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星と波とエレアの子守唄  作者: 視葭よみ
再考とレクイエム
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ブランザ親子と証言

 聴覚と触覚を研ぎ澄ます。ただし、修復書籍(たいしょう)へ向けていると、意識を他には割けない。見えないことは弱点にはなるかもしれないが欠点にはならない――かつて父がくれた言葉は、今のアンリを形作っている。実際、五感のうち4つの鋭さには自負がある。

 指先が湿りを帯びたために紙面との摩擦に違和感を覚えると、アンリは糊の付いた筆を置いて傍らの布巾で両手を拭った。ひと息つきながら軽く柔軟運動をする。

 ふと、外が普段よりも騒がしいことに気がつく。

 気がついてしまうと、理由を知りたくなる。交通事故が何度も発生するとは思わないが、否定するために確かめておきたかった。

 自分に関係ある内容でなければ、この街を脅かす内容でなければ、きっと安心して作業に戻れるだろう……筆の代わりに扉近くに掛けていた杖を掴むと、作業所を出て鍵を掛けた。

 作業所は自宅から離れた場所にある。勤務する出版社との往来を考慮した立地だ。だから、自宅の最寄りとは別の派出所が徒歩数分の距離にある。関わるようになって2年目にもなると、所属憲兵や自警団員の声質など、彼らのことについておおよそ覚えてくる。


「本当に範囲は拡大前で良いのか?」


「まあ、そもそもこれが念のためにって言われているわけだし。最初のアンリの証言をもとにすんなら妥当だろ」


「それはそうだけど……負担が軽いなら願ったりだけどさ、でも王都の役人さんの判断じゃないか」


「役人は役人でも、〝氷柱の白百合〟殿だからな。つい先日こっち来たばかりだし、期待はできるかもしれない」


「そういうもんかぁ?」


 彼らの会話を、離れた場所から耳にする。

 〝氷柱の白百合〟が誰を指しているのか――花に例えられていること、つい先日バルトロマイにきた王都の人間――16歳にもならない少女の声に思い至る。

 根拠は無い。

 目的も無い。

 それでもアンリは、作業所の鍵を握りしめて、杖片手に自宅へ急いだ。

 まだ日は沈んでいない。朱夏と呼ぶにはまだ早い日頃だが、斜陽のもと軽い運動をすると全身に汗が滲む。冷たい風に急かされ息を弾ませながら、意識を周囲に巡らせつつ、ひたすら足を動かし続けた。


「私は……」


「背負うものを、すべて背負わせてしまっていたのだと思います。今更だと思われても、仕方ないとわかっています。それでも、少しだけでも、支えさせていただけませんか?」


 何か言いよどむ母と、ジャネット・カロケーリ嬢の……否、メロディ・ヒストリア伯爵の声が聞こえた。


「伯爵さま!」


 勢いのまま呼びかけると、衣擦れや身動ぎしたり体の向きを変えたりしたときの靴と地面との摩擦音などは、3種類――その場にいる人間は3名だと教えてくれた。母とヒストリア伯爵と、残りひとりは先日も伯爵と行動をともにしていた部下の男性だろうか……分析しつつ息を整えてると「どうされたのですか? おひとりでは」困惑する声、駆け寄ってくる軽い足音。アンリは下手に動かず、その場に留まった。1メートル程度の距離感を察すると「慣れた場所でしたら問題ないのです」簡単に答えて、


「それよりも、伺っておきたいことがあって、それで急いで参りました」


「本日は」


「いえ、それではなく、あれ? ああ、関係はあるんだと思います。でも」


「ごゆっくりで構いません」


 気がはやって上手く言葉を見つけられず、年下の彼女に落ち着くよう言われてしまい、アンリは自分の頭部に熱が集まるのを自覚した。髪をいじるなり首筋に手を当てるなりして誤魔化したかったが、生憎、右手に杖を持ち左手には鍵を握っている上、都合よく置き場所がないためどうすることもできない。


「時間があればいつでも確認できることではあるのですが、それでも、今がよかった――今じゃないといけないって、そう思いました」


「はい」


 まっすぐな、ひと言だけ。他には何も言わない。

 誠実な返事に甘えて、アンリは率直に尋ねた。


「なぜ、信じてくださったのですか?」


「はい?」


「僕には、今、目の前にいる伯爵さまがどのような表情をしているのかすらわかりません。目が見えていないとは、つまり、そういうことです」


「……はい」


「自覚してます。僕の当時の、父がいなくなった日の証言は、意味不明だったと思います。実際、数日後に内容を変えればすぐに無視されるような曖昧で価値の低いものでした。なのに、つい先ほど自警団員が憲兵と話しているのを聞きましたが、捜索範囲は拡大前で、その……」


