影に生きるふたり
溜息とともに巻いた包帯を解く。もう何度目か……数えるのはやめていたことを思い出す。どうしても傷口に当てた保護布が意図せず移動してしまう。諦めようかと考え、制服に血が滲んだときの言い訳が面倒だから……同じ内容を考え直すのも、何度目か。
「あら、痛そう」
いつの間にか入室して隣の椅子に腰かけていた彼女に「ご明察です」と返しながら絡まりかけた長い包帯を上下に振ってどうにかしようと試みる。
彼女は、その手から包帯を抜き取ると、器用に絡まりとねじれを修正しながら回収していく。
「消毒はしたの?」
「そういうのって直後じゃなきゃ無意味でしょう?」
「バカね、だから治りが遅くなるのよ」
関係あるのか……と、人差し指と親指を広げたくらいの傷口を確認する。
受傷から1日以上は経過した。流血するほどではないが衣服との摩擦で周辺が赤く染まる。相応の疼痛だが、演技が綻ぶほどではない。
襲撃によって図書館の3階から飛び降りたのは間違いではなかっただろう。窓枠を足蹴に勢いを得て、先に放り出していた少女より急な軌道を経たことで庇える体勢を整えられた。直接地面に着地すれば腕に抱えた少女を庇いきれないと判断して外壁を蹴りつけて軌道を変えた先の樹木に突っこんだのも、悪くない判断だった。他方、そのとき、折れた枝が制服の上着の内側へ滑りこんでくるとは思わなかった。
ほかの方法で逃亡劇がうまくいった保証は無いが、たいして冷静ではなかった可能性を考える程度には反省していた。
「っ――」
「動かないで、消毒してるの」
「いりませんって」
「木の破片を腕に埋めこみたい?」
「自然治癒でどうにかなります」
「なった結果、埋没するんだってば」
「死にはしないでしょう」
「これが原因で潜入がバレるのは嫌でしょう?」
「どんな事態ですか……むしろ、遭遇したいです。どうやってバレるんですかね」
何と答えるか試そうとしたが「うん、私も思った」何も悪びれず意見を変えられてしまった。躱された不満を、怪我していないほうの肘をついて頬に押しつける。「ちょっと、動かないで」叱られつつ、手当ては同僚に任せることにした。おとなしくしていると「大変?」尋ねられて「真相をご存じで?」何でもないことのように質問を重ねる。組織内でも情報通だ。知っていても知らなくても構わないくらいの投げやりだった。しかし、彼女は口元の笑みを深めて手当てを進めるだけだ。何も答えない。心当たりが無ければ「知らない」と言えば良い。
〝天より光が導く先に何を見る?〟
豊かな赤髪が邪魔をして、手当てを進めている彼女の表情がよく見えない。
襲撃実行犯が口走ろうとした符牒は――終焉の――最初の単語から異なっていた。その先でどのように言葉が紡がれるのか知らない。符牒を知るならば、同一組織の所属に他ならない。同時に、符牒が異なるということは、別任務に就いているということである。ならば、知る必要が無い。一致か不一致か、それだけわかれば過不足ないのだ。
他方、この拠点でよく顔を合わせる彼女は慎重だ。尋ねたところで不用意に符牒を答えてくれるとは思えない。どのような任務に就いているかすら知らないが、話す機会があるから話しているに過ぎない。以前、彼女が他組織の諜報員である場合を考えてみたこともあったものの考慮しても負担が増えるだけで利点は無いと結論にたどりついてからは割り切った。仲間のひとりとして、それ以上でもそれ以下でもない存在として関わり続け、10年以上もすればさすがに双方ともに気が緩む。後に実は対立者だったと明かされても、彼女の忍耐と演技に拍手喝采するだけだ。
「じゃ、勝手に話してるんで。良い感じに無視してください」
息を漏らすような微笑を同意と受け取り、この数日間について、要約したものを話した。彼女はひたすら攝子で傷口から破片を丁寧に取り除いていく手を止めない。バルトロマイでメリッタ老人から改めて受け取った書籍を持ち帰って来たことに対する溜息はあったが、ほかは何も遮られなかった。
「もう。返してきなさい」
「どうせ読めないんですから、どちらにしろ」
指先で黒塗り書籍をつつく。
