配が無い。代わりに、いくつか並ぶ淡い光に視線が誘われて――水面に消える。
同時に、ここが、鎮守の森の奥にあった湖に浮かぶ小島だと理解した。
「マジかよ」
吐き捨てながら上着を脱ぎ捨てる。一緒に手袋も巻きこまれて外れたが、構わず光を辿って湖に飛び込んだ。
肌を鋭く刺激する温度に構わず潜水した先――沈んでいく何かを見つける。手を伸ばし掴んだ途端――抵抗する。息を止めたまま冷水に身を任せているわけにはいかない。引きはがされまいとしながら、湖面を目指す。
次の瞬間。
でたらめに振りまわされた肘が、運悪く、腹に重く入った。息を吐きだしてしまったが、どうにか冷静を保ち浮上を試みる。
指先の感覚はほぼ消えているが、幸い、抵抗は収まっている。今のうちに状況を打開したいが、息が続かない。すると、上方から何かが落下してくる。それに腕をつかまれ、湖面から顔を出した。
「先輩っ、大丈ぅわぷぁ――」
声で誰か把握した。
水中に見失う直前、ストラトスの制服の上着の襟首を掴む。
「上向け、手は水面」
幸い、アンゼルムは気絶している。岸へ移動するには都合が良い。
明かりを探して1周見渡したが……
「あちらです、中尉殿がいます」
「中尉って何人いると思ってんの」
「すみません、コニアテス中尉殿です」
左腕にアンゼルムを抱え、右手で後輩の襟首をつかみ、泳ぐ。耳に水が入って音が酷く反響する。何を言っているかわからないが、ストラトスの指差しをもとに人の声を目指した。
岸が近づき、ようやく人影が既知だとわかる。
後輩の手を掴んで岸に触れさせると、まずはふたりがかりでアンゼルムを岸に引き上げた。続いて、一旦水中にもぐり、上陸に苦戦するストラトスの足を抱えながら浮上する。その勢いを得たストラトスが上陸したすぐ隣、ようやくローガニスは自分の体を陸に乗せた。ふとコニアテスと視線が交わり、ひとつ首肯した。
直後。
コニアテス中尉はストラトスの胸倉を掴むと
「馬鹿野郎っ、水温いくつだと思ってんだ?!」
「……すみません」
傍らに置かれていた大量の大きな布巾を後輩の顔に投げつけて「ごめーん、庇えないや。結果的に助かったけどさ」ローガニスは耳の水を抜く。後輩から向けられる眼差しには「なんで僕は怒られるのに、って?」ニヤリと笑った。
「6年前に新兵訓練の必須課程から着衣泳が外されたからだよ。今でも訓練してんのは海軍方面だけ。やったことないでしょ? 氷点下の海を泳がされんの……ねぇ、コニアテス殿?」
「知識の有無が生死を分けることもある」
布巾を頭から被せられながら「……はい」ストラトスはしおらしく髪をかき混ぜられた。
「バーカ。そんな上着、濡れたらなおさら浮くわけないだろ。体冷やすから早く脱げ」
アンゼルムの世話をしながら、くしゃみする後輩に笑いかけるローガニスに布巾を押しつけながら仕事を取り上げると、コニアテスは手早くアンゼルムの体をタオルに包んで肩に担いだ。ローガニスは「お世話掛けましたね」後輩の頭に手を乗せながら立ち上がる。
不意に背後に明かりが灯った。
湖の中央の島に人影が揺れて、何かを拾うのが見えた。目を凝らすと、憲兵の制服に身を包んでいるらしかった。
「それ、本官のですーっ! 用が済んだら、こっちに持ってきてもらえますかぁ!?」
島の人影に向かって叫ぶと、明かりの点滅が返される。
「……は?」
「了解、だそうですよ。明滅符号、ご存じありません?」
「習って覚えましたけど、使ったことないです。想像よりずっとリズムが早くてビビってます」
「あんなもんでしょう」興味無さそうに告げるとコニアテスは「逸れないでくださいよ?」先頭に立って森に足を踏み入れた。
わずかな月明かりと白い布巾のおかげで見失うことは無いが、夜の鬱蒼とした森を進むのはなかなか気味が悪い。
「それにしても、よく明かり無しで森に入りましたね」
「灯籠なんて火種持ってくるほうが危険です。月明かりで十分見えます。さあ、急ぎますよ? 低体温症はもちろん、風邪ですら寝覚めが悪いんで」
早々に無言に耐えきれなくなって落ち着かないストラトスに気を使ったのか、年長者ふたりは会話を始めた。