「はい。あなたの証言を尊重したうえで、最初の捜索範囲で何も見つからなければ拡大範囲でも同様の結果だと判断しました――なぜ信じたのかというのは、この点に対する疑問でしょうか?」


「……はい」


「理由は3つあります」


 あまりにも凛とした迷いのない声に、若干の居心地の悪さを覚えたがアンリは身動ぎひとつせず続く言葉を待った。


「ひとつめは、本命の捜索場所では無いことに加えて、当時すでに大規模に捜索が行われたため新たな発見は期待できないと思われます。従って、人員は最小限に抑えたいと考えました。ふたつめは、母君に話を伺った際、あなたが父君の服装の違和感に気づいていたことから、当時の証言においてあなたが父君の足音だと判断されたというのは、あなたが盲目であることを理由に信ぴょう性が損なわれることではないと考えました。3つめは――わたくしが最後に父に頭を撫でられたのは、もう10年近く前のことです。それでも、あの温かさを鮮明に覚えています」


「……」


「最後のは、お恥ずかしながら客観性には乏しくありますが……わたくしには、あなたの最初の証言を疑うことなどできませんでした」


 当時、聞き取りを担当した憲兵には十分親身になってもらった。今でも気にかけてもらっているのは感じている。それでも、彼女になら……――「ずっと……」――心に生じた期待が、アンリに言葉を紡がせる。


「ずっとわからなかったんです……どのように話せばいいか、わからなかったんです」


「構いません。どれほど時間をかけても伺います。母君とご一緒にヒストリア家の食客として王都に招くのも辞しません」


 後半は本気なのか冗談なのか判断できなかったが、それを含めて、不思議と安心がもたらされた。耳に馴染んだ母の足音が聞こえる。いつものように優しく寄り添われるものの「アンリ……」不安が滲む声色だった。


「っくしゅ……」


「車、戻りますか」


「いや、問題ない」


「体調崩しますよ」


「崩さない」


 状況が異なれば、物語に登場してもおかしくないような気安い主従の軽口に聞こえた。すると、何か思い出したのか腕に触れる手に力が込められた――そっと母の手に自分の手を重ねた。


「あの……話をするのでしたら、どうぞ中へ。すぐに温かいお茶を淹れます」


 声色にはもう不安はなかった。

 言葉のとおり自宅へ招き入れて先日のようにふたりを座らせると、アンリは台所へ向かった母を追った。食器が何かに触れるたびに、固く冷たい音が響く。それらにまぎれるように、あまりにも優しい声で


「3の月のこと? それとも、8の月のこと?」


 前触れもなく、尋ねられた。否、聞かれるとは思っていた。捜査陣に話せていなかったこととなると内容は限られるし、いずれも当時は無理に聞き出そうとされなかったもののずっと母は気になっていたのだと想像に易しい。


「8の月」


「そうなの」


「言いたくなかったわけじゃなくて、言おうとしても……自分でもよくわかってなかったから」


「無理してほしくないわ」


「……うん。でも、思考に留めたままいるよりも言葉にしたほうが受け入れられる気がする」


 言葉や音が無くとも、痛いほどの心配を肌に感じる。「どれほど時間かけてもいいらしいから」気楽そうな口調で告げると「そうね」春風のような声に安心した。


「お湯、見ててくれる? 母さん、ちょっと探しものあるから」


「沸いたら淹れていい?」


「火傷しない?」


「しないよ。ちゃんと気をつける」


「じゃあ、よろしくね」


 足音が遠のいてまもなく、薬缶が騒ぎ出した。手探りで火を止めて、お茶を淹れる。湯を注ぎながら、重く漂うような香りから、ルノかアル・エグザルトのどちらかだろうと予想する。

 用意が整い、一式を来客のもとへ運ぶ。

 残り数メートル程度、ふたりの話し声が止んだが知らぬふりをして入室する。立ち上がろうとしたのだろう衣擦れの音を先ほどのように「慣れた場所でしたら問題ありませんから」と言って抑えた。


