〝真実の愛〟による破談
物語の始まりは決められているからこそ、終わりかたは決められると願い、生きて、果てる。
ただそれだけ、そういうものだ。
メロディ・ヒストリアは、ダクティーリオス王国の貴族として政略結婚に反発する意思はなかった。
「真実の愛を貫かせてほしい」
星暦1683年4月のある昼下がり。職場にまで足を運んできた婚約者アレクシオスが、そう言って頭を下げるまでは。
実は、メロディはアレクシオスを執務室に招き入れたときから違和感に気がついていた。絶妙に目が合わなかったのだ。それは席を進めて腰を下ろしてからもだった。すると急に頭を下げられ、驚く間もなく、告げられた。
プロポーズともとれる言葉選び。言いかたが異なれば〝氷柱の白百合〟と謳われる冷徹伯爵だとしても長年の婚約者相手ならばそっと眦を下げて同意を示しただろう。
しかし残念ながらメロディの思考には、お花畑は広がっていない。目を合わせてくれないのは、急に頭を下げられたのは……婚約者の罪悪感と容易に結びついた。
時計の針が時を刻む音が、ともに思考を進める。
虚空を眺めるように婚約者のつむじが視界に留まったままにしておくわけにはいかない。何か言わねばならない。真っ白な天上に言葉を探す。
慰めるにしても怒りをぶつけるにしても情報が足りないように思い、メロディは再び視線を下ろした。彫刻のような婚約者に問いかける。
「それは、要するに……そのためには、婚約を解消する必要があるのね?」
「……」
「あなたは、それを望んでいるのね?」
「大変申し訳なく思っている」
「お気になさらずに」
メロディは努めて感情を抑えて答えた。
こうした非公式の場を設けたのは、なぜか考えてみた。破談を伝えるのを避けられなかろうと、なるべく傷つけないように気遣ったのだろうか。
改めてメロディはアレクシオスの優しさと誠実さらしいと思った。怒りはわいてこなかった。代わりに慰めようとも考えたが、自分の役割でなければ資格もないと思い至った。簡潔に用件を伝えるだけに留めることにした。
「この時期ならば、春麗祭には間に合うわ。破談に関する書類は急いで用意する。明日にでも送るから、あなたも対応をおねがい。公爵閣下へのご説明は」
ようやく顔を上げたアレクシオスはそっと眦を下げた悲し気な笑みを浮かべて、また下げた。意味を図りかねたメロディが尋ねると彼は軽くかぶりを振った。
「君らしいと思っただけ」
「誉め言葉かしら」
「好きに受け取ってくれて構わないよ。ただ、普通の令嬢みたいに、掴みかかって怒鳴ってもおかしくないかなって。それか、うん、気を失って倒れるとか」
「なあに、それ。ヒストリア伯爵に普通の令嬢像を求めるの?」
おかしさに気がついたのか、メロディもアレクシオスも抑えきれず笑い出した。破談を突きつけた者、突きつけられた者としては、奇妙なほど穏やかな空間が作り上げられていた。
ふと視界に入った新緑の瞳には影がかかっており、笑いは引っ込んでしまった。それに気がついたアレクシオスはメロディを見つめ返した。ようやく初めてメロディの瞳とアレクシオスの瞳が交わった。
「君は、優しすぎる」
「……。ふざけないでちょうだい。わたくしを捨てるなんて、許さなくてよ!」
いつかふたりで見た舞台に登場した、苛烈な令嬢役を参考に「後悔なさっても遅いんだからね?!」とつけ加えた。しかし、目を丸くするアレクシオスが相手では堪えきれず、再び笑いがこぼれた。
「そういうところさ」
「あとは、そうね。あなたを殴って、それから金切声をあげようかしら」
「僕は構わないけれど」
「ご冗談でしょう? 休憩時間に、みずから職務へ悪影響を与えるなんてしないわ」
すっかり衝撃と緊張が和らいだメロディは居住まいを正した。個人的に聞いておきたい内容を尋ねる覚悟が決まった。破談にともなう対応には無関係だが、どうしても知らないままではいられなかった。
両手を握りしめて震えないよう心掛ける。
「わたくしがこんなだから、嫌になったの?」
「違う、嫌いにはなっていない!」
アレクシオスは驚いたように立ち上がりながら叫んだ。謝罪とともに座りなおすと、気まずそうに続ける。
「嫌いにはなっていないよ。君のことは大切に思っている。でも、アナは……別の意味で、特別なんだ」