「そういえば、なぜふたりはこちらに? 子爵邸宅のほうは」
「情報官殿たってのご依頼です。8年前にアンリが見つかった場所周辺にいてほしい、と。この坊やは、なんか……勝手に付いてきました」
「子爵邸の電話をお借りしてシリル先輩に頼めたので、情報官殿に報告しに行ったら森に向かった中尉殿を支援するようにと」
「支援って?」
「はい?」
「あー、言われなかったのね。聞いたほうが良いよ、具体的な内容。あの人、考えながら動いちゃう性質だからそういうこと多いんだよ」
「王都の方は無鉄砲でいらっしゃいますね」もはや呆れている中尉に対して「いえ、我々が上司に影響されてるんです」ローガニスは多くの王城勤務の名誉のため、弁明した。
「とまれ、お願いされたからって断れましたよね? 人手を削れる状況でもなかったでしょうに」
「邸宅内の捜索は本格化してましたけど、幸い、使用人たちは協力的でしたから。加えて……もう二度とこの地で起きる〝神隠し〟を見過ごさないために……なんて言われちゃあ断れませんよ。危険なのは承知の上でと前置きされてもね」
「なぜ中尉殿にだけ……?」
「あなたもアンリ・ブランザを気にかけているようだから……だとか」
「それは」さらに質問を重ねようとしたストラトスにかぶせて「そういえば、あのお嬢さん」コニアテスが続ける。
「ご自身の作戦にだいぶ自信が無さそうでしたけど、結局、実行したんですね」
「あー、残念ながら、引き金を握ってるの我々じゃあなかったんです。でも、彼が逃走を図るのは確信されてましたよ」
ローガニスの返答を受けて「ああ……なんらかの方法でこの湖に行くってのも、おっしゃってましたね」独り言ちると、
「何か……わかったんですかね」
「はい?」
「何に気付いてほしいのかわからないのが気がかりだと」
「……どーなんでしょうね」
やがて森を抜けると一行は車両に乗りこんだ。コニアテス中尉の運転で子爵邸へ向かう道中、気がついたアンゼルムは混乱していたが、到着するころには状況を把握して小さく蹲った。
駐車場にて。真紅の制服に身を包んで佇む少女は、降りてきた面々を確認して胸をなでおろした。
が、4人中3人が濡れていることへ気がつくと、
「子爵家の使用人が湯浴みの用意を進めている。それが済んだら最寄りの派出所へ行け。地元の医師が待機しているから念のため診てもらうように」
「はい? なぜ医師が?」
「協力が必要だから」
「はーい、必要ですね。それと、貴女も行くんですからね? 放置したらどうせ碌なことなさらないんですから」
「……庭園にいる。用意完了次第、来い」
「かしこまりましたー!」
誘うように先を進む少女の後に続きながら
「雑過ぎやしません?」
「反抗期でいらっしゃるんです」
ストラトスは後ろに続くふたりのやりとりに苦笑した。
駐車場から邸内へ移動する途中、
「アンゼルム様……!」
邸宅正門前から、学生時分の茶髪を結った少女が呼びかけた。隣には同年代の少年が寄り添う。アンゼルムは足を止めたが、一瞥すらせず、再び歩き出した。
その後ろで「あの子たち……」足を止めてローガニスはふたりを見つめる。「オデッセイとレイチェルですよ」コニアテスはアンゼルムの隣を歩きながら、すれ違いざまに告げた。
「えーっと、出張初日の夜、屋台にいた子たちですか? って、失礼、いませんでしたね」
「宿屋前なら正解ですよ。〝マグネシアス〟は、へ―ミッシュ一家の経営ですから」
メロディが補佐官を見上げると「あのー……ほら初日の夜。タルト、召し上がりましたよね?」補足が返された。
「だから歓待を申し出たのですか?」
尋ねながらアンゼルムの背を見つめる。傍らのコニアテスも彼へ視線を向けるが、何も返答が無い。沈黙を守ったまま邸内へ向かった。
メロディは、湯浴み組と分かれて庭園へ向かう。周囲は慌ただしい人の往来がある。足早に廊下を進み、外に出た。
数日もすれば完全に見えなくなってしまうだろう細い細い月明かりは、陽が沈むのと同時に姿を見せたはずだが、いつの間にか西の空へ消えている。代わりにぽつりぽつりと歩道に伴う街灯と、現場を明るく照らす電灯が暗闇を照らしていた。