「12歳の夏でした」


 席に着くなり、まず、そう言ってから言葉を探しつつ続ける。


「狭い場所に閉じ込められる夢を見ました。長い長い夢です。暑くて頭がぼんやりとして、助けを求めたいのにうまく声が出せませんでした」


「それは……」思わず零れた言葉は、少女のものだ。同時に、目の前に座っているのが彼女だと理解する。


「前後を含めて記憶が曖昧なのは事実です。自室からどのように移動したのか、自分でも分かってないんです。まあ、このとき母が疑われたのは順当だとは思いますよ。家には僕と母だけでしたし、最初に僕がいないことに気がついたのは母でしたから。それでも、誰にも見られず森に移動するのは難しかったはずです。当時は夜中でも憲兵や自警団が巡回してましたので」


「ああ、犯人はお母さんじゃあないってわかってます」


 向かいの、少女の右隣から男声が軽薄な調子で、もっとも心配している内容を否定してくれた。しかし、訪問理由として最もあり得そうだと認識していた内容だったため「そうなんですか……?」声が上ずったのを自覚した。


「細かいとこを確かめるために再訪した次第でしてね」


「そう、ですか」


「ちなみに、なぜ夢だとお思いに?」


「なぜって……あまりよく覚えてないですし、思い出せる内容もはっきりしないですし」


 視線が定まらなくなり、少しずつ声量が落ちていく。今まで隠していた後ろめたさはあるが、それ以上に時間を割いてもらってまで価値のある話をできている自信が無い。誤魔化すように、手探りでティーカップを両手で掴んだ。指先がすっかり冷えていたことを自覚する。

 不意に、廊下から聞こえていたはずの足音が止む。聞きなれた母の足音。他に何も音が無い空間で軽く身動ぎした。

 すると、男性のほうが「失礼」と断りを入れてから立ち上がり、廊下に繋がる扉を開けた。直後、後ずさり、足音が離れていこうとする。


「父は騙されたんです」


 アンリは呼び留めるように、はっきり告げた。居合わせた人間の息を飲む音が聞こえる代わりに足音は消えた。


「母さんだって信じているだろう? だから、そのオルゴールを捨てられずにいるんだ」


 探しもの――見えていない息子のために、家は普段から徹底して整理整頓されている。探す必要がある物品はほとんど無い――来客を待たせてまで探さねばならないものは、アンリが思いつくかぎり、母の誕生日に父が贈ったオルゴール以外には該当しない。

 長い静謐を経て、


「心当たりがあるんですね?」


 目の前に座る少女は口を開いた。つぶやくような声量だったが、張られた声のように鼓膜に残る。ただし、その問いには答えられなかった。アンリには心当たりが無い。あるのは、母だ。

 思わずティーカップに触れる両手に力がこもる。

 やがて背後からふたり分の足音がすぐ傍らを通り過ぎて、近くの椅子が引かれた。


「夫人。あなたの旧姓は?」


 伯爵の問いの意図を読めないのはアンリだけではなかったらしく「……ルーベンスです」戸惑いを隠しきれないながらも答える。


「婚姻によって、ブランザになられたのですか?」


「ええ、はい」


「ゆえに、あなたは37に成り得ると認識しておりますが、いかがでしょう?」


 すぐ隣の母は息を飲むと、やがてゆっくり息を吐き出す。


「もう……おわかりになられたのですね」


「ご存じだったのですか?」


「彼が教えてくれたんです、あの暗号での意思疎通方法を。……私の両親は厳格でしたから、手紙のやり取りも慎重でした。最初は苦労しましたけれど。とはいえ、あのころも今も、彼のように文字を綴るよりも先には変換できません」


 恥ずかしそうにしながらも穏やかに話す母に「37って、あれのこと?」小さな声で尋ねると肯定が返される。それに重ねるようにして少女が補足する。


「37――元素記号のことを指しているとわかりましたので、ある程度の推測が成り立ちます。元素番号が37であるルビジウムの元素記号はRb……これは、Rubens(ルーベンス)からBlanzat(ブランザ)になった夫人のことを表そうとしていたのでしょう。詳しくは知りませんが、ガラスと化合させることで強度を上げられるようです。博士はガラス器具を良く用いて実験研究をされていたそうですね? 高度な実験をする上では強いガラス器具は不可欠だったようです。これらを合わせて連想した末に、最愛への言葉だったのではないかと、そのように推測しました。事実かどうか判断できるのは夫人のほかには一人としていませんから、確認させていただきたく思いました」


「……本当、いつまでも仕方ない人です」


 恥ずかしそうで嬉しそうで、しかし寂しそうな――初めて聞く母の声は穏やかに空気を震わせた。

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