「どのように?」
「彼女をお守りしたいんだ。必ず、幸せになってほしい」
「必ず……?」
「ああ。絶対に幸せになるべき方だから」
「なぜ?」
「そういうものだから、どうして願わずにはいられようか」
意地悪のつもりで質問を重ねると、真摯な瞳があった。そこには、メロディの戸惑いの笑みが映っていた。
さしたる根拠なく、確度の高い言葉を使うのはアレクシオスの意図だと察した。別れを切り出した以上、メロディが嫌う言葉を多用して嫌われようとしているのではないかと思考が至った。
職務柄ゆえ悪意や嘘には敏い自覚がある。しかし、アレクシオスの言葉からは一切感じ取れなかった。ならば、信じるほかない。傷つける意図なく、しかたなかったのだと。
このまま向かい合っているのは苦しく、制服の上着を脱ぎながら「とても素敵ね」と小さく告げるだけで精一杯だった。
もうこの場では話してはいけないと思った。誰だって人間関係で辛い思いなんてしたくない。これ以上は傷を深める危険すらある。もう何を言おうと結果が変わらないのなら、口を閉ざしたほうが良い。
窓は採光のためであって解放できない。メロディは上着をソファーの背に掛けると、必要な書類はすぐに用意するとだけ伝えてアレクシオスを残して執務室を出た。
幸い、室員たちはみな席を外していた。言い訳を考える猶予があると安堵した。
(立派なものは不要でしょうけれど……)
おもいつきで廊下を進みながら、追いかけてくる気配がないことに安堵と惜しさを感じる。必要な認識共有が容易である相手だということに。わかりあえた未来がもう手に入らないことに。
悔恨に、政略結婚という契約を果たせなかった現実が覆いかぶさる。婚約には当人の意思はなくとも、少なくとも両親からの期待はあった。
人気のない王城奥の庭園へたどりつくと背の高い生垣を進む。
幸いにも銀時計はベストに着用したままだった。休憩時間が終わるまで、あと数十分ほどある。それまでに心は凪ぐだろうか。いや、それまでに波を鎮めなければ仕事に戻れない。
穏やかなそよ風に慰められながら謝罪の言葉に代わって子守唄を口ずさんだ。
「綾なす波に……誘われ、炎にくべた言葉……集めて旅路を、紡ごう、か……」
1675年に結ばれた婚約は8年後に果たせなくなった。努力が足りなかった。勉学や剣術ではない、心を繋ぎ留める努力だ。家門を守るために戦ったことに後悔はないが、期待に応えるための努力を蔑ろにしていたことに気づかされた。
「……とこしえ、待てず、影……は、征く…………凍りついた静けさは、焦がれる地に綻ぶ花……」
大好きな家族からもらった縁を、自らの努力不足で手放す。その結果が、どうしようもない不甲斐なさとして熱を生じさせる。膝を折ると、もう耐え切れなかった。
「あせない調べにつつまれ、て……ささやかな風にゆられよう……」
歌詞を紡ぐごとに頭部の熱がほどけていく。重力に従う涙が穏やかな風に冷やされ、地に落ちる。歪んで、解けるのがただ繰り返される。2番まで歌い終えれば落ち着くだろうと目途が立ち、メロディは1番の続きを口ずさむ。
「重なる声が――」
「―――声があらわす」
重なったのは、低く澄んだ男声だった。メロディはとっさに両手で口を押えた。涙が手を伝うのも気にせず、耳をすませる。風に乗って歌詞の続きが聞こえてくる。
尾行を疑ったが、否、歌に誘われたのか。
「空白に響む……つくもの星……」
草を踏む音は歌詞とともに途絶えた。
一方、メロディの動揺が凪ぐには早すぎる。どうすることもできず、ただ声を抑えることに努めた。
「お体に障りますよ」
「……長居の意図はございません。どうぞそのまま、立ち去って忘れてはくださいませんか」
数歩ほど足音が近づく。気配がして目だけで右側を確認した。左手でハンカチが差し出されている。
「申し訳ないが、こういう性質です。返却不要、扱いは任せます」
受けとらねば去ってくれないらしい。反対に、受け取れば去ってくれるだろうか。
手を差し出すと柔らかな何かが触れた。
まもなく足音が遠のく。メロディは耳を澄ませて自分の鼓動以外の音が聞こえなくなるのを十分に待った。
そっと滑らかな表面を指先でなぞる。
シャツの袖口よりは上質だと思った。