インクによって染め上げられたにしては無臭であり手触りは滑らかだ。ひとりになってから光にかざしたり燃やさないよう気をつけながら蝋燭を翳したりしたが、何も変化がない。メリッタ老人いわく未知の組成であり再現が適わない技術だという認識も、真偽を確かめるには実物が無ければできない。
彼女は納得半分、諦念半分のため息をつきながら消毒液をしみこませた布を傷口に触れさせる。
「制服にも血がついてない?」
「さっき取りましたーぁ」傍らのリンゴの芯を摘まんで見せながら答えた。「そう」とだけ返すと、消毒した傷口に保護布を当てつつ手早く包帯を1周させた。その調子で、一旦傷口を覆うような保護布を軽く固定させる。「ほかに困ってることは?」きつくならないように、しかし緩まないように引き続き包帯を巻きながら尋ねる。
「先代イフェスティオ子爵の事件ですかねー。楽勝だったらいいなとは思ったんですけど、残念ながら〝転移円陣〟の痕跡はありませんでした。幾何学模様も見つかりませんでしたし、少なくとも当該者の死亡には何も〝技術〟は用いられていないでしょうね」
「言い切れるの?」
「名探偵リョンロートの言葉どおり、密室破りの常とう手段は抜け穴ですからね。最初に疑いましたよ」
「犯罪捜査に従事する人間が物語を参考にするなんて。珍しいこともあるのね」
指摘されてはじめて物語どころか童話すら資料にしている事実がおもしろくなり、嚙み殺しきれなかった笑みが零れてしまった。「疑って、その先は?」彼女に促されて先を続ける。
「あの密室には、座標転移やなんらかの作用が与えられる円陣が作成された痕跡も、使用時に影響を受けるだろう周囲の物質変異も、何ひとつありませんでした。時間が経てばそれだけほかの証拠物件同様に痕跡は薄まりますが、3世紀すら経過していないのに何もおかしなところがないのはありえません。仮に邸宅内の別の部屋への転移が成されたとしても、結局、密室にいる子爵を殺す手段が必要になります。今回の場合は、服毒死でした。ならば苦労して〝転移円陣〟を用いて直接手を下すようなことをする必要性がありません。密室内への侵入可能な手段を用いて密室に入ったにも関わらずそもそも侵入の必要が無い殺害方法を選ぶなんて、馬鹿すぎるでしょう?」
「邸宅内に入る必要がある殺害方法だったのかもしれないわ。邸宅には入れたら十分だとしたら?」
「ならばまず子爵を密室で殺害する意味が無いでしょう」
「意図したとは限らない。遠隔で毒殺するなら、対象者がいつどこで服毒するか正確にわからないもの」
「であればなおさら、邸宅内の人間による犯行かそれ以外のものによる犯行か、方法がわからねばその方法を誰が用いたのか論じられません。誰がそのなんらかの方法を用いたのかわからねばどのような方法が用いられたのか考えつかないものです。そもそも、用いられて無いんですって、そういえば。考えても無駄なんですよ、使われてないのは確かめたんですから。というか、先ほどから自分が何言ってるのか、わからなくなってきました」
「ふふっ、本当あなたこういうことは苦手ね」
「あいにく名探偵ではありませんからね。……まあ、あれですよ。子爵殺害に関して我々は何もしていないのでしょう」
「ゆえに殺されたのかも」
「もちろん、その可能性は否定しません。ということで」
彼女に黒塗り書籍を差し出しながら「手伝っていただけませんか、解読」告げた。「専門外よ」と返されたが、構わず笑みにそれを乗せると「どのような暗号かしら」書籍は受け取られた。
「天才と謳われた男の研究です」
「〝最期通牒〟?」傍らに置いた黒い物体へ視線を向けながら、包帯を巻き進める。
「いえ。あー。まあ、似たようなもんでしょう。死ぬ間際まで続けられたってのは同じです。ディオン・ブランザって名前、聞いたことありますよね?」
「ブランザ……ああ、学園の後輩だったわ。彼の研究なのね」
「内容をご存じで?」
「いいえ、残念ながらね。いつかの〝すずらんの会〟で学術院の同期生が彼の才能を高く評価していたの。だから少しは覚えている……遺体は見つかったの?」
「いいえ。なので、失踪として扱われています」
「それなら死んでいるとは限らない。案外、身近で活躍しているのかも。ほら、最近〝アーニィ〟の――そう、マッティ・メイカライネン! この名乗りだって、わざと北方の言葉を用いているだけで出身を覆い隠そうとしているだけなのかもしれないわ。実際、メイカライネンが注目され始めた時期と博士が消えた時期はおおよそ一致するでしょう?」
「可能性は否定しませんよ、想像は自由ですから」
「貴方、すでに博士は死亡していると思っているの?」
「それもまた否定できないでしょう?」
「悲観的ね」
「根拠のない楽観よりはマシですから」
「あら、大人ですこと」
その言葉とともに包帯の端の処理が完了した。
彼は机に両腕を乗せて突っ伏せるようにしながら、彼女を見上げる。瞬かれる瞳を見つめながら「ヒント、ひとつくらい良いでしょう?」若干、鼻にかけた声で期待した。
彼女は、見つめ返しながら軽く首をかしげて微笑む。
「私、答えどころか詳細を知らないの。使用された毒物も、当時の人員配置も」
「……マジっすか?」
一瞬だけ笑みを深めると、彼女は立ち上がり書籍を手に取った。
「保護布、定期的に取り替えてね」
体勢を変えず、退室するその背を眺めた。ため息とともに机に上半身を預ける。
流星ごとく思いつきに振り回されるのは案外、体力が必要だ。先んじて情報をえられれば、おおよそ言動を予想できる。対応しなければならない内容がわかれば苦労も軽くなるのだが、今回はそう甘くなかった。
黒塗り書籍の調査を任せられただけ良いと自分を納得させて天井へ両手を伸ばす。深く息を吸いこみ、ゆっくり吐き出した。
(……〝孤高に彷徨う魂ありし日に儚き花が燃ゆる幻想に酔わされる〟)
言葉を操り、その先に文化を作り上げる。符牒もまた延長線上にある。
この言葉を初めて聞かされたのは訓練期間を終えてまもなくだったが、実際、当該任務に就いたのはそれから10年後のこと。春麗と朱夏の狭間だった。
「諸君。この少女の死こそ我々の敗北の証明である」
当時の御上は端的に告げた。
応じるように資料の写真を見つめる。いつものことながら、視線は向けられていない対象者の写真だが、人相や体格は把握できた。また、資料には少女の生国に関する情報もまとめられている。
数字だけを見れば、一見、大陸では中堅国といったところか。しかし、技術力に関する輸出や独自と思われる知識体系については超大国を名乗れるそれである。どこかいびつな、否、整然と……そう、異様に巧みに整えられた印象だ。
「詳細は各自確認するように。殺害された社会学者の分析を要約する……永世中立を宣言する当該王国だからこそ、建国の功臣の家門であり王妃の寵愛を一身に受ける彼女が殺害されたとなれば徹底調査は当然だろう。その過程で他国の介入、殊に外部侵略を進める帝国の思惑を知れば容赦無用の徹底抗戦を選択すると理解に易しい。また、そうなれば数百年にも及ぶ条約締結による中立化は対帝国連合に転化され得る。帝国も属国や同盟国はあるが、これは王国の条約連合に拮抗する。また、王国は大陸屈指の文明大国であり独自の技術体系を持つ。我々が知らぬ兵器さえも大戦に持ち出されかねない。故に、大陸全土を巻き込む大戦へと発展すれば大陸が焦土と化すことは避けられないだろう――したがって、我々は必ず少女暗殺を阻止せねばならない。了解しろ」
彼の隣で同じ話を聞いていた相棒が「期間は?」礼儀を弁えず問う。
「来たるその日まで」
対応するような、面白みのない返答。
碌でもない命令はいままでも受けたことがあった。しかし、専ら情報収集あるいは事故に見せかけた暗殺が内容だった。今回は子ども相手であり、なおかつ御上は「守れ」との仰せらしかった。
まだ10にもならないだろう少女は殺さずとも死にそうな印象だ。頼りない線の細さも希薄過ぎる色素も、年齢に見合わない儚さを構成している。否、儚さよりも心の奥底にある不安を刺激する雰囲気を纏っている。
「ヤべェことになるから暗殺を防げ、って言えば伝わるものを長々と……」
「それじゃあ格好がつかないんだよ。君だって見栄を張りたいときはあるだろう?」
相棒は軽く肩をすくめると、再び資料に視線を落とす。
「まだガキじゃねえか。御守させるったぁ、ついに人員不足が顔をのぞかせたらしいな」
鼻で笑いながら規則どおり資料を焼却する。
彼の言うガキというのは、自分たちなのか、写真の少女なのか、どちらを指しているのかわからなかった。が、いずれにしろ否定するつもりは無かった。